午後のカフェは、昼と夜のあいだみたいな音をしていた。
食器が触れる乾いた音と、低く抑えた話し声が混じって、窓際の席まで流れてくる。
智輝はアイスミルクティーのグラスを指で回しながら、外を見ていた。
ガラス越しの通りは、人の流れが少しずつ落ち着いてきている。
週に一度、こうして時間を合わせる日。
特別なことをしなくても、悠誠に会うと身体の力が抜ける。
「今週は、どうやった?」
悠誠が聞く。
視線はメニューの端に落ちているけれど、声はちゃんとこちらを向いていた。
「普通」
智輝はそう答えてから、少し考える。
「……まあ、普通やった」
悠誠はそれ以上突っ込まない。
「そっか」と短く返して、コーヒーに口をつける。
その間が、智輝にはちょうどいい。
フォークでケーキを切り分ける。
生地が思ったより柔らかくて、刃先が少し沈む。
甘い匂いが立って、空腹に遅れて気づく。
「これ、前より甘なってない?」
「気のせいちゃう?」
「前はもうちょい軽かった気する」
「前、いつやねん」
他愛ないやりとりが続く。
正解も結論もいらない会話。
こういう時間があるから、週の真ん中を越えられる。
智輝はフォークを置いて、グラスに残った氷を見る。
溶けかけて、角が丸くなっている。
少しだけ、呼吸を整えた。
「……なあ」
声を出すと、悠誠が顔を上げる。目が合う。
智輝は、その視線に甘えてもいいと感じた。
視線を外に戻したまま、言った。
「こんなことがあってん」
◇ ◇ ◇
それは、昼休みが終わりかけた頃だった。
食堂の裏手にある通路は、表よりも人が少ない。
完全に静かというほどではないが、立ち話をしていても目立たない程度の場所だ。
智輝は自販機で飲み物を買い、缶を手にしたまま歩いていた。
その先で、声が聞こえた。
「しんどいのは分かるよ」
落ち着いた声だった。
感情を荒立てる様子もなく、諭すような調子。
「でも、それを理由に全部止めるのは違うやろ」
「ここで踏ん張らな、あとが余計にきつなる」
一人に向かって話している声だと、すぐに分かった。
相手の返事は聞こえない。
柱の向こう側に、二人分の影だけが見える。
話しているのは、同級生の男だった。
学生団体の代表で、学内では「面倒見がいい」「相談に乗ってくれる」と知られている。
「今は答えを出さんでええって言う人もおるけどな」
「立ち止まってええ、って言い方は、俺はせえへん」
声は穏やかなままだった。
否定しているのは意見であって、人ではない。
そう聞こえる言い方を、意識して選んでいる。
(………今、その言い方を選ぶんか)
智輝は足を止めた。
隠れるつもりはなかったが、結果的に柱の影に入る形になる。
代表は続ける。
「逃げ道を用意するのは、優しさちゃうと思う」
「君のために言うてるんやで」
その言葉で、智輝の胸の奥がひっかかった。
“君のため”。
そう言い切られると、相手は否定しにくくなる。
反論すれば、自分が甘えているように見える。
しばらくして、小さな声が返ってきた。
「……すみません」
謝る理由が示されたわけではなかった。
意見が食い違っただけで、非があったとも言われていない。
それでも、話を終わらせるために選ばれた言葉だった。
(今のは、説得やない)
智輝は、そう判断した。
正論を積み重ねて、相手が動ける範囲を狭めている。
逃げることも、考え直すことも、選ばせない。
代表が一歩引く気配がした。
話は終わったらしい。
智輝はその場を動かなかった。声をかけるつもりもなかった。
(……でも)
胸の奥に、違和感だけが残る。
さっきの「すみません」が、耳から離れなかった。
見てしまった。
聞いてしまった。
それだけで、知らなかったことには戻れない気がして、
智輝は何も言わず、その場を離れた。
学内のざわめきが、少し遠くなる。
人の流れはいつも通りで、さっきの出来事だけが、そこから浮いている。
歩き出してから、
ふと、もう行く場所がないことを思い出す。
以前なら、考え事をするときは決まって向かう場所があった。
誰も来なくても、そこに座っていればよかった場所。
でも、もうない。
部室は返した。サークルも終わった。
それは、悔しさや未練で終わった話じゃない。
悠誠とも話して、納得して決めたことだ。
だから今さら、「戻りたい」とは思わない。
それなのに――
(……気になってるな)
自分の足が、少しだけ遅くなっていることに気づく。
さっき聞いた声が、まだ耳に残っている。
ベンチを見つけて腰を下ろす。通りから少し外れた場所。
誰もいないわけじゃない。でも、ここなら考え事をしていても不自然じゃない。
スマホを取り出す。
画面を開くと、一番上に悠誠の名前がある。
そこまで見て、指が止まった。
(今は……ええか)
連絡できないわけじゃない。話せば、聞いてくれるのも分かってる。
サークルのことも、やめた理由も、全部知っている相手だ。
でも今回は、助けてもらう話でも、支えてもらう話でもない。
智輝は画面を閉じて、スマホをポケットに戻した。
(俺、何してるんやろ)
自分に問いかける。答えはすぐには出てこない。
ただ、さっきの場面が浮かぶ。代表の穏やかな声。
逃げ道を塞ぐ言葉の並べ方。最後に残った「すみません」。
あれは、相談の終わり方じゃなかった。でも、抗議の終わり方でもない。
相手が自分で選んだというより、選べなくなった音だった。
(……見なかったことには、できへんな)
そう思った自分に、少し驚く。
サークルがあった頃なら、
「来た人を追い返さない」だけでよかった。
動く理由も、立ち位置も、用意されていた。
今は違う。
何の看板もない。役割もない。正当性も、自分で用意しなければならない。
それでも、自分の中で、何かが前に進もうとしている。
(いまさら、始めようとしてるんちゃうか)
そう気づいた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
責任を負えるかどうかも分からない。うまくできる保証もない。
それでも、このまま何もなかった顔で日常に戻る自分を、想像できなかった。
智輝は深く息を吸って、ゆっくり吐く。
今すぐ何かをするわけじゃない。誰かに宣言するつもりもない。
ただ、「関わってもいいかもしれない」
そう思ってしまった自分を、否定しないことだけを選ぶ。
ベンチから立ち上がる。行き先は、まだ決めていない。
それでも、何もなかった頃には戻れないことだけは、わかっていた。
学生ラウンジは、午後になると人が増える。
空きコマの学生が集まり、話し声とキーボードの音が重なって、全体が少しざわつく。
智輝は壁際の席で、資料を広げていた。
読むつもりで持ってきたものだが、視線は文字の上を滑っているだけだ。
そのとき、少し離れた一角で、声が上がった。
「それ、前も言うたよな?」
低い声。
抑えているけれど、苛立ちが隠れていない。
顔を上げると、あの代表が立っていた。
向かいに座っているのは、見覚えのない学生。
学年は分からないが、年上ではない。
「もう一回聞くけどさ」
「何が一番しんどいん?」
問いかけの形をしている。でも、待つ間が短い。
相手が言葉を探している間に、代表が続けた。
「しんどいって言う割に、やることはやってないよな」
「それで状況変わらんの、当たり前ちゃう?」
周囲には人がいる。完全な密室ではない。
でも、この距離、この声量、この向き。
逃げるには、ちょうど悪い。
相手の学生が、椅子の背にもたれた。一度、口を開きかけて、閉じる。
「……やってるつもりです」
代表は、そこで一瞬だけ目を細めた。
「つもり、な」
小さく息を吐く。諭すような、でも突き放す音。
「俺な、甘やかす気ないから」
「本気で変わりたいなら、もっとやらなあかん」
相手の肩が、わずかに下がる。
智輝は、その動きを見逃さなかった。言葉より先に、身体が反応している。
「それとも、今のままでええん?」
「変わる気ないなら、相談する意味ないやろ」
選択肢は二つあるように見える。でも、どちらも同じ方向を向いている。
変われ。それ以外は、認めない。
相手が視線を落とす。
テーブルの上のスマホに、指先が触れたまま動かない。
「……すみません」
その言葉が出た瞬間、代表の肩から、力が抜けたのが分かった。
「うん」
短く、満足した声。
「分かってくれたら、それでええねん」
「言うてること、厳しいかもしれんけどさ」
「君のためやから」
智輝の中で、何かがはっきりした。
(これ、前と同じや)
偶然でも、行き過ぎでもない。
相手が違っても、やり方は変わらない。
代表は、相手が折れるところまで押す。
折れたのを確認してから、手を引く。
その一連が、分かっていて繰り返されている。
代表が立ち上がる。相手に背を向ける前に、一言だけ残した。
「次までに、ちゃんとやっとき」
それは約束でも、提案でもなかった。命令に近い。
代表が去ったあと、残された学生はしばらく動かなかった。
智輝は、視線を資料に戻した。文字は、やっぱり頭に入らない。
(……偶然ちゃう)
胸の奥で、静かに確信が固まる。
サークルがあったから見えたわけやない。
部室があったから関わったわけでもない。
ただ、自分はこれを見てしまって、もう一度を、見逃さなかった。
智輝は、資料を閉じた。今日はもう、読む気にならない。
立ち上がるとき、
さっきの学生が、まだ俯いたままでいるのが視界に入った。
声をかけない。今は、その段階じゃない。
でも、このまま終わらせる気にも、なれなかった。
数日後。
昼休みが終わる少し前、智輝は学内の通路を歩いていた。
人の流れが切れはじめ、足音が間延びする時間帯だった。
背後から、名前を呼ばれる。
「……東雲さん」
振り返ると、見覚えのある学生が立っていた。
学生ラウンジで、代表と話していた人物だ。
「急にすみません」
声は落ち着いているが、硬い。
「○○から聞きました」
「前に、話を聞いてもらったことがあるって」
智輝は、頷いた。
学生が出した名前に憶えがあったからだ。
「……話を聞いてもらうだけのつもりが、東雲さんにはそんなつもりはなかったみたいだけど、
結局、東雲さんの言葉で何が嫌なのか、何をしたいのかがわかったって。」
頼み込む言い方ではない。確認に近い。
智輝は、周囲を一度見た。
人はいるが、立ち止まって話すには問題ない距離だ。
「話、聞かせて」
それだけ言う。それは智輝が初めて自分から言った言葉だった。
学生の肩が、わずかに下がった。
二人は、通路脇のベンチに腰を下ろした。
向かい合わない。横に並ぶでもない。
間に、少しだけ空間がある。
学生は、しばらく黙っていた。
言葉を選んでいるというより、順番を整えているようだった。
学生は智輝が学生ラウンジで話を聞いていたことも、代表を知っていることも知らない。
まずは、自己紹介のようなこと、所属する団体のこと、そして代表のことを話した。
「……あの人に、何回か話しました」
代表のことだ。
「最初は、ちゃんと聞いてくれたと思います。
困ってることを聞いて、整理してくれて」
そこまでは、よくある話し方だった。
「でも、途中から、話すたびに、同じことを言われるようになりました」
学生は視線を落としたまま、続ける。
「努力が足りない」
「覚悟が足りない」
「本気じゃない」
言葉は淡々としている。
感情を抑えているのが、かえって分かる。
「言われてること自体は、正しい気もするんです。でも……」
そこで一度、言葉が途切れた。
「話し終わると、毎回
自分が間違ってるって気持ちだけが残る」
智輝は、相槌を打たない。遮らない。
学生は続ける。
「次に行くとき、もう答えは決まってる感じで
違うこと言うと、理由を詰められて、最後は……謝って終わります」
声が、少しだけ低くなった。
「謝る理由、分からないんですけど
でも、そうしないと終わらなくて」
学生は、そこでようやく顔を上げた。
「……聞いてもらえるだけで、ちょっと楽です」
智輝は、その言葉を否定しなかった。
「今言ったこと、それで全部?」
確認する。
学生は、はっきり頷いた。
「はい。もう、これで全部です」
智輝は、少しだけ間を置いた。
学生は、深く息を吐いた。背もたれに体重を預ける。
「……すみません、長くなって」
「大丈夫」
智輝はすぐには返さなかった。
相手の言葉が、途中で途切れていないかを確かめるように、一拍だけ置く。
「今の話な」
落ち着いた声だった。
責める調子でも、諭す調子でもない。
「しんどかった理由、ちゃんと出てると思うで」
学生が顔を上げる。
「否定されたからやなくて 選べん状態にされてたのが、きつかったんやろ」
学生は、ゆっくり頷いた。
「それってさ、我慢が足りんとか、弱いとかの話ちゃう」
言い切る。
「同じ言い方、他の人にもしてるって聞いたし、自分一人に起きてることやないやろ」
学生の視線が、少しだけ揺れた。
「だから、これは、君一人で抱える話やないと思う」
助けるとも、守るとも言わない。代わりに動くとも言わない。
ただ、線を引く。
「誰にどう話すかは、君が決めたらええ。友達でも、団体の中でも
その場で、何人かで共有するだけでも違う」
選択肢を並べる。順番も、正解も示さない。
学生は、しばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。
「……一人で何とかせな、って思ってました」
「そうなる言い方、されてたんやと思う」
智輝は、それ以上踏み込まない。
学生は立ち上がり、少しだけ姿勢を正した。
「話してて、何が嫌やったんか、はっきりしました」
それで十分だった。
「ありがとうございました。自分で、動きます」
智輝は頷くだけで、何も足さない。
学生は友達の待つ方へ歩いていく。
足取りは、さっきより迷いが少なかった。
◇ ◇ ◇
カフェを出ると、外はもう夕方の色に変わっていた。
ガラス越しに見えていた空より、少しだけ温度が下がっている。
「歩こか」
悠誠がそう言って、自然に進行方向を変える。
駅とは逆。疎水の方角だった。
「うん」
智輝は理由を聞かない。
週一で会える日は、こうして遠回りをすることが多い。
川沿いに出ると、車の音が一段落ちて、水の気配が近づいた。
街灯はまだ点ききっていない。二人の影が、足元で長く伸びる。
繋いだ手の温度だけが、はっきりしている。
その沈黙を破ったのは、悠誠だった。
「……それで、どうなったん?」
続きを当然のように待つ声。
智輝は少しだけ間を置いてから答えた。
「俺が動いたわけちゃうで」
先に、それだけ言う。
「話した子がな、同じ団体の友達に話して何人かで、代表に言うたらしい」
足元の影が重なって、また離れる。
「最初は、代表も正論で返してたみたいやけど
人数おったら、誤魔化しきれんかったって」
悠誠は黙って聞いている。
「代表、外された」
淡々とした声。感情を乗せない。
「それだけ?」
悠誠が聞く。
智輝は、首を横に振った。
「団体自体、結構揉めてる。代表に対する信頼も、ほぼなくなったって」
そこで、ようやく少し息を吐く。
「……それが、相応やと思う」
悠誠は一歩だけ近づいて、智輝を見る。
「しんどかった?」
智輝は少し考えてから答えた。
「聞いてる間はな。でも、俺が何か決める話ちゃうし」
言い切る。
「選んだのは、あの子らや」
悠誠は、ふっと小さく笑った。
「それでええと思う」
手を握り直す。
「お前が全部背負ったら、違うもんな」
「うん」
短い返事。でも、迷いはない。
しばらく二人で歩く。水音が、会話の隙間を埋める。
「……ちゃんと聞いたんやな」
悠誠が、ぽつりと言う。
「うん。最後まで」
関わると決めたはずだった。
けれど、振り返ってみると、きっかけは向こうからだった。
何をどうすればいいのか、自分でもまだ整理がついていない。
「これからもな、自分から相談事ないかって探すつもりはないねん。
でも、知ってしまったら、それをどうにかせんと、と思ったら、関わることを怖がらないつもりや。」
悠誠は、智輝の手を引いて立ち止まる。
疎水の水音が、すぐ近くで続いている。
「その時に、誰かが必要やと思ったら俺を呼ぶこと。それだけ忘れんかったらええ。」
「カッコええなあ。悠誠」
「あほ、ちゃかすな。」
「ちゃかしてない。ほんまにそう思ったんや。」
街灯はまだ完全には点いていない。
夕方の名残の明るさが、二人の輪郭を残していた。
「今日はさ」
距離が、自然に縮まる。
「もう、その話はここまででええやろ」
智輝は、少しだけ笑った。
「せやな」
言い終わるより先に、悠誠の手が智輝の腰に回る。
強く引き寄せるわけでもない。逃げ場を塞ぐほど近づけるだけ。
智輝は、その距離を拒まない。むしろ、無意識に一歩寄る。
唇が触れる。すぐには離れない。
軽く触れて、確かめて、もう一度、同じ場所に戻る。
息が混じるのを待つみたいに、ほんの少し、間を置いてから。
智輝の指が、悠誠のシャツの端を掴む。
引くほどじゃない。でも、離れる気がないことだけは伝わる。
悠誠が、ゆっくり角度を変える。深くしない代わりに、長く。
唇が離れても、額が触れる距離のまま、どちらも動かない。
息が落ち着くまで、数秒。
「……甘えてる?」
智輝が、低く聞く。
「今日は、ええやろ」
悠誠の声も低い。
「一週間分やし」
その言い方に、智輝の喉が小さく鳴る。否定はしない。
もう一度、短く触れる。さっきより、少しだけ軽く。
今度は、ちゃんと離れる。
繋いだ手は、そのまま。指先が絡んで、ほどけない。
二人は何も言わず、また歩き出した。
疏水の水音が、さっきより近く感じられる。
話は終わったはずなのに、
胸の奥には、まだ余韻が残っていた。
食器が触れる乾いた音と、低く抑えた話し声が混じって、窓際の席まで流れてくる。
智輝はアイスミルクティーのグラスを指で回しながら、外を見ていた。
ガラス越しの通りは、人の流れが少しずつ落ち着いてきている。
週に一度、こうして時間を合わせる日。
特別なことをしなくても、悠誠に会うと身体の力が抜ける。
「今週は、どうやった?」
悠誠が聞く。
視線はメニューの端に落ちているけれど、声はちゃんとこちらを向いていた。
「普通」
智輝はそう答えてから、少し考える。
「……まあ、普通やった」
悠誠はそれ以上突っ込まない。
「そっか」と短く返して、コーヒーに口をつける。
その間が、智輝にはちょうどいい。
フォークでケーキを切り分ける。
生地が思ったより柔らかくて、刃先が少し沈む。
甘い匂いが立って、空腹に遅れて気づく。
「これ、前より甘なってない?」
「気のせいちゃう?」
「前はもうちょい軽かった気する」
「前、いつやねん」
他愛ないやりとりが続く。
正解も結論もいらない会話。
こういう時間があるから、週の真ん中を越えられる。
智輝はフォークを置いて、グラスに残った氷を見る。
溶けかけて、角が丸くなっている。
少しだけ、呼吸を整えた。
「……なあ」
声を出すと、悠誠が顔を上げる。目が合う。
智輝は、その視線に甘えてもいいと感じた。
視線を外に戻したまま、言った。
「こんなことがあってん」
◇ ◇ ◇
それは、昼休みが終わりかけた頃だった。
食堂の裏手にある通路は、表よりも人が少ない。
完全に静かというほどではないが、立ち話をしていても目立たない程度の場所だ。
智輝は自販機で飲み物を買い、缶を手にしたまま歩いていた。
その先で、声が聞こえた。
「しんどいのは分かるよ」
落ち着いた声だった。
感情を荒立てる様子もなく、諭すような調子。
「でも、それを理由に全部止めるのは違うやろ」
「ここで踏ん張らな、あとが余計にきつなる」
一人に向かって話している声だと、すぐに分かった。
相手の返事は聞こえない。
柱の向こう側に、二人分の影だけが見える。
話しているのは、同級生の男だった。
学生団体の代表で、学内では「面倒見がいい」「相談に乗ってくれる」と知られている。
「今は答えを出さんでええって言う人もおるけどな」
「立ち止まってええ、って言い方は、俺はせえへん」
声は穏やかなままだった。
否定しているのは意見であって、人ではない。
そう聞こえる言い方を、意識して選んでいる。
(………今、その言い方を選ぶんか)
智輝は足を止めた。
隠れるつもりはなかったが、結果的に柱の影に入る形になる。
代表は続ける。
「逃げ道を用意するのは、優しさちゃうと思う」
「君のために言うてるんやで」
その言葉で、智輝の胸の奥がひっかかった。
“君のため”。
そう言い切られると、相手は否定しにくくなる。
反論すれば、自分が甘えているように見える。
しばらくして、小さな声が返ってきた。
「……すみません」
謝る理由が示されたわけではなかった。
意見が食い違っただけで、非があったとも言われていない。
それでも、話を終わらせるために選ばれた言葉だった。
(今のは、説得やない)
智輝は、そう判断した。
正論を積み重ねて、相手が動ける範囲を狭めている。
逃げることも、考え直すことも、選ばせない。
代表が一歩引く気配がした。
話は終わったらしい。
智輝はその場を動かなかった。声をかけるつもりもなかった。
(……でも)
胸の奥に、違和感だけが残る。
さっきの「すみません」が、耳から離れなかった。
見てしまった。
聞いてしまった。
それだけで、知らなかったことには戻れない気がして、
智輝は何も言わず、その場を離れた。
学内のざわめきが、少し遠くなる。
人の流れはいつも通りで、さっきの出来事だけが、そこから浮いている。
歩き出してから、
ふと、もう行く場所がないことを思い出す。
以前なら、考え事をするときは決まって向かう場所があった。
誰も来なくても、そこに座っていればよかった場所。
でも、もうない。
部室は返した。サークルも終わった。
それは、悔しさや未練で終わった話じゃない。
悠誠とも話して、納得して決めたことだ。
だから今さら、「戻りたい」とは思わない。
それなのに――
(……気になってるな)
自分の足が、少しだけ遅くなっていることに気づく。
さっき聞いた声が、まだ耳に残っている。
ベンチを見つけて腰を下ろす。通りから少し外れた場所。
誰もいないわけじゃない。でも、ここなら考え事をしていても不自然じゃない。
スマホを取り出す。
画面を開くと、一番上に悠誠の名前がある。
そこまで見て、指が止まった。
(今は……ええか)
連絡できないわけじゃない。話せば、聞いてくれるのも分かってる。
サークルのことも、やめた理由も、全部知っている相手だ。
でも今回は、助けてもらう話でも、支えてもらう話でもない。
智輝は画面を閉じて、スマホをポケットに戻した。
(俺、何してるんやろ)
自分に問いかける。答えはすぐには出てこない。
ただ、さっきの場面が浮かぶ。代表の穏やかな声。
逃げ道を塞ぐ言葉の並べ方。最後に残った「すみません」。
あれは、相談の終わり方じゃなかった。でも、抗議の終わり方でもない。
相手が自分で選んだというより、選べなくなった音だった。
(……見なかったことには、できへんな)
そう思った自分に、少し驚く。
サークルがあった頃なら、
「来た人を追い返さない」だけでよかった。
動く理由も、立ち位置も、用意されていた。
今は違う。
何の看板もない。役割もない。正当性も、自分で用意しなければならない。
それでも、自分の中で、何かが前に進もうとしている。
(いまさら、始めようとしてるんちゃうか)
そう気づいた瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
責任を負えるかどうかも分からない。うまくできる保証もない。
それでも、このまま何もなかった顔で日常に戻る自分を、想像できなかった。
智輝は深く息を吸って、ゆっくり吐く。
今すぐ何かをするわけじゃない。誰かに宣言するつもりもない。
ただ、「関わってもいいかもしれない」
そう思ってしまった自分を、否定しないことだけを選ぶ。
ベンチから立ち上がる。行き先は、まだ決めていない。
それでも、何もなかった頃には戻れないことだけは、わかっていた。
学生ラウンジは、午後になると人が増える。
空きコマの学生が集まり、話し声とキーボードの音が重なって、全体が少しざわつく。
智輝は壁際の席で、資料を広げていた。
読むつもりで持ってきたものだが、視線は文字の上を滑っているだけだ。
そのとき、少し離れた一角で、声が上がった。
「それ、前も言うたよな?」
低い声。
抑えているけれど、苛立ちが隠れていない。
顔を上げると、あの代表が立っていた。
向かいに座っているのは、見覚えのない学生。
学年は分からないが、年上ではない。
「もう一回聞くけどさ」
「何が一番しんどいん?」
問いかけの形をしている。でも、待つ間が短い。
相手が言葉を探している間に、代表が続けた。
「しんどいって言う割に、やることはやってないよな」
「それで状況変わらんの、当たり前ちゃう?」
周囲には人がいる。完全な密室ではない。
でも、この距離、この声量、この向き。
逃げるには、ちょうど悪い。
相手の学生が、椅子の背にもたれた。一度、口を開きかけて、閉じる。
「……やってるつもりです」
代表は、そこで一瞬だけ目を細めた。
「つもり、な」
小さく息を吐く。諭すような、でも突き放す音。
「俺な、甘やかす気ないから」
「本気で変わりたいなら、もっとやらなあかん」
相手の肩が、わずかに下がる。
智輝は、その動きを見逃さなかった。言葉より先に、身体が反応している。
「それとも、今のままでええん?」
「変わる気ないなら、相談する意味ないやろ」
選択肢は二つあるように見える。でも、どちらも同じ方向を向いている。
変われ。それ以外は、認めない。
相手が視線を落とす。
テーブルの上のスマホに、指先が触れたまま動かない。
「……すみません」
その言葉が出た瞬間、代表の肩から、力が抜けたのが分かった。
「うん」
短く、満足した声。
「分かってくれたら、それでええねん」
「言うてること、厳しいかもしれんけどさ」
「君のためやから」
智輝の中で、何かがはっきりした。
(これ、前と同じや)
偶然でも、行き過ぎでもない。
相手が違っても、やり方は変わらない。
代表は、相手が折れるところまで押す。
折れたのを確認してから、手を引く。
その一連が、分かっていて繰り返されている。
代表が立ち上がる。相手に背を向ける前に、一言だけ残した。
「次までに、ちゃんとやっとき」
それは約束でも、提案でもなかった。命令に近い。
代表が去ったあと、残された学生はしばらく動かなかった。
智輝は、視線を資料に戻した。文字は、やっぱり頭に入らない。
(……偶然ちゃう)
胸の奥で、静かに確信が固まる。
サークルがあったから見えたわけやない。
部室があったから関わったわけでもない。
ただ、自分はこれを見てしまって、もう一度を、見逃さなかった。
智輝は、資料を閉じた。今日はもう、読む気にならない。
立ち上がるとき、
さっきの学生が、まだ俯いたままでいるのが視界に入った。
声をかけない。今は、その段階じゃない。
でも、このまま終わらせる気にも、なれなかった。
数日後。
昼休みが終わる少し前、智輝は学内の通路を歩いていた。
人の流れが切れはじめ、足音が間延びする時間帯だった。
背後から、名前を呼ばれる。
「……東雲さん」
振り返ると、見覚えのある学生が立っていた。
学生ラウンジで、代表と話していた人物だ。
「急にすみません」
声は落ち着いているが、硬い。
「○○から聞きました」
「前に、話を聞いてもらったことがあるって」
智輝は、頷いた。
学生が出した名前に憶えがあったからだ。
「……話を聞いてもらうだけのつもりが、東雲さんにはそんなつもりはなかったみたいだけど、
結局、東雲さんの言葉で何が嫌なのか、何をしたいのかがわかったって。」
頼み込む言い方ではない。確認に近い。
智輝は、周囲を一度見た。
人はいるが、立ち止まって話すには問題ない距離だ。
「話、聞かせて」
それだけ言う。それは智輝が初めて自分から言った言葉だった。
学生の肩が、わずかに下がった。
二人は、通路脇のベンチに腰を下ろした。
向かい合わない。横に並ぶでもない。
間に、少しだけ空間がある。
学生は、しばらく黙っていた。
言葉を選んでいるというより、順番を整えているようだった。
学生は智輝が学生ラウンジで話を聞いていたことも、代表を知っていることも知らない。
まずは、自己紹介のようなこと、所属する団体のこと、そして代表のことを話した。
「……あの人に、何回か話しました」
代表のことだ。
「最初は、ちゃんと聞いてくれたと思います。
困ってることを聞いて、整理してくれて」
そこまでは、よくある話し方だった。
「でも、途中から、話すたびに、同じことを言われるようになりました」
学生は視線を落としたまま、続ける。
「努力が足りない」
「覚悟が足りない」
「本気じゃない」
言葉は淡々としている。
感情を抑えているのが、かえって分かる。
「言われてること自体は、正しい気もするんです。でも……」
そこで一度、言葉が途切れた。
「話し終わると、毎回
自分が間違ってるって気持ちだけが残る」
智輝は、相槌を打たない。遮らない。
学生は続ける。
「次に行くとき、もう答えは決まってる感じで
違うこと言うと、理由を詰められて、最後は……謝って終わります」
声が、少しだけ低くなった。
「謝る理由、分からないんですけど
でも、そうしないと終わらなくて」
学生は、そこでようやく顔を上げた。
「……聞いてもらえるだけで、ちょっと楽です」
智輝は、その言葉を否定しなかった。
「今言ったこと、それで全部?」
確認する。
学生は、はっきり頷いた。
「はい。もう、これで全部です」
智輝は、少しだけ間を置いた。
学生は、深く息を吐いた。背もたれに体重を預ける。
「……すみません、長くなって」
「大丈夫」
智輝はすぐには返さなかった。
相手の言葉が、途中で途切れていないかを確かめるように、一拍だけ置く。
「今の話な」
落ち着いた声だった。
責める調子でも、諭す調子でもない。
「しんどかった理由、ちゃんと出てると思うで」
学生が顔を上げる。
「否定されたからやなくて 選べん状態にされてたのが、きつかったんやろ」
学生は、ゆっくり頷いた。
「それってさ、我慢が足りんとか、弱いとかの話ちゃう」
言い切る。
「同じ言い方、他の人にもしてるって聞いたし、自分一人に起きてることやないやろ」
学生の視線が、少しだけ揺れた。
「だから、これは、君一人で抱える話やないと思う」
助けるとも、守るとも言わない。代わりに動くとも言わない。
ただ、線を引く。
「誰にどう話すかは、君が決めたらええ。友達でも、団体の中でも
その場で、何人かで共有するだけでも違う」
選択肢を並べる。順番も、正解も示さない。
学生は、しばらく黙っていた。やがて、小さく息を吐く。
「……一人で何とかせな、って思ってました」
「そうなる言い方、されてたんやと思う」
智輝は、それ以上踏み込まない。
学生は立ち上がり、少しだけ姿勢を正した。
「話してて、何が嫌やったんか、はっきりしました」
それで十分だった。
「ありがとうございました。自分で、動きます」
智輝は頷くだけで、何も足さない。
学生は友達の待つ方へ歩いていく。
足取りは、さっきより迷いが少なかった。
◇ ◇ ◇
カフェを出ると、外はもう夕方の色に変わっていた。
ガラス越しに見えていた空より、少しだけ温度が下がっている。
「歩こか」
悠誠がそう言って、自然に進行方向を変える。
駅とは逆。疎水の方角だった。
「うん」
智輝は理由を聞かない。
週一で会える日は、こうして遠回りをすることが多い。
川沿いに出ると、車の音が一段落ちて、水の気配が近づいた。
街灯はまだ点ききっていない。二人の影が、足元で長く伸びる。
繋いだ手の温度だけが、はっきりしている。
その沈黙を破ったのは、悠誠だった。
「……それで、どうなったん?」
続きを当然のように待つ声。
智輝は少しだけ間を置いてから答えた。
「俺が動いたわけちゃうで」
先に、それだけ言う。
「話した子がな、同じ団体の友達に話して何人かで、代表に言うたらしい」
足元の影が重なって、また離れる。
「最初は、代表も正論で返してたみたいやけど
人数おったら、誤魔化しきれんかったって」
悠誠は黙って聞いている。
「代表、外された」
淡々とした声。感情を乗せない。
「それだけ?」
悠誠が聞く。
智輝は、首を横に振った。
「団体自体、結構揉めてる。代表に対する信頼も、ほぼなくなったって」
そこで、ようやく少し息を吐く。
「……それが、相応やと思う」
悠誠は一歩だけ近づいて、智輝を見る。
「しんどかった?」
智輝は少し考えてから答えた。
「聞いてる間はな。でも、俺が何か決める話ちゃうし」
言い切る。
「選んだのは、あの子らや」
悠誠は、ふっと小さく笑った。
「それでええと思う」
手を握り直す。
「お前が全部背負ったら、違うもんな」
「うん」
短い返事。でも、迷いはない。
しばらく二人で歩く。水音が、会話の隙間を埋める。
「……ちゃんと聞いたんやな」
悠誠が、ぽつりと言う。
「うん。最後まで」
関わると決めたはずだった。
けれど、振り返ってみると、きっかけは向こうからだった。
何をどうすればいいのか、自分でもまだ整理がついていない。
「これからもな、自分から相談事ないかって探すつもりはないねん。
でも、知ってしまったら、それをどうにかせんと、と思ったら、関わることを怖がらないつもりや。」
悠誠は、智輝の手を引いて立ち止まる。
疎水の水音が、すぐ近くで続いている。
「その時に、誰かが必要やと思ったら俺を呼ぶこと。それだけ忘れんかったらええ。」
「カッコええなあ。悠誠」
「あほ、ちゃかすな。」
「ちゃかしてない。ほんまにそう思ったんや。」
街灯はまだ完全には点いていない。
夕方の名残の明るさが、二人の輪郭を残していた。
「今日はさ」
距離が、自然に縮まる。
「もう、その話はここまででええやろ」
智輝は、少しだけ笑った。
「せやな」
言い終わるより先に、悠誠の手が智輝の腰に回る。
強く引き寄せるわけでもない。逃げ場を塞ぐほど近づけるだけ。
智輝は、その距離を拒まない。むしろ、無意識に一歩寄る。
唇が触れる。すぐには離れない。
軽く触れて、確かめて、もう一度、同じ場所に戻る。
息が混じるのを待つみたいに、ほんの少し、間を置いてから。
智輝の指が、悠誠のシャツの端を掴む。
引くほどじゃない。でも、離れる気がないことだけは伝わる。
悠誠が、ゆっくり角度を変える。深くしない代わりに、長く。
唇が離れても、額が触れる距離のまま、どちらも動かない。
息が落ち着くまで、数秒。
「……甘えてる?」
智輝が、低く聞く。
「今日は、ええやろ」
悠誠の声も低い。
「一週間分やし」
その言い方に、智輝の喉が小さく鳴る。否定はしない。
もう一度、短く触れる。さっきより、少しだけ軽く。
今度は、ちゃんと離れる。
繋いだ手は、そのまま。指先が絡んで、ほどけない。
二人は何も言わず、また歩き出した。
疏水の水音が、さっきより近く感じられる。
話は終わったはずなのに、
胸の奥には、まだ余韻が残っていた。
