S.S:Silent Society

疏水沿いの道は、夕方になると音が静まる。
水面に映る光が揺れて、歩くたびに足音が吸い込まれていく。

食事を終えて、二人は並んで歩いていた。
悠誠の歩幅は、智輝に合わせてわずかに遅い。そのことに、智輝は何も言わず気づいている。

「……なあ」

声を出すと、悠誠がすぐに横を見る。

「うん」

続きを待つ顔だった。
急かさず、遮らず、ただ聞く準備ができている。

智輝は視線を前に向けたまま、静かに言った。

「こんなことがあってん」

◇ ◇ ◇

その言葉をきっかけに、記憶が引き戻される。

講義と講義のあいだ。
人の少ない廊下で、智輝はポータルサイトを開いていた。次の教室を確認するだけのつもりだった。

スクロールして、指が止まる。

――学生向け心理サポート・プログラム。

春先にはよくある告知だ。珍しくもない。
そのまま流そうとして、文章の並びに違和感を覚えた。

『今は答えを出さなくていい』
『無理に変わろうとしなくていい』

一文ずつなら、間違っていない。
智輝自身、何度も使ってきた言葉だった。

けれど、続けて読むと意味が変わる。
“考えるために立ち止まる”ではなく、“動かなくていい理由”として並べられている。

智輝は廊下の壁に背中を預け、もう一度読み直した。

(……違う)

声には出さない。まだ、確信ではなかった。

リンクを開く。別ページが立ち上がる。
構成。論点の運び。例の置き方。

見覚えがある、と思った瞬間に、その考えを打ち消す。

(似てるだけや)

心理学の文章なら、似ることはある。
そう言い聞かせて、参考文献の一覧を開いた。

スクロールして、止まる。

大学名。
学部名。
論文タイトルの一部。

――D大学心理学部。

そこで初めて、息が詰まった。

著者名は伏せられている。
けれど、伏せ方が甘い。

自分の論文だと理解するまでに、ほんの数秒かかった。

使われていることよりも、意味が逆に置かれていることが、遅れて胸に来る。
考えるために書いた言葉が、考えなくていい言葉に変えられている。
しかも、金銭を取る理由として。

その場で画面を閉じた。

◇ ◇ ◇


疏水の水音が、再び耳に戻ってくる。

「……でな」

智輝は歩きながら話していた。声は落ち着いている。

「その時は、腹立つより先に、ちょっと……怖なって」

悠誠は何も言わない。ただ、隣にいる。

夜。
部屋に戻り、机に向かう。

ノートパソコンを開いたまま、何も打てない。
引用規定も、学内規則も、調べれば動けることは分かっている。

けれど、頭に浮かんだのは別のことだった。

(もし、あれ読んで、動かんでええって思った人がおったら)

考えるために書いた言葉が、誰かの都合で使われ、誰かを止める。

画面を閉じ、ベッドに腰を下ろす。
スマホを手に取り、また置く。

悠誠に連絡しようか、迷った。

今、話したら余計に揺れる気がした。
悠誠は忙しい。分かっている。邪魔したくない。

そう思った瞬間、胸の奥がきしんだ。

(……俺の論文が、都合良かったんか?)

すぐに、その考えを止める。
自分を責めても仕方がない。

結局、その夜は何もできなかった。

◇ ◇ ◇


「一晩、何もできへん時間があって」

疏水にかかる橋を渡る。
街灯の光が、二人の足元を照らす。

「連絡しよか、ほんまに迷ってん」

そこで、悠誠が足を止めた。
智輝も自然に止まる。

「……連絡してよ」

はっきりした声だった。責めてはいない。

「聞くくらいはできた」

智輝は困ったように笑う。

「せやろな。そう言うと思ってた」

甘えが混じる。

「今やから言えるけど、その時は、誰かの声聞いたら崩れそうやってん」

悠誠は一歩近づき、智輝の手を取った。
その温度で、現在に戻る。

「……俺な、その時間、普通に勉強してた」

その言葉が、遅れて胸に触れる。

「それ聞いて、悔しいと思う。なんでその時に一緒におれんかったんやって」

正直な声だった。
悠誠は、手を握り直す。

「でも、俺が今ここで聞く話やったんやな」

智輝は、うなずいた。

「うん。せやから、今日は会って、顔みて話せた。それでええねん」

疏水の水音が続く。
手は離れない。

智輝は迷わず隣を見る。
今は、ちゃんと並んで歩いている。

◇ ◇ ◇


何もできずに過ごした翌朝。
智輝は、いつもより少し早く大学に着いた。

正門をくぐる足取りに、もう迷いはない。

昨夜、悠誠に何も送らなかった代わりに、やることだけは決めていた。
感情の整理は後でいい。今は、事実を並べる。

心理学部の事務室。まだ人の少ない時間帯。

「論文の件で、相談したいことがあって」

そう切り出すと、職員が画面から顔を上げた。

「商用利用ですか?」
「はい。それと、解釈が逆に使われています」

言い切る。揺れは、ここには持ち込まない。

スクリーンショット。
論文原稿。
該当箇所に付箋。

机の上に並べる。

「引用の範囲を超えていますね」

その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。

「学内委員会に回します」
「確認に数日かかりますが」

「お願いします」

それだけでよかった。

判断は、自分がすることじゃない。
正しい場所に戻ればいい。

事務室を出ると、廊下の窓から光が差し込んでいた。

(……動いた)

小さいけれど、確かな手応え。

数日後、学部からメールが届いた。

件名は事務的で、感情の入る余地はない。

・該当プログラムでの論文利用停止
・資料の修正および削除
・学内での活動許可取り消し

それだけだった。

添付された謝罪文も、淡々とした書式。
最後まで目を通して、智輝は画面を閉じる。

納得した、とは違う。
けれど、

(戻ったな)

言葉が、本来の意味の場所に戻った。
それで、十分だった。

◇ ◇ ◇


「……で、大学が動いて、ちゃんと元に戻った」

疏水の水音が、またはっきり聞こえる。
智輝は歩きながら、そう締めた。

「……で、大学が動いて、ちゃんと元に戻った」

「せやから今は、もう落ち着いてる」

悠誠は、繋いだ手を見てから言う。

「落ち着いてから話すんやな」

「うん」

智輝は、少しだけ指に力を込めた。

「甘えてもええ時間やから」

その言葉に、悠誠が足を止める。
引かれた手に、智輝も自然と立ち止まった。

「……ずるいこと言うな」

低い声。
でも、責める響きはない。

悠誠が一歩近づく。
距離が詰まって、疏水の水音が遠くなる。

「ほんまは、その前に言うてほしかったけどな」

「知ってる」

智輝は即答した。

「次は、迷った時点で言う」

約束というより、共有。

そのまま、智輝が顔を上げるより先に、
悠誠の手が頬に触れた。

親指が、ゆっくりと撫でる。

「……寂しかった」

囁くみたいな声。

「俺も」

そのまま、唇が重なる。

静かなキスだった。
確かめるみたいに触れて、離れず、もう一度。

智輝は、逃げる代わりに、
悠誠のシャツを掴んだ。

息が触れて、少し乱れる。

額を合わせたまま、悠誠が笑う。

「甘えてええって言うから」

「……言うた」

智輝の声は、少しだけ低い。

悠誠の腕が回って、抱き寄せられる。
疏水の光が、水面で揺れる。

「今日、話してくれてよかった」

悠誠はそう言って、手を離さない。

智輝は、その横顔を見て思う。

あの時、一人で立っていた場所から、
ちゃんと戻ってきた。

今は、隣に悠誠がいて、触れられて、甘えても、崩れない。
二人はまた並んで歩き出した。