S.S:Silent Society

side 東雲

 東雲は、ベッドの端に腰を下ろしたまま、しばらく動けずにいた。
 部屋の明かりは点けているのに、頭の中が妙に静かだ。

 時計の秒針の音だけが、規則正しく耳に入ってくる。

(……落ち着け)

 自分に言い聞かせるように、息を吸う。
 吸って、吐く。
 それだけの動作が、今はやけに意識的になる。

 部室でのやり取りを、東雲は思い返そうとして、やめた。
 一語一句をなぞる必要はない。
 思い出さなくても、もう分かっている。

 あの時間は、逃げなかった。
 考えた。
 迷った。
 そして、自分で選んだ。

 それだけで十分だ。

 ベッドに手をつき、視線を落とす。
 シーツのしわが、昼間のまま残っている。

(……なんで、あんなに考えたんやろう)

 今になって、不思議に思う。
 嫌なら断っていた。
 怖ければ、曖昧にしていた。

 どちらも、できなかった。

 できなかった理由を、ずっと「慎重だったから」だと思っていた。
 自分は感情に流されるタイプではない。
 人との距離を測るのが癖で、踏み込みすぎないように生きてきた。

 だから、あの時間も、ただの確認作業だと思っていた。

(……ほんまに、そうか)

 東雲は、静かに首を横に振る。

 もし、相手が藤宮でなかったら。
 もし、あの場にいたのが別の誰かだったら。

 自分は、同じように悩んだだろうか。

 答えは、出ている。

 悩まなかった。
 もっと早く、もっと簡単に線を引いていた。

 藤宮だから、考えた。
 藤宮だから、時間をかけた。
 藤宮だから、逃げなかった。

 そこまで思考が進んだところで、胸の奥が、わずかに痛む。

(……ああ)

 認めてしまえば、簡単だ。
 ずっと避けてきた言葉を、当てはめればいいだけなのに。

 東雲は、ベッドに仰向けになった。
 天井を見つめる。

 藤宮の顔が、浮かぶ。
 笑っているとき。
 困ったように視線を逸らすとき。
 言葉を選ぶ前の、ほんの短い沈黙。

 あの沈黙を、不安だと思わなかった。
 重いとも、面倒だとも感じなかった。

 むしろ、壊したくなかった。

(……一緒にいて、楽やった)

 言葉がなくても成立する時間。
 気を遣わなくていい距離。
 それでいて、離れすぎていない感覚。

 それを「安全」だと思っていた。
 でも、違う。

 安全なだけなら、誰とでも成立する。
 藤宮との時間は、それよりも、少しだけ厄介だった。

 感情が動く。
 考えすぎる。
 失いたくない、という欲が生まれる。

(……欲、か)

 東雲は、小さく息を吐く。

 自分には、あまり縁のないものだと思っていた。
 誰かを強く求めることも、独占したいと思うこともない。

 けれど、藤宮の隣が、当たり前になるのは嫌だと思った。
 失う可能性を想像したとき、胸の奥が冷えた。

 それはもう、十分すぎるほどの答えだった。

 東雲は、目を閉じる。

(……好きなんや)

 声に出さなくても、はっきりと分かる。
 疑いようがない。

 勢いでも、勘違いでもない。
 ゆっくり積み重なって、気づいたらそこにあった感情だ。

 だから、あの場で考えた。
 だから、あの場で選んだ。

 理由を並べる必要はない。
 理屈で説明しなくても、もう揺れない。

 (結局、そういうことか)

 少しだけ、自分がおかしく感じて、苦笑する。
 遠回りをして、散々考えて、行き着く先は、案外単純だ。

 東雲は、ベッドの上で体を横に向けた。
 枕に頬を預ける。

 明日、藤宮と顔を合わせる。
 特別なことは、たぶん何も起きない。

 部室で本を開いて、沈黙を共有して、帰る時間になったら並んで歩く。
 昨日までと、ほとんど変わらない。

 でも、決定的に違う。

(……それでいい)

 自分で選んだ。
 納得して、ここにいる。

 東雲は、ゆっくりと目を閉じた。

 胸の奥にある感情は、騒がない。
 ただ静かに、確かな重さでそこにあった。

 それが、今の自分にはちょうどいい。


 
 side 藤宮


 藤宮は、玄関で靴を脱いだあともしばらく立ち尽くしていた。
 電気を点ける気になれず、薄暗い廊下のまま、深く息を吐く。

(……終わった)

 終わった、という言葉が、悪い意味ではなく浮かんだ。
 何かを乗り越えたあとに来る、あの感覚だ。

 部屋に入って、鞄を床に置く。
 いつもの動作なのに、今日は一つひとつが遅い。

 藤宮は、ベッドに腰を下ろした。
 背もたれに寄りかかると、ようやく体の力が抜ける。

(……疲れたな)

 肉体的な疲労ではない。
 神経を使い切ったあとの、鈍いだるさ。

 あの場面を、思い出そうとする。
 言葉を正確に再生しようとして、やめた。

 大事なのは、そこじゃない。

 藤宮は、天井を見上げる。

 逃げなかった。
 誤魔化さなかった。
 自分から線を引かずに、踏み出した。

 それだけで、十分すぎるほどだ。

(……ああいうこと、俺がするとはな)

 苦笑が漏れる。

 ずっと、避けてきた。
 誰かを「選ぶ」ということも、
 選ばれなかった場合を引き受けることも。

 優しくしていれば、関係は壊れない。
 曖昧にしていれば、誰も一人にならない。

 そう信じてきた。
 正確には、そう思い込もうとしてきた。

(……違った)

 今日、はっきり分かった。

 曖昧にすることは、誰も守らない。
 少なくとも、自分自身は守らない。

 藤宮は、視線を落とす。
 自分の手を見つめる。

 あのとき、東雲を見ていた。
 視線を逸らさず、黙って考えていた顔。

 急かさなかった。
 期待を押し付けてこなかった。
 それでも、逃げなかった。

(……あれは、ずるい)

 思い出すだけで、胸の奥が少し締めつけられる。

 拒絶されるかもしれない。
 期待を裏切るかもしれない。

 それでも、あの時間を投げなかった。
 ちゃんと、受け取ろうとしてくれた。

 藤宮は、ゆっくりと息を吸う。

(……だから、言えたんや)

 勇気を出した、というより、
 東雲の前で、誤魔化せなかった。

 誤魔化したまま隣にいるのは、もう嫌だった。

 藤宮は、ベッドに仰向けになる。
 視界いっぱいに、天井が広がる。

 考えてみれば、最初からおかしかった。

 一緒にいる時間が増えても、
 負担に感じなかった。

 沈黙が続いても、気まずくならなかった。
 むしろ、安心していた。

 それを、ただの「楽な関係」だと思い込もうとしていた。
 そうでなければ、自分が踏み出さなければならなくなるから。

(……逃げてたんやな)

 藤宮は、はっきりそう認める。

 でも、今日だけは逃げなかった。
 逃げなかった自分を、今は嫌いじゃない。

 もし、あの場で何も言わずにいたら。
 もし、また曖昧に笑っていたら。

 自分はきっと、後悔した。
 東雲を失うことより、
 自分自身を軽蔑しただろう。

(……それだけは、嫌やった)

 胸の奥に、静かな感情が広がる。

 緊張でも、不安でもない。
 もっと単純で、動かしがたいもの。

 藤宮は、目を閉じた。

(……好きや)

 言葉にして、違和感はなかった。
 驚きも、戸惑いも、もうない。

 特別扱いしたい。
 隣にいたい。
 他の誰かと同じ場所に置きたくない。

 それを欲だと呼ぶなら、
 初めて持った欲だ。

(結局、そういうことなんやな)

 長く考えて、遠回りをして、
 辿り着いた答えは、拍子抜けするほど単純だった。

 藤宮は、ゆっくりと体を横に向ける。
 枕に顔を埋める。

 明日、また会う。
 部室で、いつもの席で。

 急に何かが変わるわけじゃない。
 劇的な言葉を交わす予定もない。

 それでいい。

 自分はもう、
 「曖昧にして楽でいる側」には戻らない。

 選んだ。
 選ばれたかどうかは、あとでいい。

 今はただ、
 東雲の隣を選んだ自分を、肯定できる。

 藤宮は、小さく息を吐いた。

 胸の奥にある感情は、騒がない。
 静かで、確かで、逃げ場がない。

 それが、今の自分にはちょうどよかった。