俺の同居人は普通じゃない


 夕闇が街を包み込む頃、俺たちはようやく家へと帰り着いた。
 歩き疲れた足取りは重かったけれど、繋いだ手のひらは、いつまでも離したくないほど心地よい温もりを持っていた。
 
「今日は……まあ、楽しかったな」
「なおや、よかった」

 ふわりと笑う宵の笑顔を見て、俺は素直に思う。
 俺はもう拒否していない。ただ、流されているだけでもない。
 
 俺は――宵と過ごす時間を、心から「楽しい」と思っている。
 その事実を自覚してしまった自分に、少し戸惑いを感じていた。

 風呂を済ませ、明かりを落とした部屋は静かだった。昼間あれだけ歩き回ったせいか、身体にほどよい疲労感がある。
 布団に横になると、すぐに気配が寄ってくる。背中に宵の体温が当たった。……もはや小言を言うのすら面倒になってくる。
 
「お前、今日も一日くっつきすぎじゃん」
 
 俺の呟きには反応せずに、宵の腕が伸びてきて、腰のあたりを囲う。そのまま、ぐいっと引き寄せられた。
 
「ねぇ、だから――」
「ねよ」
 
 宵が短く言い切り、俺が反論を口にする前に、背中に彼の額が当たる。
 ……あったか。
 首筋に当たる呼吸は静かで、ゆっくりで落ち着いたリズムだ。

「……宵」
「んー」
「昼のさ、ゲーセン。結構楽しかったよ」
「なおや、わらってた。それが、よかった」
 
 それだけで十分、みたいな言い方だ。返す言葉を探しているうちに、腰に柔らかい感触が触れた。
 次の瞬間、もふもふとしたものが、ゆっくり腰に巻きついてくる。
 
「……出てる。しまえないの?」
「うん、たぶん、むり」
 
 はぁ……。
 尻尾は逃げ道を塞ぐようにして、俺の腰に巻きついたまま動かない。
 でもその重みが、不思議と落ち着くのだ。……それが一番問題なのだろうけどな。
 その時、背中に回った腕に、少しだけ力がこもった。
 
「なおや」
「ん? なに?」
 
「……とう」
 
 宵の呼吸が、一瞬だけ止まる。
 
「……なおや」
 
 言い直した声は、いつも通りの宵だった。でも俺の心拍数は勝手に上がった。
 
「……今、なんて言いかけた?」
「わかんない……ごめん」
「謝るとこじゃなくない?」
 
 そう返しても、宵は動かなかった。ただ、俺を抱く力だけが少し強くて、尻尾がきゅっと締まっている。
 
「なおや、……いなくならない?」
「……行かないって。ずっと言ってるだろ?」
 
 一呼吸おいて、繰り返した。
 
「行かないよ。……ここにいる」
 
 その瞬間、宵の腕から強張った力がふっと緩んだ。
「あったかい」
 宵は囁くような小さい声で呟く。完全に安心しきってるみたいだ。
 
 俺は暗い天井を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じた。
 この先、何が待っているのか。いろいろと、怖いことがある。けれど、今はこうして宵と触れ合っている時間を、手放したいとは思えなかった。
 
 そのまま、眠りに落ちる直前。
 背中越しに、宵の寝息が規則的になっていくのを感じながら――

 俺はぼんやりと思った。

 もし夢を見るなら、今夜は静かなやつがいい。


 ◇◇
 

 水の音がする。
 ちゃぷ、ちゃぷと、すぐ足元で波紋が揺れている。なのに、少しも冷たくない。
 ……あれ? 俺、沈んでないな。

 足元を見ると、俺は湖の上に立っていた。
 意味がわからないのに、なぜか怖くはなかった。

 視界の端で、銀色の何かが揺れた。

 ……尻尾?

「……綾空(あやそら)

 自分で呼んだくせに、どうしてそんな名前が出たのか、わからない。

 すると、空気が少し震えた。
 風のような気配が、すぐに背後にある。

灯弥(とうや)

 呼ばれた瞬間、心臓が、強く反応した。
 胸が焼け付くように疼く。
 ――懐かしい
 そう思ってしまった自分自身が、怖かった。

 背中に、熱を感じる。
 強くて、温かい腕で、後ろから抱きしめられた。

 銀色の毛先が、俺の頬に当たる。柔らかくて、あったかい。
 逃げたいのに、離れたくない。
 この矛盾した欲望を、俺の身体が覚えている。そんな気がした。
 
『見なくていい』

 耳元で、低い声が響いた。

『ここにいろ』

 低い声が、耳から脳を直接痺れさせる。
 唇に触れたのは、驚くほど熱くて、優しい感触。
 意識がとろけそうなのに、魂が「これを知っている」と叫びたがっている。
 

 ……え。キス、してる……?

 優しいのに、逃げ道がない重い口づけ。
 なんでこんなに安心するキスなの? そんなの、聞いたことがない。
 
 胸が、じりっと焼けるように熱くなる。

 ――あ、呼ばれる。
 そう直感した。

 本当の名前を。
 呼ばれたらもう「今の俺」には戻れなくなる、真実の名前を。
 もっと本当に呼ばれたら、全部思い出してしまう気がして。

 怖くて、でも、聞きたくて。
 喉が、期待と恐怖で震える。

「……っ」

 声が出る前に、ぎゅっと目を閉じた。

 暗くなる。

 落ちていく感覚の中で、俺の意識は、遠のいていった。
 目覚める直前まで、俺はキスの温度と感触を忘れられなかった。

 ◇◇