段ボールは、もうない。
床に散っていた緩衝材も、玄関に寄せていた紙袋も消えて、部屋には生活の輪郭だけが残っていた。
カーテン越しの光が、午後だと分かる程度にやわらかい。
智輝はソファーの端に腰を下ろし、背もたれに深く体を預けた。
肩の力が抜けるのが、自分でも分かる。
キッチンのほうで、音がした。
「コップ、どこやったっけ」
「その棚。上から二段目」
言いながら、智輝は目を閉じる。
そこに置いた記憶が、もう手触りとして残っていた。
「……なあ」
悠誠の声が、少しだけ間を置いて飛んでくる。
「何」
「滋賀県かあ」
智輝は目を開けた。
「なにが」
「いや」
言葉が切れて、代わりに足音が近づく。ソファーの背に、影が落ちた。
「だって、俺と智輝が――」
「いらんこと言わんでええ!」
言い切るより早く、クッションが投げられる。軽い音。笑い声。
悠誠はそれを受け止めて、何も言わずにソファーの隣に座った。
距離は近い。触れてはいない。
窓の外は、京阪の線路が見える。電車の音が、規則正しく遠ざかっていった。
琵琶湖の話は、もう何度もしている。
修習先が滋賀に決まった日も。
引っ越しを決めた夜も。
あの湖で、初めて泊まった夜のことを。
智輝は、何も言わずに息を吐いた。
悠誠も、それに合わせるように背もたれに体を預ける。
静かだった。
時間だけが、ちゃんと前に進んでいる。
◇ ◇ ◇
—一年前の冬
二月の学内は、風が抜けると一気に冷えた。
陽は高いのに、ベンチの木はまだ冷たくて、腰を下ろすとコート越しにも硬さが伝わってくる。
先に座っていたのは、悠誠だった。背中を丸め、肘を膝についたまま、前を見ている。
智輝は少し遅れて近づき、何も言わずに隣に腰を下ろした。
しばらく、音だけがあった。
遠くで話す声と、枝が擦れる乾いた音。
「……終わったな」
悠誠が言った。
独り言に近い声だった。
「一区切りやろ」
智輝は前を向いたまま返す。言い切りでも、労いでもない。
本試験のことを考えないわけじゃない。
先の予定も、頭のどこかにはある。
それでも、今この瞬間だけは、身体の重さのほうが先に来ていた。
悠誠は、指先を組み直す。
「なあ」
「ん」
「ちょっと、ゆっくりしたい」
言い切るまでに、少し間があった。
智輝は一度だけ瞬きをして、それから何も言わなかった。
否定も、確認もしない。
風が吹き抜ける。
「……春休みやん」
悠誠が続ける。
智輝は、短く頷いた。
「泊まりで」
それは、相談というより確認だった。
智輝は、足先で地面を踏み直す。
それだけで、返事にした。
悠誠は息を吐く。肩が、わずかに下がる。
「滋賀やったら、近いな」
「湖北?」
「なければ、近江八幡」
智輝は、視線を前に向けたまま、もう一度頷いた。
言葉は、それ以上いらなかった。
講義開始を知らせるチャイムが鳴る。
周囲の空気が、少しずつ動き出す。
悠誠が立ち上がり、智輝もそれに続く。
二人は並んで歩き出す。いつもの距離のまま。
まだ寒い二月の中で、行き先だけが静かに決まっていた。
改札へ降りる階段で、足が一段、遅れた。
泊まり。
さっきの言葉が、今になって追いついてくる。
部屋。
夜。
同じ空間で、灯りを落とすところまで――
そこで、思考を切った。
考える必要はない。決めることでもない。
ただ、そうなるだけだ。
智輝は息を整えて、もう一段、足を下ろした。
自転車にまたがった瞬間、肩の力が抜けた。
風が冷たい。頬に当たって、目が覚める。
ペダルを踏むたびに、脚の奥に残っていた重さが、少しずつ前に流れていく。
ゆっくりしたい。
口に出した言葉が、遅れて胸に落ちた。
休みたいわけじゃない。
やめたいわけでもない。
張り詰めたまま進んできたものが、ここで一度、緩んだ。
信号で止まる。
ハンドルを握る指先に、まだ力が入っているのが分かる。
泊まり。
さっき決まった行き先より、その言葉のほうが重かった。
夜。
逃げ場のない時間。
一人になれない空間。
それでも、不思議と足は止まらなかった。
ペダルを踏む。
智輝は、そこにいる。
それだけで、進める。
長浜城は、思っていたよりも白かった。
空を背にして立つ天守は、冬の光をそのまま跳ね返している。
石段を上る足取りは、観光客の流れに混じって自然だった。
「上るんやな」
悠誠が見上げて言う。
「来たら上るやろ」
智輝はそう返して、先に歩き出す。
天守の中は、人が多い。展示を流し見して、窓から湖を探す。
遠くに見える水面は、まだ昼の色をしていた。
階段を降りたところで、声が上がった。
「ひこにゃんや!」
人だかりの中心で、白い着ぐるみが手を振っている。
ゆるい動きに、場の空気が一気に和んだ。
「写真、撮る?」
悠誠が聞く。
「……別に」
そう言いながら、智輝は一歩だけ近づく。
カメラを向ける間、ひこにゃんが小さくポーズを取った。
撮り終わっても、二人とも特に感想は言わない。
ただ、人の流れに乗って城を出た。
通りに戻ると、匂いが増えた。
揚げ物、甘いもの、焼いた肉。
「これ、食う?」
悠誠が紙袋を指す。
「また?」
「歩くからええやろ」
結局、二人で分ける。
立ち止まって、また歩く。
昼の長浜は、ずっと人の中にあった。
日が落ち始めた頃、空気が変わった。
「そろそろ行こか」
悠誠が言う。
車に乗ると、窓の外が一気に静かになる。
湖沿いの道は暗く、街の音が遠ざかっていく。
近江八幡に着いた頃には、もう夜だった。
建物の灯りが、琵琶湖の水面に細く伸びている。
チェックインを済ませ、部屋に荷物を置くと、すぐに夕食の時間になった。
席に案内されて、運ばれてきた皿を見て、悠誠が息を吐く。
「……近江牛やな」
「そう書いてあった」
鉄板の上で、音を立てて焼かれる肉。
脂が溶けて、匂いが立ち上る。
「三万するやつやからな」
悠誠が、なぜか自慢気に言う。
「知ってる」
智輝は淡々と箸を取った。
口に入れた瞬間、噛むのを一拍忘れる。
会話は少なかった。
食べる音と、皿が置かれる音だけが続く。
部屋に戻る頃には、身体が少し重くなっていた。
「風呂、行く?」
悠誠が聞く。
「行く」
それも、確認みたいな一言だった。
脱衣所で、音が減る。
タオルを取る動きが、少しだけぎこちない。
湯に入ると、肩の力が一気に抜けた。
「あつ……」
「ちょうどええやろ」
並んで湯に浸かる。
距離は近い。触れてはいない。
湯気の向こうで、悠誠が目を閉じる。
智輝は、天井を見た。
静かだった。
外は湖で、夜で、逃げ場がない。
湯の音だけが、時間を進めていた。
部屋に戻ると、灯りは控えめだった。
カーテンの向こうに、湖の気配だけが残っている。
昼とは違う静けさが、足元から立ち上ってきた。
悠誠が、ドアを閉める。
音が、そこで切れた。
タオルを置く。上着を掛ける。
どれもいつもの動作なのに、今日は一拍ずつ遅れる。
智輝は、窓際で立ち止まった。
外を見るふりをして、息を整える。
背後で、足音が近づく。
「……寒ない?」
悠誠の声は低くて、近い。
「平気」
振り返る前に、距離が詰まった。
視線が合う。
それだけで、さっきまでの湯気が、もう一度身体に戻ってくる。
悠誠の手が、智輝の袖に触れた。引くでもなく、押すでもなく、ただそこにある。
智輝は、逃げなかった。
近づく影。
呼吸が重なる。
唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
確かめるみたいな、浅いキス離れかけたところで、悠誠がもう一度、ゆっくり距離を詰める。
今度は、逃がさない。
智輝の指が、悠誠の服を掴んだ。無意識だった。
静かだった。
外は湖で、夜で、時間が止まっている。
灯りが落ちる。
その先は、もう言葉のいらないところだった。
灯りが落ちた途端、二人の距離が曖昧になった。
ベッドサイドランプの淡い光が、悠誠の腕を筋肉質な陰影で浮かび上がらせている。
智輝は壁際に立ち尽くし、乱れたシャツの裾を両手で握りしめていた。
「……ええよな?」
声はひどく低く、自分自身に問いかけるような響きだった。
悠誠が一歩踏み出すと、床が軋む。その音に、智輝の喉がこくりと動いた。
「……うん」
返事を聞いた瞬間、悠誠の手が智輝の肩を包んだ。
思ったより強い力に、智輝の背筋がぴくりと反る。
触れられた箇所から波紋のように熱が広がる。遠慮がちな呼吸が、肩越しに伝わった。
「……怖ない?」
智輝は首を横に振ろうとして、途中で止めた。代わりに、小さな溜息が漏れる。
「……大丈夫やけど……ちょっと、びっくりしてる」
「そらそうやろな」
悠誠が苦笑しながら、そっと肩を撫でる。
掌の温度がシャツ越しに透ける。
智輝は無意識に身をよじったが、それは拒絶ではなく、むしろ快感の欠片を逃がすための仕草だった。
「もっと触ってええ?」
再度の問いに、智輝は何も答えられなかった。
ただ、睫毛を伏せて微かに頷く。悠誠の指先が襟元を辿り、鎖骨にかかる。
皮膚と繊維の狭間をなぞられる感触に、智輝は息を詰めた。
「ん……っ」
抑えきれない声が一つ。遠慮がちなそれを聞いて、悠誠の手が止まる。
「痛かった?」
「ちゃう……くすぐったいだけ」
嘘ではないが、すべてでもない。
智輝自身もこの感覚の正体が分からない。
触れられるたびに鼓動が速くなり、膝の裏が痺れていく。
ベッドの縁へと導かれ、倒される瞬間、シーツが静かに波打った。
仰向けになった智輝の胸元へ、悠誠の体重がわずかに乗る。
長い前髪が視界を覆う。互いの吐息が肌を濡らす距離。智輝は目を閉じた。
「……ほんまに、ええんやな」
最後の確認。智輝の答えは、喉奥の詰まった音と化していた。
それでも、悠誠は待ち続けた。やがて智輝の指が、恐る恐る悠誠の背中の布地を掴む。
それが合図だった。
時間が止まったように思えた。しかし実際には、一秒ごとに深く入り込んでくる何かがある。
智輝の胸が大きく上下し、肋骨の奥で心臓が弾ける音さえ聞こえそうだ。
耳元で囁かれる「好きや」という言葉が、全身を貫く。
「っ……ぅ…」
押し殺した嗚咽。痛みなのか歓びなのか判然としない涙が滲む。
悠誠は焦らず、ゆっくりと体温を重ねていく。指先で髪を梳き、額に唇を落とし、そして再び口づけ。
舌が触れ合い、唾液の交換が始まるころ、智輝の体は完全に力を失っていた。
夜が深くなる。外の湖は鏡のように静かで、部屋の中の荒い呼吸だけが現実を象徴していた。
何度も名を呼ばれ、何度も頷き、そしてまたキスをする。
二人の境界は溶けはじめ、言葉以上のものが皮膚を通じて流れ込んでくる。
どれくらい経っただろうか。悠誠がそっと体を引いたとき、智輝は細く長い息を吐き出した。
汗ばんだ前髪を掻き上げながら、呆然と天井を見つめている。
「……終わったん?」
「うん……疲れたやろ」
智輝は力なく首を振った。疲れているのは確かだが、それ以上に奇妙な満足感が体中に充満していた。
悠誠が隣に横になり、肩を抱き寄せる。その腕の中で、智輝は初めて他人の体温をこんなにも心地よいと感じた。
朝は、静かに来た。
カーテンの隙間から入る光が、白く床に落ちている。
湖の匂いが、夜よりもはっきり分かった。
智輝が目を開けると、すぐ隣に体温があった。
近い。けれど、絡まってはいない。
悠誠は、まだ眠っている。眉の力が抜けて、呼吸がゆっくりだ。
昨夜の緊張が、そのまま解けたみたいだった。
智輝は、指先でシーツをつまみ直す。
動いた音に、悠誠が小さく息を吸った。
「……おはよ」
掠れた声。
「おはよう」
言葉だけで、距離が縮まる。
智輝が身を起こす前に、悠誠の手が袖を掴んだ。
引き寄せるほど強くはない。
離さない、という意思だけがある。
唇が触れる。
夜とは違う、軽いキス。
もう一度。
今度は少し長く。
「……船、行くんやろ」
悠誠が言う。
「うん」
支度をして、外に出る。
朝の湖は、色が淡い。水面が静かで、空をそのまま映している。
船着き場は、観光客が少なかった。
係の人の声が、遠くに聞こえる。
船が離れると、街の音が切れる。
水を割る音だけが、一定のリズムで続いた。
並んで座る。肩が触れる。
「桜の季節、ここ、混むらしいな」
悠誠が言う。
「日帰りでええやろ」
「それでええな」
湖面を見ながら、二人とも前を向く。
約束は、軽かった。だから、確かだった。
船は進む。
水の上に、時間が流れる。
智輝は、息を吸って、吐く。
悠誠も、それに合わせる。
同じ景色を見ている。
◇ ◇ ◇
段ボールは、もうどこにもなかった。
代わりに、床には陽が落ちている。午後から夕方へ移る時間で、窓の外を走る京阪の音が、さっきより低くなっていた。
智輝はソファーに深く腰を沈め、指先でクッションの端を折る。
片づけ終わった部屋は広くて、静かで、落ち着かなかった。
「疲れたな」
悠誠が言う。
その言葉に、特別な意味はない。ただの事実だった。
「そうやな」
智輝は視線を上げないまま答える。
しばらく、何も起きなかった。
話題も、音もない。
悠誠が隣に座り直す。
距離が、ほんの少しだけ縮まる。
「……滋賀県かあ」
また同じ言葉。でも、今度は軽かった。
「まだ言う」
「言う」
笑いは起きない。
代わりに、悠誠が背もたれに体を預ける。
「朝、早なるな」
「慣れる」
即答だった。
根拠はない。ただ、そうするだけだ。
悠誠は小さく息を吐いた。
その音が、部屋に馴染む。
「琵琶湖、また行こな」
「桜の時期?」
「日帰りで」
智輝は、そこでようやく顔を向けた。
「船は?」
「乗る」
約束というほどの重さはない。
でも、取り消される気もしなかった。
智輝は背もたれに頭を預け、目を閉じる。
悠誠も、同じ姿勢になる。
触れてはいない。けれど、間に不安はなかった。
ここにあるのは、
選び続けた結果の、今日だった。
外で電車が走る。
その音を聞きながら、二人は動かない。
夜は、もうすぐ来る。
でも、それを急ぐ理由はなかった。
床に散っていた緩衝材も、玄関に寄せていた紙袋も消えて、部屋には生活の輪郭だけが残っていた。
カーテン越しの光が、午後だと分かる程度にやわらかい。
智輝はソファーの端に腰を下ろし、背もたれに深く体を預けた。
肩の力が抜けるのが、自分でも分かる。
キッチンのほうで、音がした。
「コップ、どこやったっけ」
「その棚。上から二段目」
言いながら、智輝は目を閉じる。
そこに置いた記憶が、もう手触りとして残っていた。
「……なあ」
悠誠の声が、少しだけ間を置いて飛んでくる。
「何」
「滋賀県かあ」
智輝は目を開けた。
「なにが」
「いや」
言葉が切れて、代わりに足音が近づく。ソファーの背に、影が落ちた。
「だって、俺と智輝が――」
「いらんこと言わんでええ!」
言い切るより早く、クッションが投げられる。軽い音。笑い声。
悠誠はそれを受け止めて、何も言わずにソファーの隣に座った。
距離は近い。触れてはいない。
窓の外は、京阪の線路が見える。電車の音が、規則正しく遠ざかっていった。
琵琶湖の話は、もう何度もしている。
修習先が滋賀に決まった日も。
引っ越しを決めた夜も。
あの湖で、初めて泊まった夜のことを。
智輝は、何も言わずに息を吐いた。
悠誠も、それに合わせるように背もたれに体を預ける。
静かだった。
時間だけが、ちゃんと前に進んでいる。
◇ ◇ ◇
—一年前の冬
二月の学内は、風が抜けると一気に冷えた。
陽は高いのに、ベンチの木はまだ冷たくて、腰を下ろすとコート越しにも硬さが伝わってくる。
先に座っていたのは、悠誠だった。背中を丸め、肘を膝についたまま、前を見ている。
智輝は少し遅れて近づき、何も言わずに隣に腰を下ろした。
しばらく、音だけがあった。
遠くで話す声と、枝が擦れる乾いた音。
「……終わったな」
悠誠が言った。
独り言に近い声だった。
「一区切りやろ」
智輝は前を向いたまま返す。言い切りでも、労いでもない。
本試験のことを考えないわけじゃない。
先の予定も、頭のどこかにはある。
それでも、今この瞬間だけは、身体の重さのほうが先に来ていた。
悠誠は、指先を組み直す。
「なあ」
「ん」
「ちょっと、ゆっくりしたい」
言い切るまでに、少し間があった。
智輝は一度だけ瞬きをして、それから何も言わなかった。
否定も、確認もしない。
風が吹き抜ける。
「……春休みやん」
悠誠が続ける。
智輝は、短く頷いた。
「泊まりで」
それは、相談というより確認だった。
智輝は、足先で地面を踏み直す。
それだけで、返事にした。
悠誠は息を吐く。肩が、わずかに下がる。
「滋賀やったら、近いな」
「湖北?」
「なければ、近江八幡」
智輝は、視線を前に向けたまま、もう一度頷いた。
言葉は、それ以上いらなかった。
講義開始を知らせるチャイムが鳴る。
周囲の空気が、少しずつ動き出す。
悠誠が立ち上がり、智輝もそれに続く。
二人は並んで歩き出す。いつもの距離のまま。
まだ寒い二月の中で、行き先だけが静かに決まっていた。
改札へ降りる階段で、足が一段、遅れた。
泊まり。
さっきの言葉が、今になって追いついてくる。
部屋。
夜。
同じ空間で、灯りを落とすところまで――
そこで、思考を切った。
考える必要はない。決めることでもない。
ただ、そうなるだけだ。
智輝は息を整えて、もう一段、足を下ろした。
自転車にまたがった瞬間、肩の力が抜けた。
風が冷たい。頬に当たって、目が覚める。
ペダルを踏むたびに、脚の奥に残っていた重さが、少しずつ前に流れていく。
ゆっくりしたい。
口に出した言葉が、遅れて胸に落ちた。
休みたいわけじゃない。
やめたいわけでもない。
張り詰めたまま進んできたものが、ここで一度、緩んだ。
信号で止まる。
ハンドルを握る指先に、まだ力が入っているのが分かる。
泊まり。
さっき決まった行き先より、その言葉のほうが重かった。
夜。
逃げ場のない時間。
一人になれない空間。
それでも、不思議と足は止まらなかった。
ペダルを踏む。
智輝は、そこにいる。
それだけで、進める。
長浜城は、思っていたよりも白かった。
空を背にして立つ天守は、冬の光をそのまま跳ね返している。
石段を上る足取りは、観光客の流れに混じって自然だった。
「上るんやな」
悠誠が見上げて言う。
「来たら上るやろ」
智輝はそう返して、先に歩き出す。
天守の中は、人が多い。展示を流し見して、窓から湖を探す。
遠くに見える水面は、まだ昼の色をしていた。
階段を降りたところで、声が上がった。
「ひこにゃんや!」
人だかりの中心で、白い着ぐるみが手を振っている。
ゆるい動きに、場の空気が一気に和んだ。
「写真、撮る?」
悠誠が聞く。
「……別に」
そう言いながら、智輝は一歩だけ近づく。
カメラを向ける間、ひこにゃんが小さくポーズを取った。
撮り終わっても、二人とも特に感想は言わない。
ただ、人の流れに乗って城を出た。
通りに戻ると、匂いが増えた。
揚げ物、甘いもの、焼いた肉。
「これ、食う?」
悠誠が紙袋を指す。
「また?」
「歩くからええやろ」
結局、二人で分ける。
立ち止まって、また歩く。
昼の長浜は、ずっと人の中にあった。
日が落ち始めた頃、空気が変わった。
「そろそろ行こか」
悠誠が言う。
車に乗ると、窓の外が一気に静かになる。
湖沿いの道は暗く、街の音が遠ざかっていく。
近江八幡に着いた頃には、もう夜だった。
建物の灯りが、琵琶湖の水面に細く伸びている。
チェックインを済ませ、部屋に荷物を置くと、すぐに夕食の時間になった。
席に案内されて、運ばれてきた皿を見て、悠誠が息を吐く。
「……近江牛やな」
「そう書いてあった」
鉄板の上で、音を立てて焼かれる肉。
脂が溶けて、匂いが立ち上る。
「三万するやつやからな」
悠誠が、なぜか自慢気に言う。
「知ってる」
智輝は淡々と箸を取った。
口に入れた瞬間、噛むのを一拍忘れる。
会話は少なかった。
食べる音と、皿が置かれる音だけが続く。
部屋に戻る頃には、身体が少し重くなっていた。
「風呂、行く?」
悠誠が聞く。
「行く」
それも、確認みたいな一言だった。
脱衣所で、音が減る。
タオルを取る動きが、少しだけぎこちない。
湯に入ると、肩の力が一気に抜けた。
「あつ……」
「ちょうどええやろ」
並んで湯に浸かる。
距離は近い。触れてはいない。
湯気の向こうで、悠誠が目を閉じる。
智輝は、天井を見た。
静かだった。
外は湖で、夜で、逃げ場がない。
湯の音だけが、時間を進めていた。
部屋に戻ると、灯りは控えめだった。
カーテンの向こうに、湖の気配だけが残っている。
昼とは違う静けさが、足元から立ち上ってきた。
悠誠が、ドアを閉める。
音が、そこで切れた。
タオルを置く。上着を掛ける。
どれもいつもの動作なのに、今日は一拍ずつ遅れる。
智輝は、窓際で立ち止まった。
外を見るふりをして、息を整える。
背後で、足音が近づく。
「……寒ない?」
悠誠の声は低くて、近い。
「平気」
振り返る前に、距離が詰まった。
視線が合う。
それだけで、さっきまでの湯気が、もう一度身体に戻ってくる。
悠誠の手が、智輝の袖に触れた。引くでもなく、押すでもなく、ただそこにある。
智輝は、逃げなかった。
近づく影。
呼吸が重なる。
唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。
確かめるみたいな、浅いキス離れかけたところで、悠誠がもう一度、ゆっくり距離を詰める。
今度は、逃がさない。
智輝の指が、悠誠の服を掴んだ。無意識だった。
静かだった。
外は湖で、夜で、時間が止まっている。
灯りが落ちる。
その先は、もう言葉のいらないところだった。
灯りが落ちた途端、二人の距離が曖昧になった。
ベッドサイドランプの淡い光が、悠誠の腕を筋肉質な陰影で浮かび上がらせている。
智輝は壁際に立ち尽くし、乱れたシャツの裾を両手で握りしめていた。
「……ええよな?」
声はひどく低く、自分自身に問いかけるような響きだった。
悠誠が一歩踏み出すと、床が軋む。その音に、智輝の喉がこくりと動いた。
「……うん」
返事を聞いた瞬間、悠誠の手が智輝の肩を包んだ。
思ったより強い力に、智輝の背筋がぴくりと反る。
触れられた箇所から波紋のように熱が広がる。遠慮がちな呼吸が、肩越しに伝わった。
「……怖ない?」
智輝は首を横に振ろうとして、途中で止めた。代わりに、小さな溜息が漏れる。
「……大丈夫やけど……ちょっと、びっくりしてる」
「そらそうやろな」
悠誠が苦笑しながら、そっと肩を撫でる。
掌の温度がシャツ越しに透ける。
智輝は無意識に身をよじったが、それは拒絶ではなく、むしろ快感の欠片を逃がすための仕草だった。
「もっと触ってええ?」
再度の問いに、智輝は何も答えられなかった。
ただ、睫毛を伏せて微かに頷く。悠誠の指先が襟元を辿り、鎖骨にかかる。
皮膚と繊維の狭間をなぞられる感触に、智輝は息を詰めた。
「ん……っ」
抑えきれない声が一つ。遠慮がちなそれを聞いて、悠誠の手が止まる。
「痛かった?」
「ちゃう……くすぐったいだけ」
嘘ではないが、すべてでもない。
智輝自身もこの感覚の正体が分からない。
触れられるたびに鼓動が速くなり、膝の裏が痺れていく。
ベッドの縁へと導かれ、倒される瞬間、シーツが静かに波打った。
仰向けになった智輝の胸元へ、悠誠の体重がわずかに乗る。
長い前髪が視界を覆う。互いの吐息が肌を濡らす距離。智輝は目を閉じた。
「……ほんまに、ええんやな」
最後の確認。智輝の答えは、喉奥の詰まった音と化していた。
それでも、悠誠は待ち続けた。やがて智輝の指が、恐る恐る悠誠の背中の布地を掴む。
それが合図だった。
時間が止まったように思えた。しかし実際には、一秒ごとに深く入り込んでくる何かがある。
智輝の胸が大きく上下し、肋骨の奥で心臓が弾ける音さえ聞こえそうだ。
耳元で囁かれる「好きや」という言葉が、全身を貫く。
「っ……ぅ…」
押し殺した嗚咽。痛みなのか歓びなのか判然としない涙が滲む。
悠誠は焦らず、ゆっくりと体温を重ねていく。指先で髪を梳き、額に唇を落とし、そして再び口づけ。
舌が触れ合い、唾液の交換が始まるころ、智輝の体は完全に力を失っていた。
夜が深くなる。外の湖は鏡のように静かで、部屋の中の荒い呼吸だけが現実を象徴していた。
何度も名を呼ばれ、何度も頷き、そしてまたキスをする。
二人の境界は溶けはじめ、言葉以上のものが皮膚を通じて流れ込んでくる。
どれくらい経っただろうか。悠誠がそっと体を引いたとき、智輝は細く長い息を吐き出した。
汗ばんだ前髪を掻き上げながら、呆然と天井を見つめている。
「……終わったん?」
「うん……疲れたやろ」
智輝は力なく首を振った。疲れているのは確かだが、それ以上に奇妙な満足感が体中に充満していた。
悠誠が隣に横になり、肩を抱き寄せる。その腕の中で、智輝は初めて他人の体温をこんなにも心地よいと感じた。
朝は、静かに来た。
カーテンの隙間から入る光が、白く床に落ちている。
湖の匂いが、夜よりもはっきり分かった。
智輝が目を開けると、すぐ隣に体温があった。
近い。けれど、絡まってはいない。
悠誠は、まだ眠っている。眉の力が抜けて、呼吸がゆっくりだ。
昨夜の緊張が、そのまま解けたみたいだった。
智輝は、指先でシーツをつまみ直す。
動いた音に、悠誠が小さく息を吸った。
「……おはよ」
掠れた声。
「おはよう」
言葉だけで、距離が縮まる。
智輝が身を起こす前に、悠誠の手が袖を掴んだ。
引き寄せるほど強くはない。
離さない、という意思だけがある。
唇が触れる。
夜とは違う、軽いキス。
もう一度。
今度は少し長く。
「……船、行くんやろ」
悠誠が言う。
「うん」
支度をして、外に出る。
朝の湖は、色が淡い。水面が静かで、空をそのまま映している。
船着き場は、観光客が少なかった。
係の人の声が、遠くに聞こえる。
船が離れると、街の音が切れる。
水を割る音だけが、一定のリズムで続いた。
並んで座る。肩が触れる。
「桜の季節、ここ、混むらしいな」
悠誠が言う。
「日帰りでええやろ」
「それでええな」
湖面を見ながら、二人とも前を向く。
約束は、軽かった。だから、確かだった。
船は進む。
水の上に、時間が流れる。
智輝は、息を吸って、吐く。
悠誠も、それに合わせる。
同じ景色を見ている。
◇ ◇ ◇
段ボールは、もうどこにもなかった。
代わりに、床には陽が落ちている。午後から夕方へ移る時間で、窓の外を走る京阪の音が、さっきより低くなっていた。
智輝はソファーに深く腰を沈め、指先でクッションの端を折る。
片づけ終わった部屋は広くて、静かで、落ち着かなかった。
「疲れたな」
悠誠が言う。
その言葉に、特別な意味はない。ただの事実だった。
「そうやな」
智輝は視線を上げないまま答える。
しばらく、何も起きなかった。
話題も、音もない。
悠誠が隣に座り直す。
距離が、ほんの少しだけ縮まる。
「……滋賀県かあ」
また同じ言葉。でも、今度は軽かった。
「まだ言う」
「言う」
笑いは起きない。
代わりに、悠誠が背もたれに体を預ける。
「朝、早なるな」
「慣れる」
即答だった。
根拠はない。ただ、そうするだけだ。
悠誠は小さく息を吐いた。
その音が、部屋に馴染む。
「琵琶湖、また行こな」
「桜の時期?」
「日帰りで」
智輝は、そこでようやく顔を向けた。
「船は?」
「乗る」
約束というほどの重さはない。
でも、取り消される気もしなかった。
智輝は背もたれに頭を預け、目を閉じる。
悠誠も、同じ姿勢になる。
触れてはいない。けれど、間に不安はなかった。
ここにあるのは、
選び続けた結果の、今日だった。
外で電車が走る。
その音を聞きながら、二人は動かない。
夜は、もうすぐ来る。
でも、それを急ぐ理由はなかった。
