俺の同居人は普通じゃない


「――っ!」
 
 息が詰まって、目が覚めた。

 視界に飛び込んできたのは、見慣れた自分の部屋の天井。
 夢じゃない。これはちゃんと現実だ。

 ……なのに、胸が熱くて、ドクドクと心臓がまだ変な速さで鳴っている。深呼吸をしようとしても、息が浅くてうまくできていない。

「夢……だよな」
 
 掠れた声を出してみたが、驚くほどしっくりこない。
 唇に、柔らかい違和感と「触れられた」という感触だけが生々しく残っているからだ。
 誰かと、キスしてた……、俺。

 ただの気のせいだ、夢なんだから。
 そう自分を納得させようとして、隣に目をやった瞬間、思考が止まった。

 宵が、いる。
 俺の布団の中で、いつも通りの無防備な顔で寝ている。

 ……なんでだ。
 夢の中でのあの声と、今、目の前にある穏やかな寝息が、頭の中でピタリと重なった。

「はぁ、意味わかんないな……」
 
 独り言を呟くと、宵の耳がぴくっと動いた。
 すると、眠ったままの宵の指先が、探り当てるように俺の手をぎゅっと掴んでくる。
 決して逃がさないという意志を感じるほどの力強さで。

「……っ」
 反射的に、息を呑む。
 宵はそのまま、また眠ったようだが、繋がれたその手は、最後まで離れなかった。

「もう、なんなの……」

 この手を振りほどけない。いや、心のどこかで振りほどきたくないと感じている自分に、嫌悪感を抱いた。
 それに、胸の中が静まらない。怖いのに落ち着くのも、意味がわからない。俺は、そっと視線を逸らした。
 これ以上考えたら、どこまで連れて行かれるかわからない気がしたからだ。

 ……たぶん。
 俺は、まだ、『普通』でいたいだけなんだ。
 そう自分に言い聞かせて、そっと目を閉じた。
 
 **

 朝、目を覚ました瞬間から、いつもの『儀式』が始まった。
 宵は当然のように俺の上に乗っかって、顔中にキスを落としていく。
 
 俺は――本当にもう慣れてしまっていた。
「口にはしない」という約束を、宵が律儀に守っているから、というのもあるけれど。
 
 けれど、一応言っておく。
「またー? 朝から、やめてくれよ。毎日そんなにする意味ある??」
「なおや、よく寝てたから」
「それ関係ないって」
 
 以前の俺なら、もっと本気で嫌がっていたはずだ。
 けれど今の俺は、やめろと文句を言いながら、逃げてようともしていない。
 むしろ、これがないと「あれ?」と思ってしまう自分がいる。
 そのことには気づいている。
 ……俺、やば。

 **

 大学でいつも通りに講義を受けている。……はずなんだけど、なんだか世界に薄い膜が張っているような感覚が抜けない。
 ノートに文字を書こうとしても、ペン先が滑ってずれてしまう。力を入れているつもりなのに指先にうまく力が入らないのだ。
 講師の声も聞こえてるはずなのに、ワンテンポ遅れて耳に届く。
 ふと窓の外に目をやると、いつもと空の色が違う。夕方ではないのに、くすんで見えた。
 
 ――あの夢の中の空と、似ているな。

 そんなはずはないのに、そう思ったら、落ち着かなくなった。
 目の前の現実がだんだん薄くなっていく。代わりに昨夜見た夢の中の匂いも音も、鮮明だった。

 ――何かが、おかしい。

 気づけば、今日の講義はすべて終わっていた。
 帰ろうとして校舎を出ると、門の陰にあの銀色の頭が見えた。
 
(やっぱり、いる)

 以前なら、「迎えに来るな」と迷惑そうに言っていた。人目は気になるし、正直面倒だった。
 
 けれど、今は違う。
 宵の姿を確認した瞬間、自然とすっと心が落ち着くのがわかってしまった。

「……今日もきたの?」
「なおや、ひとり、よくない」

 反論しようとして、言葉が喉に詰まった。
 来てほしかった、なんて思っていない。
 それは、本当だ。
 
 けれど、来てくれて、よかったと思っている。
 
 その事実を、もう認めるところまで来ていた。

 **

 二人で、手を繋いで歩く帰り道。ふいに、宵が俺の袖を引いた。
 
「なおや、神殿いこ」
「……コンビニな」
 
 即座に訂正したが、宵は不満げに眉を寄せる。
 
「ちがう、あそこ神殿」
「だからコンビニなんだけど。まあいいや」

 宵は真剣な顔で、指折りながら答える。
 
「おそなえいっぱい、ある」
「弁当とか、菓子な」
「くじ、ある」
「一番くじな、その神殿でほしいものあんの?」

 宵は俺の袖をさらに強く引っ張った。
 
「くじ、やる。きつねの、ふわふわの」
「ん? ……あぁ、あのぬいぐるみの?」

 思い出した。ゲーセンでとった狐のぬいぐるみのことだ。
 コンビニに入ると、宵は目を輝かせた。
 例の狐のキャラクターグッズがずらりと並ぶ棚へ、吸い寄せられるように向かっていく。
 
「やるの?」
「やる」
「一回だけな! 約束だ!」
 
 券を持ってレジに並ぶと、上目遣いで見つめてくる。
 
「……なおや」
「……はいはい、分かったよ」
 
 結局、財布を出すのは俺だ。
 結果は、小さなラバーキーホルダー。狐のキャラクターが笑っている。
 宵はそれを手のひらに乗せて、しばらくじっと眺めてから言った。

「……ちいさい」
「当たりじゃないの? 文句言うな」
 
 それにしても、なんでこの狐のくじやってるって知ってたんだ。
 
「はいはい帰るよ、神殿は満足ですか」
「うん」

 ……だから、神殿じゃないっての!
 
 再び二人で歩き始める。夕暮れで、家の近くまで来たときだった。

 急に風が強くなり、唸りを上げた。
 冷たい風が足元から巻き上がり、顔にもその冷たさが当たった。
 
 突然、宵が足を止めた。
 
「宵……?」
 
 呼びかけても、返事はない。
 宵は空を見上げたまま、動かなくなった。
 まるで、遥か遠い場所から届く微かな声を聴いているような、そんな静けさ。

「……このかぜ、にてる」
「何が?」
 
「しろい、ぎん。(りん)の音、……なって」
「りん? なんの話?」

 問いかけると、宵がハッとしたように俺を見た。その瞳は、一瞬だけ金色の光を帯びていた気がした。
 
宵ノ原(よいのはら)……」
「なにそれ、どこの話? 地名か?」

 俺が笑い混じりに言うと、宵は困惑したように眉を寄せた。
 
「わかんない……。ただ、かぜが……」

 すごく気になったが、俺は深掘りせずに宵の手を引いて、黙って家へと歩いた。
 理由はわからない。
 でもここで聞いたら、ダメな予感がしたんだ。

 
 少し歩いたところで、ふと気づいた。
 風が止み、周囲の音が遠のいた。
 そして、影の暗い部分がじんわり濃くなっている。
 
(うわ、なんか嫌な感じ)
 
 繋いでる宵の手に力が入った。ぎゅっと握られて、反射的に横を見ると、宵の目は鋭く冷たくなっていた。
 
 ――夢の中の『綾空』のように。
 
 けれど、それは一瞬の出来事だった。次の瞬間には、いつもの頼りない宵に戻った。
 
(まただ……)

 俺は口には出さなかった。

 夢の中の何かが、確実に現実に滲み始めている。
 俺は、それがたまらなく嫌だった。
 
 **

 帰宅し、夕食を終えた後のことだ。
 食器を洗っている俺の背中でおばあちゃんが、何気ない様子で声をかけてきた。

「そういえば、尚弥。来週は狐灯(きつねび)まつりよ」
「きつねび……?」
 
「ほら、この辺りで毎年やってるでしょう。灯籠に火を灯して、みんな狐の面をつけて歩くのよ」
「あー、あれ小学生の頃行ったきりだな」

「宵くんにも見せてあげなきゃねぇ」
「なんで宵に……?」

「あの子好きだと思うわよ、ああいうの」
「ああいうのって何?」
 
 おばあちゃんは、ただ意味深に微笑むだけだった。
 
 拭いた皿を置く。何かわからないが、少し鳥肌が立った。

 ――狐の祭り。
 ――宵。

 偶然だと言い切るには、あまりにも役者が揃いすぎていた。