俺の同居人は普通じゃない


 繋いだ手の熱に、少しだけ毒気を抜かれていた時だった。

 ふっと、風が止んだ。
 肌に当たる空気が一気に冷え込み、辺りの音が遠ざかっていく。
 街灯の光、あそこなんか暗くない?

「……ん?」

 前を見ると、道の先に黒い影のようなものが揺れていた。
 砂粒が集まったような、(すす)が舞っているようなモヤ。煙にも見えるそれは、羽虫の群れのように不気味に細かく動いている。

「んん?……なんだあれ。虫か?」

 目を凝らそうとした瞬間、握っていた宵の手に力がこもり、強引にぐいっと身体を引かれた。

「ちょっと、痛っ……強いって!」
「尚弥。こっち」
 
 宵の声が――いつもと違う。
 いつもの甘い声でも、子供のような声でもない。
 ゾクっとするほど冷たくて、低い声だ。深くて、重い響き。
 ――夢で聞いた、あの声だ……。

 手を引かれてよろけた瞬間、さっきの黒いモヤの塊が、俺たちのすぐ横を掠めていった。

「……宵?」

 宵はその黒いモヤのようなものを、じっと見据えたまま、深く息を吸い込む。
 そして、その『影』に向けて、長く鋭い息を吹きかけた。

 黒いモヤが揺れたと思うと、空気に溶けるように離散した。
 一瞬で、それが消えた。
 同時に止まっていた風が吹き抜け、周りの音も戻る。

 宵がゆっくりとこっちを振り返った。目つきを鋭いまま、短く言った。

「……大丈夫だ」

 ……っ!声も低くて、いつもと違う。宵じゃないみたい……。

「……なにが大丈夫な――」
「そばにいるから。大丈夫だよ、灯弥(とうや)
「……っ」

 うわ、急に声が出ない。喉が塞がったみたいだ。

 そのとき、視界にノイズのようなものが走った。目の前の宵の姿がぶれて、輪郭が二重に重なる。
 今の宵の顔に、銀色の耳と尻尾を揺らす、神々しい男の姿が重なった。
 
(――な、に?)
 
 ……夢で見た、あの人だ。

 心拍数が一気に跳ね上がって、呼吸が荒くなる。肺がスカスカになって、いくら吸い込んでも酸素が急に足りない感覚。額から冷たい汗が、落ちた。
 目の前の宵の姿が、ゆっくりと『夢の彼』へと変わっていく。
 
 やば……っ、息が、できない……!
 息を吸ったはずなのに、胸が広がらない。喉の奥で、空気が止まる。
 
「……っ、ま……」
 
 胸を直接掴まれたような激痛。
 な、なにこれ……。怖い。
 なのに――たまらなく懐かしい。
 
 矛盾する感情への戸惑いと、あまりの苦しさに胸元の服を握りしめた。

『灯弥』

 どこからか、声がした。
 これ、夢の人の声だ。
 なんで、なんで、今?

「……っ……ぁ……っ」

 言葉が声にならない。喉から変な音だけが出た。
 なにこれ、なんで、なんで。苦しい……!

 その時、宵が俺の肩を抱き寄せた。
 耳元にかかる宵の吐息が、無理やり俺を現実に引き戻す。
 はあ、と大きく音を立てて、空気が一気に流れ込んできた。肺が再び動くと同時に苦しさも消えた。

「なおや、だいじょうぶ?」

 声は、いつもの宵に戻っていた。
 宵に重なっていた夢の男の姿も、ゆっくりと消えていく。
 まだ息が荒くて、ようやく立っていられた。気づいたら俺は、宵の服を掴んでいた。

「ハ、ハァ……っ、い、今の……なに……」

 宵は困ったように笑った。

「宵……。お前、さっき……声が違ったよな?」
 
 宵の肩が、びくっと揺れた。
「……いつもどおり」
 
「いや、違う、なんか……」
「だいじょうぶ」
 
 なにが? 絶対違う。大丈夫なんかじゃない。
 それに、全くいつも通りなんかじゃない。
 さっきの宵は、夢に出てくるあの男にそっくりだった。

 それ以上問い詰めても、宵は「ぼく、ほんとにわかんない」としか言わなくなった。
 結局、何一つ解決しないまま。
 正体不明の怖さだけが、泥のように俺の心に残ったままだった。