S.S:Silent Society


智輝はもうすぐ着くという連絡をもらって、家の前で待っていた。
悠誠の運転する車が静かに止まる。

「おはよう。」
窓をあけて、悠誠が明るく挨拶をする。
智輝は同じように返しながら助手席に乗り込んだ。
「道、そんなに混んでないみたいやで。」
智輝は待っている間に調べておいたことを悠誠に伝えた。
「そっか、日程ずらして正解やったな。」
新学期になってすぐに水族館に行った。
その時にG.Wに海に行こうと約束をしたのだが、実際に日程を詰める時に、
混雑を避ける話になって、いつの間にか平日に決まっていた。

エンジン音が低くなって、車がゆっくり走り出す。
住宅街を抜けるまでの道は静かで、窓の外を流れる景色もいつもと変わらない。

「平日やと、気持ちが楽やな」

悠誠が前を見たまま言う。

「うん。どこも混んでへんし」
「帰りの時間も、あんま気にせんでええしな」

智輝はシートに深く腰を預けた。
助手席に座るのは久しぶりじゃないはずなのに、今日は少しだけ感覚が違う。
運転席に悠誠がいて、目的地が海で、しかも急がなくていい。
それだけで、身体の力が抜ける。

「レンタカー、返す時間も余裕あるんやろ?」
「うん。」
「ほな、向こうでゆっくりできるな」

信号で車が止まる。
フロントガラスの向こうに、平日の街が広がっている。
通勤の人も、学生も、それぞれの場所へ向かっていて、
二人だけが少しだけ違う時間を過ごしている気がした。

「水族館行ったときさ」

悠誠が、思い出したみたいに言う。

「海の話、めっちゃ先のことみたいにしてたよな」
「してたな」
「気づいたら、もう来てる」

智輝は小さく笑った。

「約束って、案外早いな」
「ちゃんと覚えてたしな」
「忘れるわけないやろ」

車は大通りに出て、スピードが少し上がる。
風の音が、窓の隙間から入り込む。

智輝は、流れていく景色を眺めながら思う。
特別なことは、まだ何も起きていない。
でも、こうして同じ方向を見て、同じ時間を使っているだけで、
もう十分やと思えた。

「……海、久しぶりやな」
「俺も。見るだけでええわ」
「うん。見るだけでええ」

言葉を揃えて、二人は少し笑った。
車はそのまま、街を離れていく。

車は街を抜けて、山の方へ向かう道に入った。
信号が減って、代わりにカーブが増える。
窓の外の緑が濃くなっていくのを、智輝はぼんやり眺めていた。

「この感じ、旅行っぽいな」

独り言みたいに言うと、悠誠が小さく笑う。

「日帰りやけどな」
「それでも、ええねん」

高速に乗ってしばらくすると、景色が一気に変わる。
空が広くなって、遠くの山が重なって見える。

途中のサービスエリアで一度止まった。
トイレと、飲み物だけ。
戻ってくると、悠誠がキーを差し出す。

「ここから、代わる?」
「ええん?」
「練習しとこ」

それだけのやりとりで、席を入れ替える。
智輝は少しだけ背筋を伸ばして、ハンドルを握った。
久しぶりの感触。
でも、隣に悠誠がいるだけで、不思議と緊張はしなかった。

「ゆっくりでええから」
「うん」

アクセルを踏む。
車が前に出る感覚が、素直に伝わってくる。

城之崎に着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
温泉街は思っていたより人が多くて、観光地の顔をしている。

「温泉入らへんのに、来たな」
「せやな」

そう言いながらも、その場の空気は穏やかなままだった。
川沿いの店で昼ごはんを食べて、少しだけ歩く。
浴衣姿の人たちを横目に見ながら、並んで歩くだけ。

「……なあ」
「ん?」
「いつかさ」

智輝は言葉を探すみたいに、少し間を置いた。

「泊まりで来てもええな」

悠誠が、歩幅をほんの少しだけ緩める。

「……うん」
「温泉、入って」
「うん」

それ以上は言わない。
言わなくても、約束になった気がした。
二人とも、ちょっと照れて、視線を前に戻す。

午後になって、人の流れが少し落ち着いた頃、再び車に乗る。
今度は悠誠が運転席に戻った。

「ここからは、海やな」
「人、減る?」
「減る」

その一言で、智輝の胸が少しだけ軽くなる。

町を抜けると、視界が開けた。
山の合間から、青が見える。
近づくにつれて、海の匂いが混じってくる。

「……静かやな」
「せやろ」

観光地の音が、だんだん遠ざかる。
代わりに、風の音と、タイヤが路面を踏む音だけが残る。

夕方にはまだ少し早い。
でも、空の色はもう、昼とは違っていた。

二人は、それに気づいて、何も言わずに同じ景色を見ていた。

智輝の胸が少しだけ軽くなる。


智輝side

竹野の海は、思っていた以上に静かだった。
観光地のざわめきはなくて、波の音だけが一定の間隔で届く。

駐車場から砂浜までの距離も短い。
靴を脱いで、砂の感触を確かめるみたいに歩く。
昼間の熱がまだ少し残っているのに、風は涼しかった。

「……ええとこやな」

智輝がそう言うと、悠誠は小さく頷いた。

「人、ほとんどおらへんな」

視線の先には、広がる海と、傾きはじめた太陽。
光が水面に反射して、きらきらしている。
その眩しさに、思わず目を細めた。

二人は、何も言わずに並んで立った。
さっきまでの道中の会話が、自然と途切れる。
ここでは、言葉が少し多すぎる気がした。

風が吹いて、智輝の髪が揺れる。
それを、悠誠が何も言わずに押さえた。
触れた指先が、思ったより長くそこに残る。

「……寒ない?」
「平気」

そう答えた直後、背中に腕が回った。
引き寄せられる力は強くない。
でも、逃げ場がない距離。

智輝は、自然に胸元に額を預けた。
聞こえるのは、波の音と、悠誠の呼吸。
それが重なって、落ち着く。

「今日さ」

悠誠が、低い声で言う。

「ちゃんと、来れてよかったな」
「うん」

それだけで十分だった。
今日が、思い出になるって分かる。

顔を上げると、夕暮れの光が二人のあいだに差し込む。
逆光で、悠誠の表情ははっきり見えない。
でも、視線だけは、真っ直ぐ向けられている。

そのまま、ゆっくり距離が縮まる。
確かめるみたいに、一度だけ唇が触れて、離れない。

短くない。
でも、深くもない。
ただ、時間をかけて、そこにいることを分かち合うみたいなキス。

智輝は、無意識に背中に腕を回した。
砂の上で、しっかり立つためじゃない。
離れたくないと思ったから。

唇が離れても、額は近いまま。
呼吸が整うまで、誰も動かない。

「……また来よ」
「泊まりでな」

照れたみたいに視線を逸らしながら、悠誠が言う。
智輝は、小さく笑った。

「約束な」
「約束」

再び、抱き寄せられる。
今度は、さっきより少し強く。

夕暮れの海は、変わらず静かだった。
その中で、二人の時間だけが、ゆっくり沈んでいく。


悠誠side

竹野の海に着いたとき、
悠誠はまず、人の気配がほとんどないことにほっとしていた。

駐車場も、浜へ続く道も静かで、
聞こえるのは風と、遠くで崩れる波の音だけ。

「ええとこやな」

智輝がそう言ったとき、
その声が少しだけ柔らいでいるのに気づく。

横顔を見る。
海の方を向いたまま、目を細めている。
城之崎で見せていた観光地の顔とは、違う顔だった。

――連れてきてよかった。

そう思う。
口には出さないけど、それだけで十分だった。

並んで立つと、
風が智輝の髪を揺らした。
金色が、夕方の光を拾って、やけにきれいに見える。

思わず手が伸びる。
押さえるだけのつもりが、指先が少し長くそこに残った。

「……寒ない?」

聞いたのは、理由づけみたいなもんや。
触れたかっただけやと自分でも分かっている。

「平気」

そう答えた直後、
智輝が少しだけこちらに近づいたのが分かった。

だから、腕を回した。
引き寄せすぎない。でも、離れない距離。

胸元に額を預けてくる重さが、
ちゃんとそこにある。逃げる気も、迷う気もない。

波の音に混じって、智輝の呼吸が聞こえる。
落ち着いているけど、完全に気を抜いてはいない呼吸。

――こういうところやねんな。

頼っているくせに、自分から崩れすぎない。

「今日さ」

言葉にすると、少し声が低くなった。

「ちゃんと、来れてよかったな」

日程をずらして、仕事と勉強の合間を縫って、
それでも来た。

「うん」

短い返事。でも、それで足りた。
顔を上げた智輝と目が合う。
夕暮れの逆光で、表情は全部は見えへん。
それでも、目だけは真っ直ぐで、逃げてない。

距離を詰める。
ゆっくり、確かめるみたいに。
唇が触れて、そのまま離さない。
深くしない。でも、短くもしない。

ここにいるってことを、
ちゃんと分かち合うための時間。

智輝の腕が、背中に回る。
ぎゅっとは掴まれない。
でも、離れる気がないのは分かる。
それが、嬉しい。

唇が離れても、
額が触れる距離のまま、動かない。
息が整うまで、待つ。
急ぐ理由はどこにもない。

「……また来よ」

智輝が言った。

「泊まりでな」

照れたのを誤魔化すみたいに、少し視線を外しながら答える。

「約束な」
「約束」

そう言ったとき、
智輝が小さく笑った。

だから、もう一度抱き寄せた。
今度は、さっきより少しだけ強く。

夕暮れの海は、変わらず静かで、
その静けさが、二人を包んでいる。
今日のことは、
きっとあとから、何度も思い出す。

運転席から見た横顔も、
城之崎で交わした照れた約束も、
この海の色も。

全部まとめて、
大事な一日として、胸に残る。

――ちゃんと、連れてこれた。

悠誠はそう思いながら、
腕の中の体温を、しっかり覚えた。