「……んん、……ん……?」
意識がまどろみの底からゆっくりと浮上する。
まだ目が覚めきらなくて、頭がぼんやりしている。
もう朝か?
身体が重いし、顔もくすぐったくて、温かい。
ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅ、ちゅ。
……音?
至近距離から聞こえる「ちゅ」という微かな音に、俺はようやく目を開けた。
視界のすべてを宵の端正な顔が埋め尽くしていたのだ。
「……っ」
ちゅ、ちゅ。
「……おい」
ちゅっ。
「……おーい」
頬、額、目の下、鼻の頭、そして顎の先。キスの軌道が完全にルーティン化してる。
「朝のあいさつ、キス多すぎない?」
「おはよう、なおや」
宵はようやく動きを止めて、寝起きの妙に色っぽい顔でにこっと微笑んだ。
「……絶対、口にだけはするなよ!! そこはダメだからな!」
釘を刺して、逃げるように布団を被ろうとしたが、それより一瞬早く「ちゅっ」と額にキスされる。
……逃げ遅れた。
(っていうか、普通に考えなくても、これアウトだよなぁ)
宵は満足そうに頷いてる。俺は、はぁ、とため息をついてベッドから這い出した。
今日は休日だ。あのモヤモヤした夜から一週間ほど経っていた。
幸いなことにその間、謎の夢は見ることも、怖い体験をすることもなく、時間は穏やかに過ぎている。
ただ、変わったことが一つだけある。
宵のスキンシップのレベルが、跳ね上がったことだ。
正直、人間の順応力ってやつは思った以上にすごい。
朝から顔中キスで埋め尽くされるのも、「口はダメだ」と言うのも、今日で五日目だ。
慣れたというのは違うが、受け入れていないとも言えない。
(……俺の感覚、ちょっとおかしくなってきてない? 慣れてきてるのが一番怖いんだが)
この一週間、俺は気づけばいろんなことを、「当たり前」として受け止めるようになっていた。
宵が初めて大学に迎えにきたあの日から、毎日俺を迎えに来るようになった。
そして周囲の視線も気にせず、当然のように俺の手を繋いで帰るのだ。
理由は一応「なおやを守るため」らしい。正直、守られてる実感なんてない。目立って恥ずいだけだ。
朝晩のルーティンもそうだ。
朝は顔中キス。夜は抱きつかれ、尻尾に巻きつかれて眠りにつく。
全部おかしい。
なのに、それを〝日常〟だと思い始めてる自分が、何よりもおかしい。
狐を飼ってるつもりだったけど……これ、俺が飼われてない?
そんな釈然としない思いで朝食を終え、身支度を整えていたら、宵が居間で当然のように宣言した。
「なおや、でかけよ」
「……はい?」
これは質問の形をしてない時点で嫌な予感しかしない。
「なおや、きょうおやすみ、でしょ?」
「そうだけど……。行きたいとこでもあんの?」
宵は少し考えて、首を傾げた。
「いっしょに、いるがいいから」
……行き先不明なのかよ。一体、俺たちどこ行くの?
そうツッコミながら、俺はなぜか玄関に向かい、気づけば靴を履いていた。
**
結局、俺には特に行きたい場所なんて思いつかず、やって来たのは駅前の繁華街だった。
「……人多くない?」
「だいじょうぶ」
何が大丈夫なんだか。
文句を言いながらも、俺は宵に手を引かれるまま人混みを歩いている。
いつの間にか指を絡めるみたいな繋ぎ方に変わっていて、今さら振りほどくタイミングを、俺は完全に見失っていた。
不意に、宵が足を止めた。視線の先には、派手な看板が見える。
「ゲーセン?」
「ここ、いきたい」
宵が少しだけ目を瞬かせた。
いや、少しどころじゃない。完全に子供のような目だ。
「来たことあんの?」
「ない。でも、音とキラキラいっぱい」
一歩、足を踏み入れた途端、爆音と眩しいライト、それから多くの人の波が押し寄せてきた。正直、俺は少し気圧された。
隣の宵を見ると、彼はぴたりと足を止めていた。この空気や人混みに、怯えてるのかと心配して顔を覗き込んだ。
けれど、そうじゃなくてむしろ、全部を一気に飲み込もうとしてるような圧倒された顔だ。
「宵? 大丈夫?」
「なおや、すごいね、ここ」
「そうだなー。まあ、慣れると割と普通だけど」
そう言いながらも、宵をはぐれさせないよう、俺は繋いだ手に力を込めた。
まず捕まったのは、入り口近くのクレーンゲームだった。ぬいぐるみが山積みになった台の前で宵が動かなくなる。
「なおや、これ、ふわふわ」
「え、ぬいぐるみ?」
指差した先には、耳と大きな尻尾がついた、狐のキャラクターのぬいぐるみだった。
……わかりやすすぎない?
宵は期待に満ちた眼差しで「できる?」と聞いてくる。正直、こういうのは苦手でも得意でもない。まぁほぼ運だ。
「一回だけな」
コインを入れてアームを動かす。そして、二回失敗した。
「次でダメだったら諦めろよ」
三回目。アームに引っかかって、ぬいぐるみが転がった。落ちた瞬間、宵が勢いよく振り返る。
「……っ! なおや! すごい!」
「ちょっと! 抱きつくなって!」
腕の中にぎゅうぎゅうと飛び込まれ、案の定、周りの視線が刺さる。けれど宵はそんなことお構いなしに、手に入れたぬいぐるみを抱えて満足そうな笑みを浮かべた。
「なおや、すごい、うれしい」
「はいはい」
こんなことでこんなに嬉しそうにするんだな。すげーかわ――。危うく『かわいい』と口走りそうになって、慌てて気を逸らした。
その後も、音ゲーを覗いたり、宵がキッズ向けの乗り物に興味を示したりと、歩き回った。
気づいたのは、宵は片時も俺のそばを離れようとしなかったことだ。人が多くなると、必ず手を繋ぐか袖を離さない。まるで何かを警戒しているように。
「……疲れた?」
「たのしい。なおやいっしょだから」
……俺も、今日は楽しかったよ。
もちろん声には出さなかったけど。
でも、この穏やかな満足感が、少しだけ怖くもあったんだ。
俺たちは、どこへ向かっているんだろうって。

