S.S:Silent Society

◇ ◇ ◇

 あの部室に行ってから、頭の中がずっと落ち着かない。
 理由は分かっている。

 藤宮さんだ。

 優しかった。
 声を荒げることもなく、否定もしなかった。
 怖かった、という私の言葉を、そのまま受け取ってくれた。

 ――それって、簡単なことじゃない。

 誰にでもできるふりをして、実際はできない人のほうが多い。
 考えすぎじゃない?
 気にしすぎだよ。
 そう言われるのが普通だ。

 でも、藤宮さんは違った。

 私の話を遮らず、視線を逸らさず、
 「怖かったんは、ほんまやろ」
 そう言ってくれた。

 あの瞬間、胸の奥がじん、と熱くなった。

(……わかってくれる人なんだ)

 そう思った。

 しかも、あの場所。
 あんなに静かで、安心できる部屋。
 偶然入ったなんて言っていたけれど、
 今思えば、導かれたみたいだった。

 数日後にまた行ったときも、
 藤宮さんは変わらなかった。

 前と同じ距離で、同じ声で、
 私の話を聞いてくれた。

 特別扱いされてるのかも、そう思えた。

(……私だけ、だよね)

 そう思うと、胸が少し軽くなる。

 隣にいた金髪の人は、落ち着いていて、冷静で、
 でも、藤宮さんほど、こちらを見てはいなかった。

 視線も、言葉も、
 私に向いていたのは、藤宮さんのほうだ。

 だからきっと――
 私が困っているから、助けてくれたんだ。
 私だから、だ。

 そう考えると、全部がつながる気がした。

 あの優しさも、
 あの沈黙も、
 あの、否定しなかった時間も。

 ふと、隣にいたもう一人の存在が、
 視界の端で引っかかった。
 藤宮さんの隣にいる理由が、
 私には、どうしても分からなかった。
 胸の奥で、そう決めつける。
(……邪魔、なんだ)

部室の扉を開けたとき、藤宮さんが先に気づいた。

 一瞬だけ、視線が合う。
 それから、ほんの少し、目元が緩んだ。

(……今の)

 誰に向けたものか、分からないほど短い変化。
 でも、私には分かった気がした。

 前に来たときと、同じだ。
 私が入ってきた瞬間だけ、表情が変わる。

 「どうぞ」

 そう言って椅子を勧められる。
 声も、距離も、前と変わらないはずなのに、
 胸の奥が静かにざわついた。

(……やっぱり)

 あの金髪の人が隣にいても、
 藤宮さんは、私を見る。

 話をしているときも、
 考えている沈黙の間も、
 視線がこちらに残っている。

 特別な言葉は、何もない。
 でも――

 私が話し終わると、
 必ず一拍、置いてから答える。

 急がせない。
 切らない。

(……待ってくれてる)

 それはきっと、
 誰にでも向ける態度じゃない。

 そう思った瞬間、
 部室の空気が、少しだけ違って見えた。

 この場所は、
 私と藤宮さんのためにある。

 そう考えると、
 隣にいるもう一人の存在が、
 急に、余分に思えた。

 藤宮さんと一緒にいるあの人のことを調べよう。


◇ ◇ ◇

 それは、はっきりした出来事として起きたわけじゃなかった。

 最初は、視線だった。

 構内を歩いていると、
 どこかで見た気がする後ろ姿が、少し離れた場所にある。
 立ち止まると、向こうも止まる。
 歩き出すと、少し遅れて動く。

(……気のせい、か)

 そう思おうとして、視線を前に戻す。
 前に自分が言った言葉が、ふと頭をよぎった。

 ――事実と、解釈を分ける。

 証拠はない。
 だから、考えすぎないようにする。

 次に起きたのは、噂だった。

 学内の掲示板の前で足を止めたとき、
 少し離れた場所にいた学生たちの声が、ふと耳に入った。

 「旧校舎の部室、ちょっと怖いって聞いたけど」
 「相談に行った女の子がおったらしいで」

 「何があったん?」
 「はっきりせんけど、
  怖い思いしたって言うてたって」

 智輝は、そのまま足を進めた。

 振り返らなかった。
 聞き返すこともしなかった。

 名前は出ていない。
 サークル名も、誰のことかも、曖昧なままだ。

 それでも、
 胸の奥にだけ、嫌な感触が残った。

 否定しようにも、
 何を否定すればいいのか分からない。
 数は少ないが、他のサークルの部室もあるのだ。

  その頃、智輝はまだ知らない。

 その噂の中で、
 名前を濁されながら、
 “邪魔な存在”として語られているのが、
 自分だということを。

 違和感が、確信に変わったのは、
 ほんの些細な会話だった。

 講義が終わったあと、
 藤宮と並んで歩いていると、
 前を歩く学生の声が、風に乗って届いた。

 「……あの人でしょ」
 「ほら、旧校舎の」
 「女の子相談に来て、変なことされたって」

 足が、止まる。

 藤宮も、同時に止まった。

 「……俺らのこと?」

 藤宮が、隣の東雲を見て言った。
 藤宮の声は低かった。
 けれど、問いというより確認だった。

 智輝は、返事ができなかった。

 “俺ら”と言われたはずなのに、
 胸の奥で、嫌な感覚がひっかかる。

 噂の中で、
 主語が曖昧になるとき、
 責任は一番弱いところに落ちる。

(……まさか)

 部室に入ったとき、東雲は違和感に気づいた。

 藤宮がいない。

 机の上には鞄が置かれている。
 ほんの少し前まで、確かにここにいたはずだ。

 代わりに、あの女の子が立っていた。
 扉の内側、逃げ道を塞ぐような位置で。

 「……藤宮は?」

 問いかけると、女の子は一瞬だけ視線を泳がせてから、微笑った。

 「すぐ戻りますよ。
  ちょっと、呼び出しただけなので」

 その言い方が、引っかかった。
 説明しているようで、何も説明していない。

 東雲は、無意識に一歩引いた。
 それを見て、女の子の表情がわずかに歪む。

 「……あなた、いつも一緒ですよね」

 声の調子は穏やかだ。
 けれど、言葉の端に、妙な圧があった。

 「藤宮さん、優しいから。
  誰にでもそうなんです」

 東雲は、すぐには返事をしなかった。

 「でも、
  私には、特別なんです」

 その瞬間、空気が変わる。

 「困ってるときに、
  ちゃんと向き合ってくれた。
  否定しなかった。
  あんなふうに、話を聞いてくれたのは、藤宮さんだけ」

 一歩、近づかれる。
 距離が、急に詰まる。

 「……藤宮さん、優しいから。だからあなたに付き合ってあげてるんですよね?
 一人でいるあなたに同情してるんですよ。」

 それは、はっきりとした敵意だった。

 「……それ、あなたの考えやと思う」

 東雲は、女の子から視線を外さなかった。

 「……それは違う。
 同情で一緒におるわけやない」 
 「悠誠がどう思ってるかは、
  俺にも、あなたにも決められへん」

 女の子は、一瞬、言葉を失った。

 「――何してるん」

 藤宮の声だった。

 低くて、迷いのない声。

 女の子が振り返る。
 驚きと、安堵と、期待が混ざった表情。

 「藤宮さん……」

 藤宮は、まっすぐ東雲の方へ歩いてきた。
 女の子の横を、視線も向けずに通り過ぎる。

 そして、東雲の前に立った。

 「大丈夫か」

 短い言葉。
 でも、確かに東雲に向けられている。

 藤宮は、東雲の腕を取った。
 強くはないが、拒否を許さない力。

 「俺らが出てる間に帰って」

 それだけ言って、扉へ向かう。

 女の子が慌てて声を上げた。

 「待ってください!
  私、悪いことなんて――」

 藤宮は立ち止まらなかった。

 振り返りもしない。

 「……もうええ」

 藤宮は、それ以上何も言わなかった。

 廊下に出た瞬間、
 東雲は、自分の心臓が早鐘を打っていることに気づく。

 藤宮の手は、まだ離れていない。

 少しだけ、力が強まる。

 「 部屋を出て、廊下に出たところで、
 藤宮は足を止めた。

 「……何があったん」

 問いというより、確認だった。

 東雲は一拍置いてから、短く答える。

 「同情やって言われた。
  悠誠が俺と一緒におるのは、
  優しいから付き合ってるだけやって」

 事実だけを並べる。
 感情は、そこには入れなかった。

 藤宮は、少しだけ視線を落とした。

 「……なるほどな」

 それから、間を置かずに続ける。

 「それで、
  智輝はどう返したん」

 確認は、そこだった。

 東雲は一瞬だけ迷ってから言う。

 「同情で一緒におるわけやないって」

 藤宮は、ほんのわずかに息を吐いた。

 「俺もそう答えるわ」

 それ以上は言わない。

 藤宮は前を向いたまま、歩き出した。

 東雲が隣に並ぶと、歩幅を合わせる。
 詰めるでもなく、離れるでもない距離。

 それが、
 さっきの答えを、
 そのまま受け取った合図やった。

 「……行こ」

 藤宮の声は低く、
 いつもと変わらない。

 東雲は、小さく頷いた。
 その日は、そうやって終わったはずだった。


 数日後。
 駅へ向かう途中で、また、気配を感じた。
 
 人の流れが少し途切れる場所で、
 背中に、視線の気配を感じる。

 振り返らなくても分かった。
 少し離れた位置に、あの女の子がいる。

 追ってくるわけでもない。
 声をかけてくるわけでもない。

 ただ、同じ速度で歩き、
 同じ信号で止まり、
 同じ改札を抜ける。

(……まだ、おる)

 足を止めると、
 向こうも止まった。

 距離は保たれたまま。
 逃げもしないし、近づきもしない。

 ――見ている。

 東雲が、ゆっくり振り返る。

 視線が合った。

 女の子は、にこりと笑った。
 敵意を隠すための、作った笑顔。

 その瞬間、
 東雲の中で、はっきり理解する。

(……俺や)

 隠した悪意を、
 向けられているのは、自分だ。

 背中に、ひやりとしたものが走る。

 言葉を選ぶより先に、
 横から、腕を取られた。

 「……行くで」

 藤宮だった。

 東雲を自分の背中側に引き寄せ、
 女の子との間に、自然に身体を入れる。

 振り返らない。
 声も荒げない。

 ただ、淡々と言った。

 「これ以上、関わらへん」

 女の子が、慌てて言葉を重ねる。

 「違います、私……」
 「話を聞いてもらえるだけで……」

 一歩前に出て東雲は言った。

 「話を聞いたのは俺や。でも、それも終わりや。」

 「あなたに、」

 藤宮は、遮った。

 「そうや、もう終わりや」

 それだけだった。

 説明もない。
 理由もない。

 東雲の腕を引いたまま、
 藤宮は歩き出す。

 女の子の声は、追ってこなかった。

 しばらく、無言で歩く。

 駅前の雑踏に紛れて、
 さっきまでの空気が、ゆっくり薄まっていく。

 東雲は、
 自分の鼓動が、
 いつの間にか落ち着いていることに気づいた。

 怖さは、もう残っていない。

 代わりに、さっきの場面だけが、
 静かに反芻される。

 藤宮は、あの場面で、
 立ち止まらなかった。

 言葉を探す様子もなく、
 そのまま、切るべきところを切った。

 いつもなら、
 一度は考え込んでいたはずや。

 東雲は、
 そこに気づいて、少しだけ息を吐いた。

 変わった、と言うほどじゃない。
 でも、同じでもない。

 ちゃんと、
 一歩、進んでいた。

 東雲は、
 引かれた腕の感触を、遅れて思い出す。

 強くもなく、
 確かめるようでもない。

 いつもの距離を、
 そのまま保つための動き。

 それが、
 いちばんしっくりきた。

 東雲は、何も言わず、藤宮の隣を歩き続けた。

 「……大丈夫か」

 藤宮が、歩調を落として聞く。

 東雲は、少し間を置いてから頷いた。

 「大丈夫」

 嘘ではない。
 怖さは、もう引いている。

 でも、その代わりに、
 別の感情が、胸の奥で暴れていた。

 藤宮は、まだ手を離していない。
 無意識なのか、意図的なのか、分からない。

 でも、
 “守るため”に取った手が、
 “離さない”に変わっているのは、東雲にも分かった。

(……あかん)

 分かっているのに、心臓が勝手に反応する。

 「……悠誠」

 呼ぶと、藤宮が振り返る。

 「さっきの」

 言いかけて、言葉が詰まる。

 何を言えばいいのか、分からない。
 感謝とも、確認とも、違う。

 藤宮は、少し困ったように眉を下げてから、
 短く言った。

 「当たり前やろ」

 それだけだった。

 説明も、照れもない。

 でも、その一言で、
 東雲の胸の奥が、きゅっと締まる。

 東雲は、ぎゅっと握られた手を、
 今度は自分から、少しだけ握り返した。

 藤宮が、一瞬だけ目を見開く。
 それから、何も言わず、そのまま歩き続けた。

 繋いだ手の温度が、
 やけに現実的で、逃げ場がない。

 東雲は、胸の奥の高鳴りを、
 否定するのをやめた。

 これは、不安じゃない。
 恐怖でもない。

 恋人として、
 深く踏み込んでしまった証だ。

 そしてもう、
 藤宮の隣から、
 簡単に離れられないことも。

 ◇ ◇ ◇

 歩きながら、藤宮は自分の中の違和感を探していた。

 さっきのやり取りを、
 後悔しているわけじゃない。

 言い過ぎたとも思っていない。
 むしろ、あれ以外の選択肢が、
 最初から存在しなかった。

 ただ――
 自分でも少し、驚いている。

(……こんなふうに、言い切るんやな)

 曖昧に流すこともできた。
 その場を穏便に収めることも、
 言葉を選んで、角を立てずに終わらせることも。

 前の自分なら、きっとそうしていた。

 誰も傷つかない距離で、
 誰にも選ばれない位置に立つ。

 それが、いちばん安全だと知っていたから。

 でも、今日は違った。

 女の子の言葉を聞いた瞬間、
 頭で考える前に、
 切らなあかん線が、はっきり見えた。

 迷いは、なかった。

(……好きになるって、こういうことか)

 東雲の隣に立った瞬間、
 濁す選択肢が消えていた。

 曖昧にしてしまえば、
 自分が嘘をつくことになる。

 それを、もう、できなかった。

 藤宮は、歩調を落とし、
 東雲の横顔を盗み見る。

 平静を装っているけれど、
 胸の奥がざわついているのが分かる。

 自分と、同じだ。

 恋人になったから、変わったわけじゃない。
 好きだと分かったから、急に強くなったわけでもない。

 ただ、
 “濁せない性質”が、
 誰かに向いた。

 それだけだ。

 藤宮は、小さく息を吐く。

 曖昧でいられなくなる分、
 決断する責任も、全部引き受ける。

 それが、
 東雲の隣に立つ、ということなんだろう。

 「……なあ」

 声をかけると、
 東雲がこちらを見る。

 藤宮は、少し考えてから言った。

 「俺な」

 「好きになったら、
  もう誤魔化されへんみたい」

 説明でも、言い訳でもない。
 ただの事実確認だ。

 東雲は、一瞬きょとんとしてから、
 小さく笑った。

 「……ふーん」

 その返事に、
 藤宮は肩の力が抜けた。


 それから数日、
 大学は何事もなかったように回っていた。

 噂は、いつの間にか別の話題に上書きされ、
 旧校舎の部室も、また静けさを取り戻している。

 藤宮と東雲は、いつも通りSSの部屋にいた。

 窓際の席。
 机の上の本。
 午後の、少し眠くなる時間帯。

 違うのは、距離だけだ。

 椅子の間隔が、ほんの数センチ縮んでいる。
 肘が触れそうで、触れない位置。

 東雲は本を読んでいるふりをしながら、
 その距離を意識していた。

 藤宮は、ノートを開いたまま、
 時々、何でもない顔でこちらを見る。

 確認するような視線。
 問いかけでも、警戒でもない。

(……おるな、って顔)

 東雲は、気づかないふりをしてページをめくる。

 沈黙は、心地いい。
 でも、以前とは違う。

 言葉がなくても、
 ちゃんと“二人でいる”という感覚がある。

 不意に、藤宮が言った。

 「……寒ない?」

 季節はもう、十一月だ。

 東雲は一瞬考えてから、首を振る。

 「別に」

 即答すると、
 藤宮が少し困ったように笑う。

 「そっか」

 それだけで終わると思ったのに、
 次の瞬間、
 藤宮の膝が、そっとこちらに寄ってきた。

 触れる。
 逃げない。

 ただ、それだけ。

 東雲の心臓が、少しだけ跳ねる。

(……ずるい)

 何も言わずに、
 当たり前みたいに距離を詰める。

 でも、嫌じゃない。

 むしろ、
 言葉が要らないことが、嬉しい。

 東雲は、ゆっくり本を閉じた。

 「……なあ」

 「ん?」

 藤宮は、こちらを見ずに返事をする。

 「最近、やたら正直やな」

 一瞬、間があった。

 それから、藤宮が小さく息を吐く。

 「しゃあないやろ」

 東雲の方を見る。

 「誤魔化せんって分かってもうたから」

 その言い方が、
 責任でも覚悟でもなく、
 ただの事実みたいで、
 東雲は思わず笑った。

 「……それ、前からやと思うで」

 藤宮は眉を上げる。

 「そうなん?」

 「うん。
  せやから、好きになったんやし」

 言ったあとで、
 自分でも少し驚く。

 こんなふうに、
 軽く言えるようになるとは思っていなかった。

 藤宮は、一瞬だけ黙ってから、
 照れもせず、視線を逸らしもせず、言った。

 「……俺も」

 それだけで、十分だった。

 膝が触れたまま、
 肩も、少し近い。

 部室には、
 ページをめくる音と、
 外を通る風の音だけがある。

 事件は終わった。
 特別なことも、もう起きない。

 それでも――

 この何でもない午後が、
 確かに“一緒にいる時間”だと、
 二人とも分かっていた。

 静かで、甘くて、
 逃げ場のない日常。

 それが、
 今の二人には、ちょうどよかった。