その日も、藤宮は部室にいた。
特別な理由があるわけじゃない。
授業が終わって、バイトまで少し時間があって、
気づいたら足が向いていただけだ。
東雲はそれを、受け入れているようだった。
いつもの席。
いつもの距離。
藤宮は窓際の椅子に腰を下ろし、
スマホを眺めているようで、実際には何も見ていない。
東雲は机に向かい、本を開いたまま、ページをめくるでもなく、
静かに時間を過ごしていた。
沈黙は、不自然じゃなかった。
ここでは、
無理に話さなくてもいい。
それが当たり前になりつつあった。
——控えめなノックの音がした。
二人とも、同時に顔を上げる。
扉の向こうに立っていたのは、見覚えのない男子学生だった。
一回生だろうか。
肩にかけた鞄を握りしめ、立ち尽くしている。
「……すみません」
声は小さく、どこか頼りなかった。
入っていいのか、帰るべきなのか。
本人にも分からないまま、ノックしてしまったような顔。
——東雲は、立ち上がらずに言った。
「どうぞ」
男子学生は一歩だけ中に入り、
それきり動けなくなった。
「……あの……」
言葉が続かない。
東雲は、すぐには何も聞かなかった。
代わりに、ゆっくり立ち上がると、
棚からカップを取り出した。
「良かったら、お茶いれるけど」
男子学生は、驚いたように瞬きをした。
「……え」
「温かい方がええやろ。座って」
理由も、条件もない誘いだった。
男子学生は、戸惑いながら椅子に腰を下ろした。
その動きはぎこちなく、
まるで逃げ道を探しているみたいだった。
湯を沸かす音が、部屋に小さく響く。
その間も、東雲は何も聞かない。
藤宮も、口を挟まない。
やがて、湯気の立つカップが置かれた。
「……ここ、何ですか」
ぽつりと、男子学生が聞いた。
東雲は、少し間をおいて答えた。
「サークル。
Silent Societyっていう」
「……何するサークルなんですか」
「決まったことは、特にないかな」
藤宮には東雲が苦笑したように見えた。
「迷い込んできた人と、話すことが多い」
「困ってることがあったら、聞くこともあるよ」
遠回しで、柔らかい誘い水をむけているみたいだった。
男子学生は、カップに視線を落としたまま、
しばらく黙り込んだ。
指先が、震えている。
——ぽとり、と。
カップの縁に、雫が落ちた。
涙だった。
「……っ」
慌てて袖で拭おうとするが、止まらない。
東雲は、何も言わなかった。
藤宮も、動かない。
急かされない沈黙の中で、
男子学生は何度も息を吸い、ようやく、声を絞り出した。
「……あの……俺……」
そこから先は、
堰を切ったみたいだった。
言葉が絡まり、
順序も曖昧で、
途中で何度も止まりながら——
それでも、
必死に、話し始めた。
「……俺、D大祭の実行委員会に入ってて」
言い出した途端、言葉が早くなった。
「一回生なのに、会計係の補佐をやらされてて。
別に、俺が優秀とかじゃなくて……
人手が足りないから、って言われただけで」
自分に言い聞かせるような口調だった。
「三回生の先輩が会計で……凄く親切で。
分からないことも全部教えてくれて、
飲み行く時も奢ってくれて」
そこで、一瞬だけ言葉が詰まる。
「……嬉しかったんです。
地方から来てて、知り合いもそんなにいなかったし」
東雲は、相づちも打たなかった。
ただ、視線を逸らさずに聞いていた。
「でも……帳簿が合わなくて」
男子学生は、唇を噛んだ。
「最初は俺の計算ミスだと思ったんです。
何回も見直して……それでも合わなくて」
カップを持つ手が、ぎゅっと強ばる。
「現金、減ってて。でも……
先輩が使った、ってすぐには思えなくて」
藤宮は、無意識に背もたれから身体を起こしていた。
「……それで?」
声を出したのは、藤宮だった。
男子学生は、はっとしたように顔を上げるが、
藤宮は続きを促すでもなく、ただそこにいるだけだった。
「……思い切って、言いました。先輩に」
誰にも言わないこと。
金は返してくれたらいいこと。
二度としないなら、それでいいこと。
一緒に会計係も辞めよう、と。
「……そしたら」
男子学生の声が、震えた。
「急に、顔変わって」
親切だった声が、低くなった。
笑っていた目が、冷えた。
「俺が犯人はお前やって言えば、
誰もが俺のこと信じる、って」
息を吸う音が、やけに大きく響く。
「理事の息子やから。友達も多いから。
お前が終わる、って」
藤宮の眉が、わずかに動いた。
「……帳簿は、お前が改竄しろ、って。
現金実査の時は、見せ金用意しろ、って」
男子学生は、首を振った。
「俺……そんなこと、できないって言いました。
でも……」
退学。
犯人にされる恐怖。
「……怖かったんです」
その一言だけで、十分すぎるほど伝わった。
「家、裕福じゃないし。この大学、やっと入れて……
失うのが、怖くて」
しばらく、沈黙が落ちた。
東雲は、ようやく口を開いた。
「……今も、脅されてる?」
男子学生は、力なく頷いた。
「……今日も、
『余計なことしたら分かってるよな』
って……」
東雲は、静かに息を吐いた。
そして、はっきりと言った。
「これはな」
視線が、男子学生をまっすぐ捉える。
「君が一人で背負う話ちゃう」
男子学生の目から、また涙が溢れた。
沈黙の中で、藤宮がゆっくりと口を開いた。
「……それ、脅迫や」
声は低く、感情を抑えたものだった。
男子学生が、はっと顔を上げる。
「理事の息子やから、
自分の言うことが通るって思い込んでる。
立場利用して、黙らせて、罪をなすりつけてる」
藤宮は、一度言葉を切った。
「帳簿改竄させるんも、見せ金用意させるんも、
全部アウトや」
法律用語を並べることはしなかった。
それでも、その一言一言には重みがあった。
「……君が悪いんは、
誰にも相談せんかったことや」
男子学生の肩が、びくりと揺れる。
「でもな」
藤宮は、視線を逸らさずに続けた。
「それは“罪”やなくて、
追い込まれて判断できんようになってただけや」
藤宮は、感情より先に、頭の中で線を引いてしまう。
「このまま黙ってたら、君は犯人にされる」
静かな断言だった。
「でも、今ここで話したことで、状況は変えられる」
男子学生は、震える手でカップを握りしめた。
「……俺、どうしたら……」
東雲が、藤宮の言葉を受け取るように、
ゆっくりと口を開いた。
「……実はな」
一度、視線を藤宮に向けてから、男子学生へ戻した。
「このサークル、元は先輩が作った場所やねん」
男子学生は、首を傾げた。
「先輩……?」
「うん。今はもう卒業してるけど」
東雲の声は、淡々としていた。
「弁護士や。この大学のOBでもある」
男子学生の目が、わずかに見開かれる。
「……弁護士……」
「俺らが直接どうこうする話ちゃう。でも、その先輩なら——
大学の事情も、法の扱い方も、分かってる」
東雲は、そこで一度、言葉を切った。
「……君を守れる」
男子学生は、しばらく黙り込んだ。
視線が彷徨い、何度も息を吸っては吐く。
「……俺……」
声が、掠れた。
「大事にしたくなくて……でも……もう、限界で……」
東雲は、静かに頷いた。
「大事になってしまうと思う。でも、ひとりで抱えんでええ」
男子学生の目から、また涙が溢れた。
「……お願いします」
その言葉は、ようやく辿り着いた場所で、
差し出された救難信号みたいだった。
東雲は、短く息を吸い、スマホを取り出した。
「……分かった」
画面に表示された名前を見て、一瞬だけ、表情が和らぐ。
「今から、連絡する」
藤宮は、その横顔を見つめながら、
胸の奥に、言葉にできない感覚を覚えていた。
(……東雲、
そんな顔で人の人生背負うんか)
知らないうちに、東雲のいる場所は、
“軽いサークル”なんかじゃないと藤宮には思えた。
電話を切った東雲は、スマホを机に伏せた。
「……三十分で来れるって」
藤宮が、思わず聞き返す。
「三十分?」
「うん。たまたま、近くにおるらしい」
“たまたま”と言うには、あまりにも迷いがなかった。
男子学生は、不安そうに二人を見比べている。
「……本当に……来てくれるんですか」
東雲は、はっきり頷いた。
「来る」
その断言に、男子学生の肩から、少しだけ力が抜けた。
部屋に、また静けさが戻る。
湯気の消えかけたカップを見つめながら、
藤宮は、さっきから引っかかっていることを口にした。
「……その先輩って」
東雲が顔を上げる。
「弁護士言うてたけど……どんな人なん?」
一瞬だけ、東雲の表情が変わった。
困ったような、
諦めたような、
それでいて、どこか安心したような。
「藤宮とここで初めて会った時に言うたやろ。
このサークルの創始者で……隣の家の人」
「ああ。」
藤宮は確かに聞いたことを思い出した。
「昔からの。幼馴染みたいなもんやな」
藤宮は、目を瞬かせた。
「……弁護士って忙しいんちゃうの?
三十分で来る距離におったって言うても」
東雲は、少し視線を逸らした。
「……保護者、みたいな人やから」
その言い方が、やけに淡々としていて、
余計に現実味を帯びていた。
「昔から、俺が面倒なことに巻き込まれると、
先に気づく人や」
藤宮は、胸の奥がざわつくのを感じた。
(……何やそれ)
幼馴染。
隣人。
保護者。
どれも、
今の自分が踏み込める距離じゃない。
「……昔から可愛がられてたんやな」
何気なく言ったつもりの言葉に、
東雲は即座に返した。
「可愛がられてはない」
間髪入れずに。
「過保護なだけ」
藤宮は、思わず苦笑した。
「それ、可愛がられてる言うねん」
東雲は、返事をしなかった。
ただ、無意識にカップを両手で包み込む。
男子学生は、二人のやり取りを見ながら、少しだけ表情を和らげていた。
「……あの」
おずおずと声が上がる。
「その人……怒りますか」
東雲は、少し考えてから答えた。
「……状況には、な」
「彼には?」
藤宮が、横から聞いた。
東雲は、ちらりと藤宮を見る。
「……多分、冷静に怒る」
藤宮は、背筋が伸びる感覚を覚えた。
(……一番怖いやつや)
窓の外が、少しずつ暗くなっていく。
三十分。短いようで、やけに長い時間。
藤宮は、時計を見てから、東雲を見た。
(……東雲は、この場所で、
こんなこと、ずっと一人で背負ってきたんか)
その時、廊下の向こうから、足音が聞こえた。
はっきりと、迷いのない足音だった。
ノックはなかった。
扉が、ためらいもなく開いた。
「遅なって悪い」
そう言って入ってきた男は、場の空気を一瞬で塗り替えた。
スーツ姿。声は落ち着いていて、視線は迷わない。
「東条さん」
東雲がそう呼んだ。
「……おう」
ほんの一瞬、間があった。
呼び方が、いつもと違うのだろうか、と藤宮は思う。
周りに人がいることを意識して、
あえて距離を取った呼び方に聞こえた。
短く応えてから、室内を一瞥する。男子学生、藤宮、机の上のメモ。
それだけで、大体の状況を把握したようだった。
「君やな」
一回生の男子学生が、慌てて立ち上がる。
「は、はい」
「座ってええ。緊張せんでええよ」
声は柔らかい。
けれど、余計な優しさはない。
東条は椅子を引き、腰を下ろした。
「……まず確認する」
淡々とした口調で、事実だけを拾い上げていく。
金の流れ。
帳簿。
脅しの言葉。
男子学生は、途中で言葉に詰まりながらも、
必死に説明した。
東条は遮らない。
感情も挟まない。
話が終わると、少しだけ顎に手を当てた。
「……なるほどな」
それだけだった。
藤宮は、その反応に驚いていた。
(……それだけ?)
だが、次の瞬間。
「これは学生がどうこうできる話やない」
はっきり、断言した。
「脅迫。業務上横領。共犯強要。改竄指示」
短い言葉が、積み上がる。
「君が誰にも相談せんかったのは、褒められたことやない」
男子学生の肩が、びくりと揺れる。
「けどな」
東条は、視線を逸らさず続けた。
「追い込まれてた。立場も、知識も、全部利用されてた」
そこで、少しだけ声の温度が変わった。
「罪は主犯にある」
男子学生の目に、信じられない、という色が浮かぶ。
「……俺、捕まりますか」
東条は、首を横に振った。
「ない。事情は全部通る」
きっぱりと。
——俺が通す。
藤宮にはそう聞こえた。
「ただし、黙ってたことは叱られる。それは覚悟しとき」
「……叱られる、んですね」
男子学生が、恐る恐る言った。
東条は、はっきり頷く。
「叱られる」
間を置かずに。
「でもな、
それは“守られる側”に立った人間に向けての叱りや」
男子学生は、一瞬きょとんとしてから、
ふっと肩の力を抜いた。
「……はい」
声が、さっきよりずっと軽かった。
「……ちゃんと、話してよかったです」
東雲が、静かに頷く。
「それでええ」
男子学生は、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
男子学生が帰り、部室には三人だけが残った。
「……大丈夫そうやな」
東条が、満足そうに息を吐いた。
「帰り際の顔、最初と全然ちゃうかったわ」
藤宮の言葉に
「うん」
東雲が頷いた。
「啓介が説明してくれたからやと思う」
東雲の東条への呼び方が変わったことに藤宮は気がついた。
普段の二人の距離が見えるようで、胸がざわついた。
「せやろ」
東条は当然のように言ってから、急ににやっと笑った。
「でもな」
東雲を見る。
「説明する前から、あの子、だいぶ落ち着いてたで」
「……そう?」
「そうや」
東条は断言した。
「智輝が横におったからや」
東雲が一瞬、言葉に詰まった。
「いや、それは——」
「あるある」
東条は遮る。
「昔からそうや。お前、自分が何してるか全然分かってへん」
そう言ってから、今度は藤宮を見る。
「なあ、藤宮くん」
藤宮は名前を知られていることを以外に思ったが、返事だけに留めた。
「はい」
「こいつな」
東条は、完全に“語りたい顔”になっていた。
「人の話聞くとき、声も表情も、距離も、
全部ちゃんと相手に合わせるねん」
東雲が慌てる。
「ちょ、啓介」
「ほんまのことや」
東条は止まらない。
「せやから、
追い詰められてる人間ほど、勝手に安心してまう」
藤宮は、さっきの男子学生の様子を思い出す。
確かに、東条が来る前から、あの男子学生は少しずつ落ち着いていた。
「……確かに」
藤宮がぽつりと言う。
「最初に話し始めたとき、もう泣きそうやったけど、
途中からちゃんと話せてましたね」
「せやろ」
東条は満足そうに頷く。
「それ、智輝の前やったからや」
「……やめて」
東雲は耳まで赤くなって、視線を逸らす。
「自分で自覚してへんとこが、一番たち悪い」
東条は笑った。
「せやけど、そこが可愛い」
はっきり言った。
「昔から、こうやって人助けして、自分は何もしてへん顔する」
藤宮は、完全に圧倒されていた。
(……ほんまに自慢しに来ただけやな、この人)
「でな」
東条は、最後にとどめを刺す。
「それを横で見て、
ちゃんと“ええな”って思える奴が来たみたいやから、ちょっと嬉しなってもうてん」
藤宮が目を瞬かせる。
「俺ですか」
「せや」
東条はあっさり言った。
「智輝の良さ、分からん奴は信用ならんからな」
東雲は、完全に顔を伏せた。
「……ほんま、やめて」
東条は、それを見て心底楽しそうに笑った。
東条は、東雲から視線を外さないまま言った。
「小さい頃な」
東雲が、ぴくっと反応する。
「まだ、自分の気持ちを言葉にするの下手な頃や」
「……やめて」
東雲は東条を止めたがっているようだが、東条は止まらなかった。
「公園でな、知らん子が泣いてたら、気づいたら隣に座ってんねん」
藤宮が、思わず東条を見る。
「泣いてる理由も聞かん。慰め方も分からん。ただ、横におるだけ」
東条は肩をすくめた。
「で、相手が落ち着くまで、自分は黙って砂いじってる」
東雲は、完全に顔を伏せた。
「……覚えてへん」
「覚えてへんやろな」
東条は笑う。
「せやけど、泣いてた子の親には、めちゃくちゃ感謝された」
藤宮の喉が、わずかに鳴った。
「それ、今と一緒や」
ぽつりと出た言葉だった。
東条は、満足そうに頷く。
「せやろ」
それから、わざとらしく東雲を見る。
「その頃からや。人の話聞くときの距離も、
視線の合わせ方も、全部変わってへん」
「だからな」
東条は、はっきり言った。
「自覚なしでそれやるんは、ほんまに罪や」
「……だから、やめて」
東雲の声は、ほとんど抗議になっていない。
東条は楽しそうだった。
「可愛かったで」
即答。
「今もやけどな」
藤宮は、東雲の横顔を見て、ゆっくり息を吐いた。
(……これは確かに、自慢したなるわ)
東条は、少しだけ間を置いてから、思い出したように続けた。
「あともう一個な」
東雲が、嫌そうに顔を上げた。
「まだ言うん?」
「言う」
即答だった。
「幼稚園の頃や」
藤宮が、自然と耳を傾ける。
「お前、帰りの会のあとで、
毎回教室残ってたん覚えてるか」
東雲は、首をかしげた。
「……?」
「せやろな」
東条は笑った。
「先生がな、よく一人で片づけしてたんや」
東雲は、はっとした顔になる。
「……あ」
「思い出したか」
東雲は頷いた。
「誰に頼まれたわけでもないのに、椅子並べて、
床のゴミ拾って」
東雲は、小さく言い訳する。
「でも、先生一人やったし……」
「そう言うと思た」
東条は、完全に“分かってる顔”だった。
「でな」
少し声のトーンを落とす。
「先生が
“ありがとう”って言うたら、お前、何て返したと思う」
藤宮が、思わず訊く。
「……何て?」
東条は、当時を再現するみたいに、少しだけ声を柔らかくした。
「“だいじょうぶ。
せんせい、つかれてるもん”」
東雲は、完全に固まった。
「……やめて」
「まだや」
東条は止まらない。
「そのあとや」
「もうええって」
「先生が泣きそうになってたら、どうしたと思う」
藤宮は、
もう答えが分かっている気がした。
「……?」
「ハンカチ出してな」
東条は、指で小さな四角を作る。
「ポケットから」
「……」
「で、ぎゅって握って、差し出すねん」
東雲は、完全に顔を伏せた。
「何も言わんと」
東条は、しみじみと言った。
「その場で俺、思たわ」
藤宮に視線を向ける。
「こいつ、一生こうやなって」
藤宮は、胸の奥が静かに揺れるのを感じていた。
(……だからか)
誰かに頼まれたわけでもない。
評価されたいわけでもない。
ただ、
目の前に“疲れてる人”がいたら、自然に体が動く。
「今も一緒や」
東条は、東雲を見て言った。
「話聞いて、横におって、安心させて」
そして、にやっと笑う。
「可愛いやろ」
藤宮は、小さく息を吐いた。
「……これは」
言葉を選んでから、正直に言う。
「来てしまう理由、分かりました」
東雲は、何も言えずに黙り込んだ。
耳まで赤い。
「ほんでな」
東条は、どこか楽しそうに続けた。
「そのあとがまた——」
そこまで言いかけた瞬間、東条のスマホが短く震えた。
画面を見た途端、眉がわずかに動く。
「……あかん」
名残惜しそうに、小さく舌打ちした。
「呼び出しや」
「仕事?」
東雲が訊く。
「仕事」
東条は即答した。
「ほんまは、まだ語り足りんねんけどな」
そう言いながら、上着を手に取る。
「続きは、また今度や」
「もうええって」
東雲が言うと、東条はにやっと笑った。
「それは俺が決める」
それから、藤宮に視線を向ける。
「藤宮」
「はい」
「今日は付き合ってくれてありがとうな」
軽い言い方だったけど、ちゃんと礼だった。
「智輝のこと、頼むで」
そう言って、当たり前のように告げる。
藤宮は、少し戸惑いながらも頷いた。
「……はい」
東条は満足そうに頷き、それから東雲を見る。
「じゃあな、智輝」
いつも通りの呼び方。
そのまま、振り返らずに部屋を出て行った。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。部室に、静かな空気が戻った。
しばらく、どちらも何も言わない。
藤宮は、無意識に東雲を見る。
さっきまでの話の余韻が、まだ残っている。
「……ええ人やな」
ぽつりと漏れた。
「啓介?」
「うん」
藤宮は、少し言いにくそうに続ける。
「なんか……本気で大事にしてるん、分かる」
「まあ」
東雲は苦笑した。
「過保護やけどな」
「でも」
藤宮は、視線を床に落とす。
「名前で呼ぶの、自然やった」
智輝が首をかしげる。
「……名前?」
「智輝、って」
一瞬、空気が止まった。
藤宮は、自分でも驚くほど素直に言ってしまう。
「……正直、ちょっと羨ましかった」
東雲は、目を瞬かせる。
「え?」
「東条さんだけが呼ぶみたいで」
言ってから、少し照れたように付け足す。
「別に深い意味とかやないけど」
東雲は、しばらく藤宮を見つめていた。
それから、ふっと力を抜いたように言う。
「別にええよ」
「え?」
「呼びたかったら」
あまりにも自然な言い方だった。
「……智輝、って」
藤宮の喉が、わずかに鳴る。
「ええん?」
「うん」
智輝は、少しだけ笑った。
「その代わり」
「代わり?」
「藤宮も、悠誠って呼ばれるん、嫌やなかったら」
藤宮は、一瞬言葉を失った。
それから、ゆっくりと頷く。
「……嫌なわけないやろ」
名前を呼ばれるだけで、距離が少し近づいた気がする。
さっきまでと、同じ部室。
同じ時間。
それなのに、空気だけが、ほんのり甘く変わっていた。
数日後。
藤宮は、また部室にいた。
理由は、先日、東条が話していた通りなんだろうと今はわかっていた。
授業が終わって、バイトまで少し時間があって、いつもの扉の前に立っていた。
東雲は、机に向かって本を読んでいる。ページをめくる音だけが、静かに響いている。
——不意に、スマホが震えた。
東雲が画面を見て、短く息を吐いた。
「……啓介や」
通話に出ると、相手は要点だけを告げた。
理事は辞任。
息子は退学。
使い込まれた金は全額返済済み。
「男子学生の子は、がっつり怒られたけどな」
東雲は、わずかに口元を緩める。
「でも、お咎めなしや。巻き込まれたって判断された」
電話の向こうで、東条が続ける。
「息子の方は、逮捕。逃亡の恐れなしで保釈中。
今は親の管理下や」
淡々とした報告。感情の起伏はない。
「……全部、終わった」
そう言って、通話は切れた。
東雲は、スマホを伏せた。
「……終わったな」
藤宮は、少し間を置いてから頷いた。
「……そうやな」
それ以上、言葉は続かなかった。
部屋には、また静けさが戻る。
数日前まで、人の人生が、
取り返しのつかないところまで転がりかけていた場所。
今は、本と机と、二人分の呼吸だけがある。
藤宮は、窓の外を見た。
季節は、確実に進んでいる。
秋の気配はまだ残っているが、空気の奥には、冬の匂いが混じり始めていた。
「……なんか」
ぽつりと、藤宮が言った。
「ほんまに、
何事もなかったみたいやな」
東雲は、本から目を上げずに答えた。
「そう見えるだけや」
藤宮は、その言葉を噛みしめた。
確かに。何もなかったわけじゃない。
ただ、
**“ここで止まった”**だけだ。
藤宮は、無意識に東雲を見る。
東雲は、今日も変わらず、ここに座っている。
「……静かやな」
「うん」
東雲は、短く返した。
それだけで、十分だった。
世界は、何もなかったように回り続ける。
でも——
藤宮の中では、確かに何かが、静かに残っていた。
——さらに数日後の夜、藤宮はバイトが入っていた。
夕方、SSに顔を出してから職場へ向かい、シフトを終えて店を出たころには、
時計はすでに二十一時を回っていた。
夜風は少し冷たかったが、汗ばんだ身体には心地よい。
(今日はまっすぐ帰ろ)
そう思って歩き出し――数歩進んだところで、ふと足を止めた。
(智輝、今日は遅くまでおるって言うてたな)
その一言が、頭に引っかかった。
理由はない。
ただ、胸の奥が落ち着かない。
(……少しだけ、寄ろか。一緒帰ってもええし。)
自分でも説明できないまま、足は大学の方へ向いていた。
夜のキャンパスは人影が少ない。
街灯の光だけが、まばらに道を照らしている。
旧校舎の前まで来た、そのとき。
――ガンッ。
静かな建物に、不自然な音が響いた。
藤宮は、反射的に息を呑む。
音の方へ足を向けると、
見慣れた扉の輪郭が浮かび上がった。
Silent Society の部屋。
扉の向こうから、押し殺した怒声が漏れてくる。
「……ふざけんなよ」
「やめて。ここで声荒げても意味ない」
東雲の声だった。
藤宮の体が、一気に熱を帯びる。
(誰や)
考えるより先に、ドアノブを掴み、扉を開けた。
「――おい」
部屋の中には、二人の人影。
一人は壁際に追い込まれた東雲。
手首を、強く掴まれている。
もう一人は、見覚えのある男だった。
D大祭実行委員会の件で名前が出ていた、元三回生。
男が、藤宮を睨みつける。
「誰や、お前」
「こっちの台詞や」
藤宮は、まっすぐ歩み寄った。
「ここ、大学の部屋やで。勝手に入って、何してんねん」
「関係ない。俺らの問題や」
「関係あるわ」
藤宮の視線が、東雲の手首に落ちる。
白い肌に、赤い痕がはっきり残っていた。
(……痛そう)
胸の奥が、強くざわつく。
「離せ」
男は鼻で笑う。
「嫌や言うたら?」
(ああ……こいつ、自分が悪いって一切思ってへん)
東雲が、低い声で言った。
「藤宮、もうええ。外――」
「ええわけあるか」
藤宮は即座に遮った。
男が苛立って手を伸ばす。
藤宮はその腕を払い、掴まれていた手首を外した。
力任せじゃない。動きで外す。
バイト先で、
酔客に絡まれた時に教えられたやり方だった。
「……っ!」
男が体勢を崩す。
藤宮は、東雲を自分の後ろへ引き寄せた。
「下がっとけ、智輝」
呼び捨ての声が、低く落ちた。
東雲の身体が、わずかに強張ったのが伝わってきた。
男が歯ぎしりする。
「調子乗んなよ。」
「それも、こっちの台詞やな。」
藤宮は一歩も引かない。
男が言い返そうとした、そのとき。
藤宮は、視線だけで扉を示した。
「さっき、学生の手首掴んでたとこ。
あれ、写真に残ってたらどうなるか分かるか」
ポケットに手を入れたまま、視線だけを向ける。
「大学の部屋で、学生を力ずくで押さえつけてる写真や。
今、保釈中やろ」
男の顔色が変わる。
「……チクる気か」
「チクるって言葉出る時点で、
自分でもアウトって分かってるやろ」
沈黙。
先に視線を逸らしたのは、男だった。
「……弁護士なんか連れてきやがって」
吐き捨てて、扉へ向かう。
「覚えとけ」
藤宮は肩をすくめる。
「覚えとくけど、
その前に自分のやったこと、覚えといた方がええ」
男は振り返らず、去っていった。
静寂が戻る。
藤宮は、息を吐いてから振り向いた。
「……大丈夫か」
東雲は、少しだけ間を置いて頷く。
「……助かった」
その一言が、胸に刺さる。
「遅くまで残るなら鍵くらいかけとけ。」
「もう終わった話やと思ってたし、まさかここに来るとか思わんかった。」
藤宮は、苦く笑った。
「俺も、帰るつもりやった」
視線を逸らし、続ける。
「でも……なんか嫌な感じして」
東雲は、じっと藤宮を見る。
「……来てくれて、よかった」
その言葉に、藤宮の喉が詰まる。
「……もうさ」
一拍置いて。
「迷い込むだけの人、無理やわ」
東雲が首を傾げる。
「どういう意味」
「お前が危ない目に遭ってるの見て、
“関係ない”って思われへん」
静かに、はっきり。
「正式に、入部する」
東雲は一瞬黙り、それから、ほんの少し笑った。
「……ええよ」
差し出された手を、藤宮は握り返す。
Silent Societyに、
新しい部員が加わった夜だった。
特別な理由があるわけじゃない。
授業が終わって、バイトまで少し時間があって、
気づいたら足が向いていただけだ。
東雲はそれを、受け入れているようだった。
いつもの席。
いつもの距離。
藤宮は窓際の椅子に腰を下ろし、
スマホを眺めているようで、実際には何も見ていない。
東雲は机に向かい、本を開いたまま、ページをめくるでもなく、
静かに時間を過ごしていた。
沈黙は、不自然じゃなかった。
ここでは、
無理に話さなくてもいい。
それが当たり前になりつつあった。
——控えめなノックの音がした。
二人とも、同時に顔を上げる。
扉の向こうに立っていたのは、見覚えのない男子学生だった。
一回生だろうか。
肩にかけた鞄を握りしめ、立ち尽くしている。
「……すみません」
声は小さく、どこか頼りなかった。
入っていいのか、帰るべきなのか。
本人にも分からないまま、ノックしてしまったような顔。
——東雲は、立ち上がらずに言った。
「どうぞ」
男子学生は一歩だけ中に入り、
それきり動けなくなった。
「……あの……」
言葉が続かない。
東雲は、すぐには何も聞かなかった。
代わりに、ゆっくり立ち上がると、
棚からカップを取り出した。
「良かったら、お茶いれるけど」
男子学生は、驚いたように瞬きをした。
「……え」
「温かい方がええやろ。座って」
理由も、条件もない誘いだった。
男子学生は、戸惑いながら椅子に腰を下ろした。
その動きはぎこちなく、
まるで逃げ道を探しているみたいだった。
湯を沸かす音が、部屋に小さく響く。
その間も、東雲は何も聞かない。
藤宮も、口を挟まない。
やがて、湯気の立つカップが置かれた。
「……ここ、何ですか」
ぽつりと、男子学生が聞いた。
東雲は、少し間をおいて答えた。
「サークル。
Silent Societyっていう」
「……何するサークルなんですか」
「決まったことは、特にないかな」
藤宮には東雲が苦笑したように見えた。
「迷い込んできた人と、話すことが多い」
「困ってることがあったら、聞くこともあるよ」
遠回しで、柔らかい誘い水をむけているみたいだった。
男子学生は、カップに視線を落としたまま、
しばらく黙り込んだ。
指先が、震えている。
——ぽとり、と。
カップの縁に、雫が落ちた。
涙だった。
「……っ」
慌てて袖で拭おうとするが、止まらない。
東雲は、何も言わなかった。
藤宮も、動かない。
急かされない沈黙の中で、
男子学生は何度も息を吸い、ようやく、声を絞り出した。
「……あの……俺……」
そこから先は、
堰を切ったみたいだった。
言葉が絡まり、
順序も曖昧で、
途中で何度も止まりながら——
それでも、
必死に、話し始めた。
「……俺、D大祭の実行委員会に入ってて」
言い出した途端、言葉が早くなった。
「一回生なのに、会計係の補佐をやらされてて。
別に、俺が優秀とかじゃなくて……
人手が足りないから、って言われただけで」
自分に言い聞かせるような口調だった。
「三回生の先輩が会計で……凄く親切で。
分からないことも全部教えてくれて、
飲み行く時も奢ってくれて」
そこで、一瞬だけ言葉が詰まる。
「……嬉しかったんです。
地方から来てて、知り合いもそんなにいなかったし」
東雲は、相づちも打たなかった。
ただ、視線を逸らさずに聞いていた。
「でも……帳簿が合わなくて」
男子学生は、唇を噛んだ。
「最初は俺の計算ミスだと思ったんです。
何回も見直して……それでも合わなくて」
カップを持つ手が、ぎゅっと強ばる。
「現金、減ってて。でも……
先輩が使った、ってすぐには思えなくて」
藤宮は、無意識に背もたれから身体を起こしていた。
「……それで?」
声を出したのは、藤宮だった。
男子学生は、はっとしたように顔を上げるが、
藤宮は続きを促すでもなく、ただそこにいるだけだった。
「……思い切って、言いました。先輩に」
誰にも言わないこと。
金は返してくれたらいいこと。
二度としないなら、それでいいこと。
一緒に会計係も辞めよう、と。
「……そしたら」
男子学生の声が、震えた。
「急に、顔変わって」
親切だった声が、低くなった。
笑っていた目が、冷えた。
「俺が犯人はお前やって言えば、
誰もが俺のこと信じる、って」
息を吸う音が、やけに大きく響く。
「理事の息子やから。友達も多いから。
お前が終わる、って」
藤宮の眉が、わずかに動いた。
「……帳簿は、お前が改竄しろ、って。
現金実査の時は、見せ金用意しろ、って」
男子学生は、首を振った。
「俺……そんなこと、できないって言いました。
でも……」
退学。
犯人にされる恐怖。
「……怖かったんです」
その一言だけで、十分すぎるほど伝わった。
「家、裕福じゃないし。この大学、やっと入れて……
失うのが、怖くて」
しばらく、沈黙が落ちた。
東雲は、ようやく口を開いた。
「……今も、脅されてる?」
男子学生は、力なく頷いた。
「……今日も、
『余計なことしたら分かってるよな』
って……」
東雲は、静かに息を吐いた。
そして、はっきりと言った。
「これはな」
視線が、男子学生をまっすぐ捉える。
「君が一人で背負う話ちゃう」
男子学生の目から、また涙が溢れた。
沈黙の中で、藤宮がゆっくりと口を開いた。
「……それ、脅迫や」
声は低く、感情を抑えたものだった。
男子学生が、はっと顔を上げる。
「理事の息子やから、
自分の言うことが通るって思い込んでる。
立場利用して、黙らせて、罪をなすりつけてる」
藤宮は、一度言葉を切った。
「帳簿改竄させるんも、見せ金用意させるんも、
全部アウトや」
法律用語を並べることはしなかった。
それでも、その一言一言には重みがあった。
「……君が悪いんは、
誰にも相談せんかったことや」
男子学生の肩が、びくりと揺れる。
「でもな」
藤宮は、視線を逸らさずに続けた。
「それは“罪”やなくて、
追い込まれて判断できんようになってただけや」
藤宮は、感情より先に、頭の中で線を引いてしまう。
「このまま黙ってたら、君は犯人にされる」
静かな断言だった。
「でも、今ここで話したことで、状況は変えられる」
男子学生は、震える手でカップを握りしめた。
「……俺、どうしたら……」
東雲が、藤宮の言葉を受け取るように、
ゆっくりと口を開いた。
「……実はな」
一度、視線を藤宮に向けてから、男子学生へ戻した。
「このサークル、元は先輩が作った場所やねん」
男子学生は、首を傾げた。
「先輩……?」
「うん。今はもう卒業してるけど」
東雲の声は、淡々としていた。
「弁護士や。この大学のOBでもある」
男子学生の目が、わずかに見開かれる。
「……弁護士……」
「俺らが直接どうこうする話ちゃう。でも、その先輩なら——
大学の事情も、法の扱い方も、分かってる」
東雲は、そこで一度、言葉を切った。
「……君を守れる」
男子学生は、しばらく黙り込んだ。
視線が彷徨い、何度も息を吸っては吐く。
「……俺……」
声が、掠れた。
「大事にしたくなくて……でも……もう、限界で……」
東雲は、静かに頷いた。
「大事になってしまうと思う。でも、ひとりで抱えんでええ」
男子学生の目から、また涙が溢れた。
「……お願いします」
その言葉は、ようやく辿り着いた場所で、
差し出された救難信号みたいだった。
東雲は、短く息を吸い、スマホを取り出した。
「……分かった」
画面に表示された名前を見て、一瞬だけ、表情が和らぐ。
「今から、連絡する」
藤宮は、その横顔を見つめながら、
胸の奥に、言葉にできない感覚を覚えていた。
(……東雲、
そんな顔で人の人生背負うんか)
知らないうちに、東雲のいる場所は、
“軽いサークル”なんかじゃないと藤宮には思えた。
電話を切った東雲は、スマホを机に伏せた。
「……三十分で来れるって」
藤宮が、思わず聞き返す。
「三十分?」
「うん。たまたま、近くにおるらしい」
“たまたま”と言うには、あまりにも迷いがなかった。
男子学生は、不安そうに二人を見比べている。
「……本当に……来てくれるんですか」
東雲は、はっきり頷いた。
「来る」
その断言に、男子学生の肩から、少しだけ力が抜けた。
部屋に、また静けさが戻る。
湯気の消えかけたカップを見つめながら、
藤宮は、さっきから引っかかっていることを口にした。
「……その先輩って」
東雲が顔を上げる。
「弁護士言うてたけど……どんな人なん?」
一瞬だけ、東雲の表情が変わった。
困ったような、
諦めたような、
それでいて、どこか安心したような。
「藤宮とここで初めて会った時に言うたやろ。
このサークルの創始者で……隣の家の人」
「ああ。」
藤宮は確かに聞いたことを思い出した。
「昔からの。幼馴染みたいなもんやな」
藤宮は、目を瞬かせた。
「……弁護士って忙しいんちゃうの?
三十分で来る距離におったって言うても」
東雲は、少し視線を逸らした。
「……保護者、みたいな人やから」
その言い方が、やけに淡々としていて、
余計に現実味を帯びていた。
「昔から、俺が面倒なことに巻き込まれると、
先に気づく人や」
藤宮は、胸の奥がざわつくのを感じた。
(……何やそれ)
幼馴染。
隣人。
保護者。
どれも、
今の自分が踏み込める距離じゃない。
「……昔から可愛がられてたんやな」
何気なく言ったつもりの言葉に、
東雲は即座に返した。
「可愛がられてはない」
間髪入れずに。
「過保護なだけ」
藤宮は、思わず苦笑した。
「それ、可愛がられてる言うねん」
東雲は、返事をしなかった。
ただ、無意識にカップを両手で包み込む。
男子学生は、二人のやり取りを見ながら、少しだけ表情を和らげていた。
「……あの」
おずおずと声が上がる。
「その人……怒りますか」
東雲は、少し考えてから答えた。
「……状況には、な」
「彼には?」
藤宮が、横から聞いた。
東雲は、ちらりと藤宮を見る。
「……多分、冷静に怒る」
藤宮は、背筋が伸びる感覚を覚えた。
(……一番怖いやつや)
窓の外が、少しずつ暗くなっていく。
三十分。短いようで、やけに長い時間。
藤宮は、時計を見てから、東雲を見た。
(……東雲は、この場所で、
こんなこと、ずっと一人で背負ってきたんか)
その時、廊下の向こうから、足音が聞こえた。
はっきりと、迷いのない足音だった。
ノックはなかった。
扉が、ためらいもなく開いた。
「遅なって悪い」
そう言って入ってきた男は、場の空気を一瞬で塗り替えた。
スーツ姿。声は落ち着いていて、視線は迷わない。
「東条さん」
東雲がそう呼んだ。
「……おう」
ほんの一瞬、間があった。
呼び方が、いつもと違うのだろうか、と藤宮は思う。
周りに人がいることを意識して、
あえて距離を取った呼び方に聞こえた。
短く応えてから、室内を一瞥する。男子学生、藤宮、机の上のメモ。
それだけで、大体の状況を把握したようだった。
「君やな」
一回生の男子学生が、慌てて立ち上がる。
「は、はい」
「座ってええ。緊張せんでええよ」
声は柔らかい。
けれど、余計な優しさはない。
東条は椅子を引き、腰を下ろした。
「……まず確認する」
淡々とした口調で、事実だけを拾い上げていく。
金の流れ。
帳簿。
脅しの言葉。
男子学生は、途中で言葉に詰まりながらも、
必死に説明した。
東条は遮らない。
感情も挟まない。
話が終わると、少しだけ顎に手を当てた。
「……なるほどな」
それだけだった。
藤宮は、その反応に驚いていた。
(……それだけ?)
だが、次の瞬間。
「これは学生がどうこうできる話やない」
はっきり、断言した。
「脅迫。業務上横領。共犯強要。改竄指示」
短い言葉が、積み上がる。
「君が誰にも相談せんかったのは、褒められたことやない」
男子学生の肩が、びくりと揺れる。
「けどな」
東条は、視線を逸らさず続けた。
「追い込まれてた。立場も、知識も、全部利用されてた」
そこで、少しだけ声の温度が変わった。
「罪は主犯にある」
男子学生の目に、信じられない、という色が浮かぶ。
「……俺、捕まりますか」
東条は、首を横に振った。
「ない。事情は全部通る」
きっぱりと。
——俺が通す。
藤宮にはそう聞こえた。
「ただし、黙ってたことは叱られる。それは覚悟しとき」
「……叱られる、んですね」
男子学生が、恐る恐る言った。
東条は、はっきり頷く。
「叱られる」
間を置かずに。
「でもな、
それは“守られる側”に立った人間に向けての叱りや」
男子学生は、一瞬きょとんとしてから、
ふっと肩の力を抜いた。
「……はい」
声が、さっきよりずっと軽かった。
「……ちゃんと、話してよかったです」
東雲が、静かに頷く。
「それでええ」
男子学生は、深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。
男子学生が帰り、部室には三人だけが残った。
「……大丈夫そうやな」
東条が、満足そうに息を吐いた。
「帰り際の顔、最初と全然ちゃうかったわ」
藤宮の言葉に
「うん」
東雲が頷いた。
「啓介が説明してくれたからやと思う」
東雲の東条への呼び方が変わったことに藤宮は気がついた。
普段の二人の距離が見えるようで、胸がざわついた。
「せやろ」
東条は当然のように言ってから、急ににやっと笑った。
「でもな」
東雲を見る。
「説明する前から、あの子、だいぶ落ち着いてたで」
「……そう?」
「そうや」
東条は断言した。
「智輝が横におったからや」
東雲が一瞬、言葉に詰まった。
「いや、それは——」
「あるある」
東条は遮る。
「昔からそうや。お前、自分が何してるか全然分かってへん」
そう言ってから、今度は藤宮を見る。
「なあ、藤宮くん」
藤宮は名前を知られていることを以外に思ったが、返事だけに留めた。
「はい」
「こいつな」
東条は、完全に“語りたい顔”になっていた。
「人の話聞くとき、声も表情も、距離も、
全部ちゃんと相手に合わせるねん」
東雲が慌てる。
「ちょ、啓介」
「ほんまのことや」
東条は止まらない。
「せやから、
追い詰められてる人間ほど、勝手に安心してまう」
藤宮は、さっきの男子学生の様子を思い出す。
確かに、東条が来る前から、あの男子学生は少しずつ落ち着いていた。
「……確かに」
藤宮がぽつりと言う。
「最初に話し始めたとき、もう泣きそうやったけど、
途中からちゃんと話せてましたね」
「せやろ」
東条は満足そうに頷く。
「それ、智輝の前やったからや」
「……やめて」
東雲は耳まで赤くなって、視線を逸らす。
「自分で自覚してへんとこが、一番たち悪い」
東条は笑った。
「せやけど、そこが可愛い」
はっきり言った。
「昔から、こうやって人助けして、自分は何もしてへん顔する」
藤宮は、完全に圧倒されていた。
(……ほんまに自慢しに来ただけやな、この人)
「でな」
東条は、最後にとどめを刺す。
「それを横で見て、
ちゃんと“ええな”って思える奴が来たみたいやから、ちょっと嬉しなってもうてん」
藤宮が目を瞬かせる。
「俺ですか」
「せや」
東条はあっさり言った。
「智輝の良さ、分からん奴は信用ならんからな」
東雲は、完全に顔を伏せた。
「……ほんま、やめて」
東条は、それを見て心底楽しそうに笑った。
東条は、東雲から視線を外さないまま言った。
「小さい頃な」
東雲が、ぴくっと反応する。
「まだ、自分の気持ちを言葉にするの下手な頃や」
「……やめて」
東雲は東条を止めたがっているようだが、東条は止まらなかった。
「公園でな、知らん子が泣いてたら、気づいたら隣に座ってんねん」
藤宮が、思わず東条を見る。
「泣いてる理由も聞かん。慰め方も分からん。ただ、横におるだけ」
東条は肩をすくめた。
「で、相手が落ち着くまで、自分は黙って砂いじってる」
東雲は、完全に顔を伏せた。
「……覚えてへん」
「覚えてへんやろな」
東条は笑う。
「せやけど、泣いてた子の親には、めちゃくちゃ感謝された」
藤宮の喉が、わずかに鳴った。
「それ、今と一緒や」
ぽつりと出た言葉だった。
東条は、満足そうに頷く。
「せやろ」
それから、わざとらしく東雲を見る。
「その頃からや。人の話聞くときの距離も、
視線の合わせ方も、全部変わってへん」
「だからな」
東条は、はっきり言った。
「自覚なしでそれやるんは、ほんまに罪や」
「……だから、やめて」
東雲の声は、ほとんど抗議になっていない。
東条は楽しそうだった。
「可愛かったで」
即答。
「今もやけどな」
藤宮は、東雲の横顔を見て、ゆっくり息を吐いた。
(……これは確かに、自慢したなるわ)
東条は、少しだけ間を置いてから、思い出したように続けた。
「あともう一個な」
東雲が、嫌そうに顔を上げた。
「まだ言うん?」
「言う」
即答だった。
「幼稚園の頃や」
藤宮が、自然と耳を傾ける。
「お前、帰りの会のあとで、
毎回教室残ってたん覚えてるか」
東雲は、首をかしげた。
「……?」
「せやろな」
東条は笑った。
「先生がな、よく一人で片づけしてたんや」
東雲は、はっとした顔になる。
「……あ」
「思い出したか」
東雲は頷いた。
「誰に頼まれたわけでもないのに、椅子並べて、
床のゴミ拾って」
東雲は、小さく言い訳する。
「でも、先生一人やったし……」
「そう言うと思た」
東条は、完全に“分かってる顔”だった。
「でな」
少し声のトーンを落とす。
「先生が
“ありがとう”って言うたら、お前、何て返したと思う」
藤宮が、思わず訊く。
「……何て?」
東条は、当時を再現するみたいに、少しだけ声を柔らかくした。
「“だいじょうぶ。
せんせい、つかれてるもん”」
東雲は、完全に固まった。
「……やめて」
「まだや」
東条は止まらない。
「そのあとや」
「もうええって」
「先生が泣きそうになってたら、どうしたと思う」
藤宮は、
もう答えが分かっている気がした。
「……?」
「ハンカチ出してな」
東条は、指で小さな四角を作る。
「ポケットから」
「……」
「で、ぎゅって握って、差し出すねん」
東雲は、完全に顔を伏せた。
「何も言わんと」
東条は、しみじみと言った。
「その場で俺、思たわ」
藤宮に視線を向ける。
「こいつ、一生こうやなって」
藤宮は、胸の奥が静かに揺れるのを感じていた。
(……だからか)
誰かに頼まれたわけでもない。
評価されたいわけでもない。
ただ、
目の前に“疲れてる人”がいたら、自然に体が動く。
「今も一緒や」
東条は、東雲を見て言った。
「話聞いて、横におって、安心させて」
そして、にやっと笑う。
「可愛いやろ」
藤宮は、小さく息を吐いた。
「……これは」
言葉を選んでから、正直に言う。
「来てしまう理由、分かりました」
東雲は、何も言えずに黙り込んだ。
耳まで赤い。
「ほんでな」
東条は、どこか楽しそうに続けた。
「そのあとがまた——」
そこまで言いかけた瞬間、東条のスマホが短く震えた。
画面を見た途端、眉がわずかに動く。
「……あかん」
名残惜しそうに、小さく舌打ちした。
「呼び出しや」
「仕事?」
東雲が訊く。
「仕事」
東条は即答した。
「ほんまは、まだ語り足りんねんけどな」
そう言いながら、上着を手に取る。
「続きは、また今度や」
「もうええって」
東雲が言うと、東条はにやっと笑った。
「それは俺が決める」
それから、藤宮に視線を向ける。
「藤宮」
「はい」
「今日は付き合ってくれてありがとうな」
軽い言い方だったけど、ちゃんと礼だった。
「智輝のこと、頼むで」
そう言って、当たり前のように告げる。
藤宮は、少し戸惑いながらも頷いた。
「……はい」
東条は満足そうに頷き、それから東雲を見る。
「じゃあな、智輝」
いつも通りの呼び方。
そのまま、振り返らずに部屋を出て行った。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。部室に、静かな空気が戻った。
しばらく、どちらも何も言わない。
藤宮は、無意識に東雲を見る。
さっきまでの話の余韻が、まだ残っている。
「……ええ人やな」
ぽつりと漏れた。
「啓介?」
「うん」
藤宮は、少し言いにくそうに続ける。
「なんか……本気で大事にしてるん、分かる」
「まあ」
東雲は苦笑した。
「過保護やけどな」
「でも」
藤宮は、視線を床に落とす。
「名前で呼ぶの、自然やった」
智輝が首をかしげる。
「……名前?」
「智輝、って」
一瞬、空気が止まった。
藤宮は、自分でも驚くほど素直に言ってしまう。
「……正直、ちょっと羨ましかった」
東雲は、目を瞬かせる。
「え?」
「東条さんだけが呼ぶみたいで」
言ってから、少し照れたように付け足す。
「別に深い意味とかやないけど」
東雲は、しばらく藤宮を見つめていた。
それから、ふっと力を抜いたように言う。
「別にええよ」
「え?」
「呼びたかったら」
あまりにも自然な言い方だった。
「……智輝、って」
藤宮の喉が、わずかに鳴る。
「ええん?」
「うん」
智輝は、少しだけ笑った。
「その代わり」
「代わり?」
「藤宮も、悠誠って呼ばれるん、嫌やなかったら」
藤宮は、一瞬言葉を失った。
それから、ゆっくりと頷く。
「……嫌なわけないやろ」
名前を呼ばれるだけで、距離が少し近づいた気がする。
さっきまでと、同じ部室。
同じ時間。
それなのに、空気だけが、ほんのり甘く変わっていた。
数日後。
藤宮は、また部室にいた。
理由は、先日、東条が話していた通りなんだろうと今はわかっていた。
授業が終わって、バイトまで少し時間があって、いつもの扉の前に立っていた。
東雲は、机に向かって本を読んでいる。ページをめくる音だけが、静かに響いている。
——不意に、スマホが震えた。
東雲が画面を見て、短く息を吐いた。
「……啓介や」
通話に出ると、相手は要点だけを告げた。
理事は辞任。
息子は退学。
使い込まれた金は全額返済済み。
「男子学生の子は、がっつり怒られたけどな」
東雲は、わずかに口元を緩める。
「でも、お咎めなしや。巻き込まれたって判断された」
電話の向こうで、東条が続ける。
「息子の方は、逮捕。逃亡の恐れなしで保釈中。
今は親の管理下や」
淡々とした報告。感情の起伏はない。
「……全部、終わった」
そう言って、通話は切れた。
東雲は、スマホを伏せた。
「……終わったな」
藤宮は、少し間を置いてから頷いた。
「……そうやな」
それ以上、言葉は続かなかった。
部屋には、また静けさが戻る。
数日前まで、人の人生が、
取り返しのつかないところまで転がりかけていた場所。
今は、本と机と、二人分の呼吸だけがある。
藤宮は、窓の外を見た。
季節は、確実に進んでいる。
秋の気配はまだ残っているが、空気の奥には、冬の匂いが混じり始めていた。
「……なんか」
ぽつりと、藤宮が言った。
「ほんまに、
何事もなかったみたいやな」
東雲は、本から目を上げずに答えた。
「そう見えるだけや」
藤宮は、その言葉を噛みしめた。
確かに。何もなかったわけじゃない。
ただ、
**“ここで止まった”**だけだ。
藤宮は、無意識に東雲を見る。
東雲は、今日も変わらず、ここに座っている。
「……静かやな」
「うん」
東雲は、短く返した。
それだけで、十分だった。
世界は、何もなかったように回り続ける。
でも——
藤宮の中では、確かに何かが、静かに残っていた。
——さらに数日後の夜、藤宮はバイトが入っていた。
夕方、SSに顔を出してから職場へ向かい、シフトを終えて店を出たころには、
時計はすでに二十一時を回っていた。
夜風は少し冷たかったが、汗ばんだ身体には心地よい。
(今日はまっすぐ帰ろ)
そう思って歩き出し――数歩進んだところで、ふと足を止めた。
(智輝、今日は遅くまでおるって言うてたな)
その一言が、頭に引っかかった。
理由はない。
ただ、胸の奥が落ち着かない。
(……少しだけ、寄ろか。一緒帰ってもええし。)
自分でも説明できないまま、足は大学の方へ向いていた。
夜のキャンパスは人影が少ない。
街灯の光だけが、まばらに道を照らしている。
旧校舎の前まで来た、そのとき。
――ガンッ。
静かな建物に、不自然な音が響いた。
藤宮は、反射的に息を呑む。
音の方へ足を向けると、
見慣れた扉の輪郭が浮かび上がった。
Silent Society の部屋。
扉の向こうから、押し殺した怒声が漏れてくる。
「……ふざけんなよ」
「やめて。ここで声荒げても意味ない」
東雲の声だった。
藤宮の体が、一気に熱を帯びる。
(誰や)
考えるより先に、ドアノブを掴み、扉を開けた。
「――おい」
部屋の中には、二人の人影。
一人は壁際に追い込まれた東雲。
手首を、強く掴まれている。
もう一人は、見覚えのある男だった。
D大祭実行委員会の件で名前が出ていた、元三回生。
男が、藤宮を睨みつける。
「誰や、お前」
「こっちの台詞や」
藤宮は、まっすぐ歩み寄った。
「ここ、大学の部屋やで。勝手に入って、何してんねん」
「関係ない。俺らの問題や」
「関係あるわ」
藤宮の視線が、東雲の手首に落ちる。
白い肌に、赤い痕がはっきり残っていた。
(……痛そう)
胸の奥が、強くざわつく。
「離せ」
男は鼻で笑う。
「嫌や言うたら?」
(ああ……こいつ、自分が悪いって一切思ってへん)
東雲が、低い声で言った。
「藤宮、もうええ。外――」
「ええわけあるか」
藤宮は即座に遮った。
男が苛立って手を伸ばす。
藤宮はその腕を払い、掴まれていた手首を外した。
力任せじゃない。動きで外す。
バイト先で、
酔客に絡まれた時に教えられたやり方だった。
「……っ!」
男が体勢を崩す。
藤宮は、東雲を自分の後ろへ引き寄せた。
「下がっとけ、智輝」
呼び捨ての声が、低く落ちた。
東雲の身体が、わずかに強張ったのが伝わってきた。
男が歯ぎしりする。
「調子乗んなよ。」
「それも、こっちの台詞やな。」
藤宮は一歩も引かない。
男が言い返そうとした、そのとき。
藤宮は、視線だけで扉を示した。
「さっき、学生の手首掴んでたとこ。
あれ、写真に残ってたらどうなるか分かるか」
ポケットに手を入れたまま、視線だけを向ける。
「大学の部屋で、学生を力ずくで押さえつけてる写真や。
今、保釈中やろ」
男の顔色が変わる。
「……チクる気か」
「チクるって言葉出る時点で、
自分でもアウトって分かってるやろ」
沈黙。
先に視線を逸らしたのは、男だった。
「……弁護士なんか連れてきやがって」
吐き捨てて、扉へ向かう。
「覚えとけ」
藤宮は肩をすくめる。
「覚えとくけど、
その前に自分のやったこと、覚えといた方がええ」
男は振り返らず、去っていった。
静寂が戻る。
藤宮は、息を吐いてから振り向いた。
「……大丈夫か」
東雲は、少しだけ間を置いて頷く。
「……助かった」
その一言が、胸に刺さる。
「遅くまで残るなら鍵くらいかけとけ。」
「もう終わった話やと思ってたし、まさかここに来るとか思わんかった。」
藤宮は、苦く笑った。
「俺も、帰るつもりやった」
視線を逸らし、続ける。
「でも……なんか嫌な感じして」
東雲は、じっと藤宮を見る。
「……来てくれて、よかった」
その言葉に、藤宮の喉が詰まる。
「……もうさ」
一拍置いて。
「迷い込むだけの人、無理やわ」
東雲が首を傾げる。
「どういう意味」
「お前が危ない目に遭ってるの見て、
“関係ない”って思われへん」
静かに、はっきり。
「正式に、入部する」
東雲は一瞬黙り、それから、ほんの少し笑った。
「……ええよ」
差し出された手を、藤宮は握り返す。
Silent Societyに、
新しい部員が加わった夜だった。
