部室には、すでに人の気配があった。
窓際の椅子に腰を下ろした藤宮は、スマホを手にしていたが、画面はほとんど見ていなかった。
机に向かう東雲は、本を開いたまま、ページをめくる気配もなかった。
言葉を交わさなくても、そこにいる理由は説明しなくていい。
それが、もう当たり前になっている。
同じ時間、同じ場所。
距離だけが、少しずつ変わっていく。
沈黙は、心地よい――はずだった。
(……近い)
東雲は視線を落としたまま、藤宮の存在を意識していた。
名前で呼ばれるようになってから、距離が少しずつ、確実に変わっている。
椅子の脚がわずかに触れ合う。
藤宮の体温が、空気越しに伝わってくる気がする。
胸の奥が、どくん、と鳴った。
「なあ、智輝」
不意に名前を呼ばれて、東雲は肩を跳ねさせた。
「……な、なに」
声が少し上ずる。
藤宮はそれに気づいた様子もなく、立ち上がった。
「それ、何読んでるん?」
藤宮は自然な動作で東雲の横に立ち、机に手をついた。
肩越しに、ページをのぞき込む。
距離が、一気に縮まる。
東雲は息を止めた。
視界の端に、藤宮の横顔が入る。整った鼻筋、長いまつげ、近くで見るとやけに端正な輪郭。
(……顔、近……っ)
頬が熱くなるのが、自分でもわかった。
心臓が、さっきより速く脈を打っている。
「へえ……難しそうやな」
「……心理学の、参考書」
「真面目やなあ」
そう言って笑う藤宮の声が、耳に近い。
東雲はうまく返事ができず、視線を本に戻した。
(落ち着け……友達、やろ)
自分に言い聞かせるように、そう思う。
けれど、藤宮はすぐには離れなかった。
その後、昼になって二人は学内のカフェテリアへ向かった。
「今日は外、行かん?」
何気ない提案だった。
東雲は一瞬迷ってから、頷いた。
「……いいけど」
学外の定食屋。
並んで歩く道すがら、藤宮は自然に東雲の隣を歩いていた。
交差点に差しかかったときだった。
車道側に立っていた東雲の前に、藤宮が一歩踏み出す。
「危ないから、こっち」
腰に、手が回った。
一瞬。
ほんの一瞬の動作だった。
それなのに。
(……っ)
東雲は言葉を失った。
触れた掌の感触が、はっきりと残る。
心臓が、どくん、どくん、と暴れる。
顔が熱い。息がうまくできない。
藤宮は何事もなかったように前に立ち、信号を見ていた。
(今の……普通、なん?)
自分だけが、過剰に意識している気がして、余計に落ち着かなくなる。
昼食を終え、午後は図書館で過ごした。
同じテーブル。
向かい合うのではなく、隣同士。
藤宮はレポート、東雲は課題。
会話は少ない。
けれど、沈黙の質が違った。
(前は……何も考えずに、静かでいられたのに)
今は、藤宮がページをめくる音や、ペンを走らせる音一つひとつが気になる。
ふと視線を感じて顔を上げると、藤宮がこちらを見ていた。
「……なに?」
「いや。真剣な顔してるなって」
そう言われただけなのに、胸が跳ねる。
頬がまた、じわりと熱くなる。
「……別に」
「そ?」
藤宮は軽く笑って、また作業に戻った。
(なんで……こんなに意識してるんやろ)
夕方、部室に寄ってから、二人は一緒に帰路についた。
並んで歩く距離が、もう当たり前になっている。
会話も、取り留めのないものばかりだ。
「今日、結構一緒におったな」
藤宮の言葉に、東雲は少し間を置いて答える。
「……そうやな」
「友達やし。
一緒におっても、ええやろ」
さらっと言われて、東雲は言葉に詰まった。
(……友達)
確かにそうだ。
初めてできた、ちゃんとした友達。
でも。
胸の奥で、さっきから続くこの動悸は、友達で説明がつくものなのか。
藤宮の横顔を盗み見る。
夕焼けに照らされたその表情は、やけに大人びて見えた。
(……わからん)
答えは出ないまま、家路は続く。
ただひとつ確かなのは――
この沈黙が、もう以前と同じ「心地よさ」ではなくなっている、ということだけだった。
(……友達、なんよな)
そう思いながらも、東雲の胸は、まだ小さく速く鳴り続けていた。
◇
その日の講義が終わったあと、藤宮のスマホが短く震えた。
表示されたメッセージは短い。
「今日、少しだけ話せる?」
場所は、校舎裏の自販機のあたり。
藤宮は一度、画面を閉じた。
心当たりがある。というより、避けてきた。
(……逃げてたわけちゃう。けど、逃げてたんやろな)
足取りが重い。
なのに、行かなかったらもっと最悪になることもわかっている。
自販機の横に、女の子が立っていた。
目が合った瞬間、相手の表情がわずかに揺れる。
「来てくれたんや」
声が、笑っているのに震えている。
藤宮は返事ができず、短く頷いた。
「最近さ……誘っても、全然会ってくれへんやん」
「……ごめん」
「謝ってほしいんちゃう」
女の子は一歩、距離を詰める。
視線が真っ直ぐで、逃げ道を塞ぐみたいだった。
「私、聞きたい。……私って、特別になれへんの?」
藤宮は息を飲んだ。質問は一言なのに、重い。
(特別じゃない。これは、もう答えは出てる)
でも、言い方がわからない。
正直に言うことが誠実なのはわかる。けど、正直は刃にもなる。
(優しく断る方法……あるんか?)
頭の中で、言葉を探しては崩れる。
傷つけたくない、そういう気持ちが、逆に相手を追い詰めるのもわかっている。
その瞬間、藤宮の脳裏に浮かんだのは、部室の静けさだった。
東雲の顔。
何も言わなくても見抜いてくるみたいな、静かな目。
(……あいつやったら、逃げへん)
藤宮は、腹の底に力を入れた。喉が痛い。声が出る気がしない。
それでも、言わなあかん。
「……特別とは思えない」
女の子が瞬きをする。
藤宮は続けた。ここで止まったら、また同じになる。
「君と付き合うつもりはない」
一瞬、世界が止まったように静かになった。
女の子の口が開く。声はもう、泣きそうな音だった。
「最初は私もズルかったと思う。友達が軽く誘ってるフリしてた。断られるの怖かったから」
藤宮は何も言えない。
「でも、何度も会ってくれて……二人きりで映画とか、ショッピングとか行って」
女の子は笑おうとして、失敗した顔になる。
「私、気持ち伝えたと思ってる。……確かに藤宮くんは、その時は答えくれへんかったけど」
声が揺れて、最後が掠れる。
「なんで、その時に言ってくれへんかったん?」
藤宮の胸がきしんだ。
「……」
「他の女の子にも同じようにしてたって、聞いてる」
女の子は拳を握りしめて、肩を震わせる。
「優しくされたらさ、期待するやん。思い出って、勝手に増えるやん。……私だけが、勝手に好きになったみたいになるやん」
藤宮は、目を逸らしたくなるのを必死で堪えた。
(ほんまに、俺が悪い)
優しさのつもりだった。
拒絶しないことが、相手を守ると思ってた。
でも、それはただの先延ばしで、相手に“希望”を持たせるだけの残酷さだった。
「ごめん!」
藤宮の声は、勢いだけで飛び出した。
「俺が優柔不断やったんが悪いって、わかってる」
それだけ言うのが精いっぱいで、あとは黙って頭を下げる。
言い訳を並べたら、もっと卑怯になる気がした。
しばらく沈黙が落ちた。
女の子は、何か言いかけた。けれど声にはならず、踵を返す。
「……もういい」
小さく落ちた言葉だけが残った。
女の子は走り去った。
(……俺、何してたんやろ)
胸の奥が、ずっと重い。
謝ったところで、戻せない。
戻せないことが、今になって、はっきりわかる。
藤宮は追いかけることもできず、その場に立ち尽くしたまま、指先が冷えていくのを感じていた。
藤宮は、部室にいた。
日が落ちかけて、窓の外が橙色に滲む。
机も椅子も、いつもと同じ場所にある。
それなのに、今日だけは、空気がやけに薄い。
東雲は先に来ていて、本を開いていた。
藤宮が入ってきても、すぐには顔を上げない。
けれど、数秒のあと、静かに視線を上げた。
その目から、藤宮は逃げられなかった。
(……何も言わんのに、わかってる顔してる)
「……悠誠」
東雲が名前を呼ぶ。
それだけで、藤宮の喉が詰まった。
「……今日、ちょっと、あってさ」
「うん」
東雲は聞き返さない。
急かさない。ただ待つ。
藤宮は椅子に座った。背もたれに寄りかかることもできず、膝に手を置く。
「俺、最低やった」
「……何したん」
東雲の声は優しい。
優しいのに、甘やかしじゃない。
「女の子、傷つけた。俺が……はっきりせえへんかったから」
藤宮は目を伏せた。
「ほんまは、もっと前に言うべきやった。付き合う気がないって。特別やないって。……それを、ずっと言えへんかった」
言葉にすると、胸がさらに痛む。
「優しくしとけば、傷つけへんと思ってた。断らへんかったら、嫌われへんと思ってた」
東雲は黙って聞いている。
藤宮は、息を吐く。
「俺さ……小学校の、低学年のときな」
藤宮は、視線を机に落としたまま続けた。
「ある日、遊びに誘われてん。でも、俺、その日たまたま用事あって……断ってもうて」
東雲は、何も言わずに聞いている。
「その子な、一人で遊びに行って……事故に遭った」
一拍、間が空く。
「……亡くなった」
東雲の指先が、わずかに震えた。
「もちろん、俺のせいちゃうって、大人は言った。誰も責めへんかった。でも……」
藤宮は唇を噛む。
「俺の中では、ずっと引っかかってる。あの日、断らへんかったらって。
一緒におったら、防げたんちゃうかって」
声が、少し低くなる。
「それからや。誘われて断ることが、怖くなった」
藤宮は、苦笑いを浮かべる。
「断る=相手を一人にする、って思ってもうてん。
優しくしとけば大丈夫やって。拒まへんかったら、何も起きへんって」
東雲は静かに息を吸った。
「……それで、今日まで来たん」
「うん」
藤宮は、短く頷く。
「今日、あの子にはっきり断ったときな……昔のこと、頭に浮かんだ」
声が、かすれる。
「また誰かを一人にした、って思ってもうて」
沈黙が落ちる。
重いけれど、逃げ場のない沈黙。
東雲が、ゆっくりと口を開いた。
「……でも」
藤宮が顔を上げる。
「今日のは、違うやろ」
東雲の声は、静かだった。
「一人にするために断ったんちゃう。
ちゃんと向き合うために、言うたんやろ」
藤宮は、目を見開く。
「……智輝」
「それに」
東雲は続ける。
「一緒におらんかったことを、
悠誠がずっと自分の中で背負ってきたんは分かる。
でもな、それで全部が悠誠のせいになるわけやない」
藤宮の胸が、強く鳴った。
「……俺、それ、初めて言われた」
東雲は視線を逸らし、少しだけ頬を赤くする。
「……俺が勝手に、そう思っただけや」
藤宮は、しばらく黙ってから、低く言った。
「今日、はっきり言えたんは……智輝の顔、思い出したからや」
東雲が、はっとする。
「俺がまた、逃げそうになってんのが分かって」
沈黙が落ちる。
「でも」
藤宮は、ゆっくり言う。
「俺、智輝とは……逃げるための優しさで、一緒におりたくない」
藤宮は、ゆっくり言う。言葉が、部室に落ちる。
東雲の耳が、赤い。
藤宮は、苦しそうに笑った。
「で、思ったんや。……俺、智輝には、嫌われたくない」
言ってしまった。言葉が部屋に落ちて、戻ってこない。
東雲の顔が赤い。耳まで赤い。けれど目は逸らさない。
心臓が、藤宮の方も速くなる。
藤宮は、それ以上言葉を足さなかった。
東雲は何も言わず、息を整えるみたいに一度目を伏せた。
「……それ、友達に言う言い方ちゃう」
藤宮は、返事が出ずに口を閉じたまま、椅子の背に指をかける。
木の冷たさが、指先に残る。
東雲は視線を逸らさず、本の角を強く押さえていた。
「……え」
声が喉で止まり、藤宮は息を吐く。部室の空気が、わずかに張りつめる。
東雲の耳が赤い。
「……今の、俺もびっくりした」
東雲はそう言ってから、唇を閉じる。椅子の脚が、床に小さく鳴る。
藤宮は、その音を聞いたまま動かなかった。
「……でも」
東雲は、机の上の本に視線を落としたまま続ける。
「今日の話、してくれてよかった」
短い言葉だった。
藤宮の胸にあった重さが、少しだけ位置を変える。
息が、深く入る。
「……うん」
藤宮は頷き、背もたれから手を離す。
椅子が、わずかにきしむ。
それ以上、言葉は足さなかった。
部室は静かだった。
時計の音も、外の声も届かない。
東雲は、本を押さえた指をゆるめる。
部室の静けさが、そのまま残った。
翌日も、藤宮は部室にいた。
窓から差す夕方の光が、床に長く伸びている。
東雲は机に向かい、本を開いている。
藤宮は窓際の椅子に座り、背筋を伸ばしたまま視線を前に置く。
スマホには触れない。
部室の静けさが、昨日と同じ形で残っている。
藤宮は、東雲の横顔を見る。
ページをめくる音が、一定の間隔で続く。
その音が途切れないことに、少しだけ安心する。
「……なあ」
藤宮が声を出すと、東雲はすぐ顔を上げた。
視線が合う。逸らされない。
「……最近さ」
藤宮は、椅子の脚を床に押しつける。
「俺ら、ずっと一緒やな」
東雲は、否定せずに頷く。本を閉じ、机に置く。指が重なる。
「……そうやな」
短い返事だった。
藤宮は、その音量を確かめるみたいに息を吐く。
「友達って、こんなもんやったっけ」
問いは、宙に残る。
東雲はすぐに答えず、机の木目を見る。
「……友達やとは思う」
間を置いて、そう言った。椅子の背に、体重をかける。
「けど」
言葉が続く前に、藤宮は目を伏せる。床の影が、少し動く。
「友達にしては、近い」
東雲は、淡々と続けた。藤宮の喉が、小さく鳴る。
「やっぱり、そう思う?」
「思う」
即答だった。部室の空気が、静かに張る。
藤宮は、背筋を伸ばす。
「俺さ」
声が、少し低くなる。
「智輝を、特別に扱ってると思う」
東雲の指が、机の上でわずかに動く。
「他の人には、せえへんこと、してる」
藤宮は視線を上げる。東雲は逸らさない。
「それが、ええかどうかは分からん」
椅子が、少しきしむ。
「でも、やめる気はない」
東雲は、ゆっくり息を吐いた。胸の動きが、はっきり見える。
「……俺も」
東雲は、間を置いて口を開く。
「藤宮とおる時間、減らしたいとは思ってへん」
藤宮の肩の力が、少し抜ける。
「正直」
東雲は、一度だけ目を伏せる。
「この距離を、手放したくないとは思ってる」
静かな声だった。
藤宮は、その言葉を聞いたまま動かない。
「……それって」
藤宮は、椅子を引かずに一歩だけ距離を詰める。
「俺が、勘違いしてもええん?」
東雲は一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を戻す。
「……勘違いではないと思う」
短く、区切る。
「確認、やろ」
藤宮は、息を吐いた。胸の奥が、ゆっくり落ち着く。
「そっか」
指先が、自然に机の縁に触れる。
「俺、智輝の隣におりたい」
言い切りだった。声は、揺れていない。
「友達かどうかは、今はええ」
東雲は、黙って聞いている。
「選ぶなら……智輝を選ぶ」
沈黙が落ちる。東雲は、そのまま頷いた。
「……うん」
藤宮は、視線を逸らさずに続ける。
「確認ついでに、もう一個」
東雲は、小さく頷く。
「俺らさ……付き合うってことで、ええんかな」
問いは、静かだった。
東雲は一度目を伏せ、すぐに顔を上げる。
「……ええと思う」
藤宮は、肩の力を抜く。
「そっか」
それだけ言って、息を吐いた。
部室は、変わらず静かだった。
椅子も、机も、昨日と同じ場所にある。
ただ、二人の距離だけが、少しだけ違っていた。
窓際の椅子に腰を下ろした藤宮は、スマホを手にしていたが、画面はほとんど見ていなかった。
机に向かう東雲は、本を開いたまま、ページをめくる気配もなかった。
言葉を交わさなくても、そこにいる理由は説明しなくていい。
それが、もう当たり前になっている。
同じ時間、同じ場所。
距離だけが、少しずつ変わっていく。
沈黙は、心地よい――はずだった。
(……近い)
東雲は視線を落としたまま、藤宮の存在を意識していた。
名前で呼ばれるようになってから、距離が少しずつ、確実に変わっている。
椅子の脚がわずかに触れ合う。
藤宮の体温が、空気越しに伝わってくる気がする。
胸の奥が、どくん、と鳴った。
「なあ、智輝」
不意に名前を呼ばれて、東雲は肩を跳ねさせた。
「……な、なに」
声が少し上ずる。
藤宮はそれに気づいた様子もなく、立ち上がった。
「それ、何読んでるん?」
藤宮は自然な動作で東雲の横に立ち、机に手をついた。
肩越しに、ページをのぞき込む。
距離が、一気に縮まる。
東雲は息を止めた。
視界の端に、藤宮の横顔が入る。整った鼻筋、長いまつげ、近くで見るとやけに端正な輪郭。
(……顔、近……っ)
頬が熱くなるのが、自分でもわかった。
心臓が、さっきより速く脈を打っている。
「へえ……難しそうやな」
「……心理学の、参考書」
「真面目やなあ」
そう言って笑う藤宮の声が、耳に近い。
東雲はうまく返事ができず、視線を本に戻した。
(落ち着け……友達、やろ)
自分に言い聞かせるように、そう思う。
けれど、藤宮はすぐには離れなかった。
その後、昼になって二人は学内のカフェテリアへ向かった。
「今日は外、行かん?」
何気ない提案だった。
東雲は一瞬迷ってから、頷いた。
「……いいけど」
学外の定食屋。
並んで歩く道すがら、藤宮は自然に東雲の隣を歩いていた。
交差点に差しかかったときだった。
車道側に立っていた東雲の前に、藤宮が一歩踏み出す。
「危ないから、こっち」
腰に、手が回った。
一瞬。
ほんの一瞬の動作だった。
それなのに。
(……っ)
東雲は言葉を失った。
触れた掌の感触が、はっきりと残る。
心臓が、どくん、どくん、と暴れる。
顔が熱い。息がうまくできない。
藤宮は何事もなかったように前に立ち、信号を見ていた。
(今の……普通、なん?)
自分だけが、過剰に意識している気がして、余計に落ち着かなくなる。
昼食を終え、午後は図書館で過ごした。
同じテーブル。
向かい合うのではなく、隣同士。
藤宮はレポート、東雲は課題。
会話は少ない。
けれど、沈黙の質が違った。
(前は……何も考えずに、静かでいられたのに)
今は、藤宮がページをめくる音や、ペンを走らせる音一つひとつが気になる。
ふと視線を感じて顔を上げると、藤宮がこちらを見ていた。
「……なに?」
「いや。真剣な顔してるなって」
そう言われただけなのに、胸が跳ねる。
頬がまた、じわりと熱くなる。
「……別に」
「そ?」
藤宮は軽く笑って、また作業に戻った。
(なんで……こんなに意識してるんやろ)
夕方、部室に寄ってから、二人は一緒に帰路についた。
並んで歩く距離が、もう当たり前になっている。
会話も、取り留めのないものばかりだ。
「今日、結構一緒におったな」
藤宮の言葉に、東雲は少し間を置いて答える。
「……そうやな」
「友達やし。
一緒におっても、ええやろ」
さらっと言われて、東雲は言葉に詰まった。
(……友達)
確かにそうだ。
初めてできた、ちゃんとした友達。
でも。
胸の奥で、さっきから続くこの動悸は、友達で説明がつくものなのか。
藤宮の横顔を盗み見る。
夕焼けに照らされたその表情は、やけに大人びて見えた。
(……わからん)
答えは出ないまま、家路は続く。
ただひとつ確かなのは――
この沈黙が、もう以前と同じ「心地よさ」ではなくなっている、ということだけだった。
(……友達、なんよな)
そう思いながらも、東雲の胸は、まだ小さく速く鳴り続けていた。
◇
その日の講義が終わったあと、藤宮のスマホが短く震えた。
表示されたメッセージは短い。
「今日、少しだけ話せる?」
場所は、校舎裏の自販機のあたり。
藤宮は一度、画面を閉じた。
心当たりがある。というより、避けてきた。
(……逃げてたわけちゃう。けど、逃げてたんやろな)
足取りが重い。
なのに、行かなかったらもっと最悪になることもわかっている。
自販機の横に、女の子が立っていた。
目が合った瞬間、相手の表情がわずかに揺れる。
「来てくれたんや」
声が、笑っているのに震えている。
藤宮は返事ができず、短く頷いた。
「最近さ……誘っても、全然会ってくれへんやん」
「……ごめん」
「謝ってほしいんちゃう」
女の子は一歩、距離を詰める。
視線が真っ直ぐで、逃げ道を塞ぐみたいだった。
「私、聞きたい。……私って、特別になれへんの?」
藤宮は息を飲んだ。質問は一言なのに、重い。
(特別じゃない。これは、もう答えは出てる)
でも、言い方がわからない。
正直に言うことが誠実なのはわかる。けど、正直は刃にもなる。
(優しく断る方法……あるんか?)
頭の中で、言葉を探しては崩れる。
傷つけたくない、そういう気持ちが、逆に相手を追い詰めるのもわかっている。
その瞬間、藤宮の脳裏に浮かんだのは、部室の静けさだった。
東雲の顔。
何も言わなくても見抜いてくるみたいな、静かな目。
(……あいつやったら、逃げへん)
藤宮は、腹の底に力を入れた。喉が痛い。声が出る気がしない。
それでも、言わなあかん。
「……特別とは思えない」
女の子が瞬きをする。
藤宮は続けた。ここで止まったら、また同じになる。
「君と付き合うつもりはない」
一瞬、世界が止まったように静かになった。
女の子の口が開く。声はもう、泣きそうな音だった。
「最初は私もズルかったと思う。友達が軽く誘ってるフリしてた。断られるの怖かったから」
藤宮は何も言えない。
「でも、何度も会ってくれて……二人きりで映画とか、ショッピングとか行って」
女の子は笑おうとして、失敗した顔になる。
「私、気持ち伝えたと思ってる。……確かに藤宮くんは、その時は答えくれへんかったけど」
声が揺れて、最後が掠れる。
「なんで、その時に言ってくれへんかったん?」
藤宮の胸がきしんだ。
「……」
「他の女の子にも同じようにしてたって、聞いてる」
女の子は拳を握りしめて、肩を震わせる。
「優しくされたらさ、期待するやん。思い出って、勝手に増えるやん。……私だけが、勝手に好きになったみたいになるやん」
藤宮は、目を逸らしたくなるのを必死で堪えた。
(ほんまに、俺が悪い)
優しさのつもりだった。
拒絶しないことが、相手を守ると思ってた。
でも、それはただの先延ばしで、相手に“希望”を持たせるだけの残酷さだった。
「ごめん!」
藤宮の声は、勢いだけで飛び出した。
「俺が優柔不断やったんが悪いって、わかってる」
それだけ言うのが精いっぱいで、あとは黙って頭を下げる。
言い訳を並べたら、もっと卑怯になる気がした。
しばらく沈黙が落ちた。
女の子は、何か言いかけた。けれど声にはならず、踵を返す。
「……もういい」
小さく落ちた言葉だけが残った。
女の子は走り去った。
(……俺、何してたんやろ)
胸の奥が、ずっと重い。
謝ったところで、戻せない。
戻せないことが、今になって、はっきりわかる。
藤宮は追いかけることもできず、その場に立ち尽くしたまま、指先が冷えていくのを感じていた。
藤宮は、部室にいた。
日が落ちかけて、窓の外が橙色に滲む。
机も椅子も、いつもと同じ場所にある。
それなのに、今日だけは、空気がやけに薄い。
東雲は先に来ていて、本を開いていた。
藤宮が入ってきても、すぐには顔を上げない。
けれど、数秒のあと、静かに視線を上げた。
その目から、藤宮は逃げられなかった。
(……何も言わんのに、わかってる顔してる)
「……悠誠」
東雲が名前を呼ぶ。
それだけで、藤宮の喉が詰まった。
「……今日、ちょっと、あってさ」
「うん」
東雲は聞き返さない。
急かさない。ただ待つ。
藤宮は椅子に座った。背もたれに寄りかかることもできず、膝に手を置く。
「俺、最低やった」
「……何したん」
東雲の声は優しい。
優しいのに、甘やかしじゃない。
「女の子、傷つけた。俺が……はっきりせえへんかったから」
藤宮は目を伏せた。
「ほんまは、もっと前に言うべきやった。付き合う気がないって。特別やないって。……それを、ずっと言えへんかった」
言葉にすると、胸がさらに痛む。
「優しくしとけば、傷つけへんと思ってた。断らへんかったら、嫌われへんと思ってた」
東雲は黙って聞いている。
藤宮は、息を吐く。
「俺さ……小学校の、低学年のときな」
藤宮は、視線を机に落としたまま続けた。
「ある日、遊びに誘われてん。でも、俺、その日たまたま用事あって……断ってもうて」
東雲は、何も言わずに聞いている。
「その子な、一人で遊びに行って……事故に遭った」
一拍、間が空く。
「……亡くなった」
東雲の指先が、わずかに震えた。
「もちろん、俺のせいちゃうって、大人は言った。誰も責めへんかった。でも……」
藤宮は唇を噛む。
「俺の中では、ずっと引っかかってる。あの日、断らへんかったらって。
一緒におったら、防げたんちゃうかって」
声が、少し低くなる。
「それからや。誘われて断ることが、怖くなった」
藤宮は、苦笑いを浮かべる。
「断る=相手を一人にする、って思ってもうてん。
優しくしとけば大丈夫やって。拒まへんかったら、何も起きへんって」
東雲は静かに息を吸った。
「……それで、今日まで来たん」
「うん」
藤宮は、短く頷く。
「今日、あの子にはっきり断ったときな……昔のこと、頭に浮かんだ」
声が、かすれる。
「また誰かを一人にした、って思ってもうて」
沈黙が落ちる。
重いけれど、逃げ場のない沈黙。
東雲が、ゆっくりと口を開いた。
「……でも」
藤宮が顔を上げる。
「今日のは、違うやろ」
東雲の声は、静かだった。
「一人にするために断ったんちゃう。
ちゃんと向き合うために、言うたんやろ」
藤宮は、目を見開く。
「……智輝」
「それに」
東雲は続ける。
「一緒におらんかったことを、
悠誠がずっと自分の中で背負ってきたんは分かる。
でもな、それで全部が悠誠のせいになるわけやない」
藤宮の胸が、強く鳴った。
「……俺、それ、初めて言われた」
東雲は視線を逸らし、少しだけ頬を赤くする。
「……俺が勝手に、そう思っただけや」
藤宮は、しばらく黙ってから、低く言った。
「今日、はっきり言えたんは……智輝の顔、思い出したからや」
東雲が、はっとする。
「俺がまた、逃げそうになってんのが分かって」
沈黙が落ちる。
「でも」
藤宮は、ゆっくり言う。
「俺、智輝とは……逃げるための優しさで、一緒におりたくない」
藤宮は、ゆっくり言う。言葉が、部室に落ちる。
東雲の耳が、赤い。
藤宮は、苦しそうに笑った。
「で、思ったんや。……俺、智輝には、嫌われたくない」
言ってしまった。言葉が部屋に落ちて、戻ってこない。
東雲の顔が赤い。耳まで赤い。けれど目は逸らさない。
心臓が、藤宮の方も速くなる。
藤宮は、それ以上言葉を足さなかった。
東雲は何も言わず、息を整えるみたいに一度目を伏せた。
「……それ、友達に言う言い方ちゃう」
藤宮は、返事が出ずに口を閉じたまま、椅子の背に指をかける。
木の冷たさが、指先に残る。
東雲は視線を逸らさず、本の角を強く押さえていた。
「……え」
声が喉で止まり、藤宮は息を吐く。部室の空気が、わずかに張りつめる。
東雲の耳が赤い。
「……今の、俺もびっくりした」
東雲はそう言ってから、唇を閉じる。椅子の脚が、床に小さく鳴る。
藤宮は、その音を聞いたまま動かなかった。
「……でも」
東雲は、机の上の本に視線を落としたまま続ける。
「今日の話、してくれてよかった」
短い言葉だった。
藤宮の胸にあった重さが、少しだけ位置を変える。
息が、深く入る。
「……うん」
藤宮は頷き、背もたれから手を離す。
椅子が、わずかにきしむ。
それ以上、言葉は足さなかった。
部室は静かだった。
時計の音も、外の声も届かない。
東雲は、本を押さえた指をゆるめる。
部室の静けさが、そのまま残った。
翌日も、藤宮は部室にいた。
窓から差す夕方の光が、床に長く伸びている。
東雲は机に向かい、本を開いている。
藤宮は窓際の椅子に座り、背筋を伸ばしたまま視線を前に置く。
スマホには触れない。
部室の静けさが、昨日と同じ形で残っている。
藤宮は、東雲の横顔を見る。
ページをめくる音が、一定の間隔で続く。
その音が途切れないことに、少しだけ安心する。
「……なあ」
藤宮が声を出すと、東雲はすぐ顔を上げた。
視線が合う。逸らされない。
「……最近さ」
藤宮は、椅子の脚を床に押しつける。
「俺ら、ずっと一緒やな」
東雲は、否定せずに頷く。本を閉じ、机に置く。指が重なる。
「……そうやな」
短い返事だった。
藤宮は、その音量を確かめるみたいに息を吐く。
「友達って、こんなもんやったっけ」
問いは、宙に残る。
東雲はすぐに答えず、机の木目を見る。
「……友達やとは思う」
間を置いて、そう言った。椅子の背に、体重をかける。
「けど」
言葉が続く前に、藤宮は目を伏せる。床の影が、少し動く。
「友達にしては、近い」
東雲は、淡々と続けた。藤宮の喉が、小さく鳴る。
「やっぱり、そう思う?」
「思う」
即答だった。部室の空気が、静かに張る。
藤宮は、背筋を伸ばす。
「俺さ」
声が、少し低くなる。
「智輝を、特別に扱ってると思う」
東雲の指が、机の上でわずかに動く。
「他の人には、せえへんこと、してる」
藤宮は視線を上げる。東雲は逸らさない。
「それが、ええかどうかは分からん」
椅子が、少しきしむ。
「でも、やめる気はない」
東雲は、ゆっくり息を吐いた。胸の動きが、はっきり見える。
「……俺も」
東雲は、間を置いて口を開く。
「藤宮とおる時間、減らしたいとは思ってへん」
藤宮の肩の力が、少し抜ける。
「正直」
東雲は、一度だけ目を伏せる。
「この距離を、手放したくないとは思ってる」
静かな声だった。
藤宮は、その言葉を聞いたまま動かない。
「……それって」
藤宮は、椅子を引かずに一歩だけ距離を詰める。
「俺が、勘違いしてもええん?」
東雲は一瞬だけ目を見開き、すぐに視線を戻す。
「……勘違いではないと思う」
短く、区切る。
「確認、やろ」
藤宮は、息を吐いた。胸の奥が、ゆっくり落ち着く。
「そっか」
指先が、自然に机の縁に触れる。
「俺、智輝の隣におりたい」
言い切りだった。声は、揺れていない。
「友達かどうかは、今はええ」
東雲は、黙って聞いている。
「選ぶなら……智輝を選ぶ」
沈黙が落ちる。東雲は、そのまま頷いた。
「……うん」
藤宮は、視線を逸らさずに続ける。
「確認ついでに、もう一個」
東雲は、小さく頷く。
「俺らさ……付き合うってことで、ええんかな」
問いは、静かだった。
東雲は一度目を伏せ、すぐに顔を上げる。
「……ええと思う」
藤宮は、肩の力を抜く。
「そっか」
それだけ言って、息を吐いた。
部室は、変わらず静かだった。
椅子も、机も、昨日と同じ場所にある。
ただ、二人の距離だけが、少しだけ違っていた。
