新学期が始まって一週間が過ぎても、智輝はまだ生活のリズムを掴みきれずにいた。
朝は決まった時間に目が覚めるのに、講義が終わったあとの時間が、想像していたよりも長く、手持ち無沙汰なのに落ち着かなかった。
空いた時間ができるほど、今日は会えるのか会えないのかが気になって、無意識に時計を見てしまう。
図書館と中庭と購買を意味もなく往復してしまう。院に進むと決めてから、読む本だけは増えた。
それでも、頭は落ち着かず、意識のどこかがずっと時計を気にしていた。今日は何時に会えるのか、会えないのか。
そう考えてしまう自分を、智輝はまだうまく制御できていなかった。
昼過ぎの講義が終わると、智輝は自然とスマホを確認していた。通知は来ていない。
それでも画面を閉じきれず、しばらく手の中で重さを確かめてから鞄に戻す。今日は会えないかもしれない、と頭では理解している。
昨日の夜、悠誠は「昼は詰まってる」と言っていたし、夕方もバイトが入っているはずだった。それでも、もしかしたら、という期待が消えきらない。
期待してはいけない理由はないのに、期待してしまう自分を、どこかで戒めている。
構内を歩きながら、智輝は人の流れをぼんやりと眺めた。新入生の姿が多く、知らない顔ばかりが行き交う。
春の空気は柔らかいのに、自分だけが取り残されたような感覚があった。部室があった頃は、講義の合間に立ち寄る場所があり、悠誠と顔を合わせる前提があった。
今は、その前提がない。だからこそ、自分で選んだはずの静かな時間が、思った以上に輪郭を持って迫ってくる。
購買の前を通り過ぎたところで、ポケットの中でスマホが震えた。取り出すと、短い通知が表示されている。
〈今、少しだけいける〉
それだけだったが、智輝の足はすぐに止まった。胸の奥が軽くなるのを感じながら、〈どこ?〉と打ち返す。返事は早かった。
〈南門〉
南門までの道を、智輝は無意識に早足で進んだ。走るほどではないが、立ち止まる理由もなかった。
約束の時間でも、ゆっくり会える日でもない。ただ「少しだけ」の再会。それでも、その言葉だけで十分だった。
門の手前で、智輝は悠誠の姿を見つけた。肩にかけた鞄はいつもより重そうで、背中がわずかに丸まっている。
スマホを操作しながら立っていた悠誠が顔を上げ、智輝に気づくと、小さく手を振った。
「来てくれたんや」
「うん。今、終わったとこ」
言葉を交わしながら、二人は門の脇に移動する。通行の邪魔にならない位置で立ち止まると、自然と距離が縮まった。
時間は限られていると分かっているから、余計な動きはしない。
「昼、ほんまにバタバタでさ」
「そやろな」
悠誠の声は落ち着いていたが、よく見ると目の奥に疲れが滲んでいる。
智輝はそれに気づいても、指摘はしなかった。言葉にした瞬間、それが問題になってしまう気がしたからだ。
「思ってたよりな」
一拍置いて、悠誠が続ける。
「大変やなって、思うわ」
それは愚痴とも弱音とも言えない、事実の確認のような言い方だった。
「しんどい」とは言わない。その代わりに、現状を静かに受け止めている響きがあった。
「でも」
悠誠は一度言葉を切り、智輝を見る。
「会えるやろ。こうやって」
その視線には、無理に笑おうとする気配はなかった。
「それあるから、頑張れる」
短く、言い切るように言ってから、悠誠は少しだけ肩の力を抜いた。
その瞬間、智輝の胸の奥が熱くなった。嬉しい、という感情が真っ先に浮かぶ。そのことに、自分で少し驚く。
悠誠の負担になりたくないと思っていたはずなのに、「自分が理由になっている」ことが、こんなにも素直に嬉しい。
「……そっか」
智輝はそれだけ返した。余計な言葉を足すと、この感情が重くなってしまう気がしたからだ。
悠誠はスマホを確認し、時間を確かめる。
「そろそろ行かなあかん」
「うん」
別れ際、ほんの一瞬だけ、指先が触れた。触れただけで、離れるのが惜しいと分かってしまう。
悠誠が歩き出すのを見送りながら、智輝は自分の胸の内を確かめていた。忙しいのは事実で、大変なのも本当だ。
それでも、会える時間を選んでくれている。その選択が、言葉よりも強く伝わってくる。
大丈夫だと思った。簡単ではないけれど、壊れる気配もない。
次の講義まで少し時間がある。智輝は、その教室へ足を向けた。
新しい生活は始まったばかりで、まだ輪郭が定まらない。それでも、支え合う場所だけは、もう決まっている。
新学期が始まってから、二人のLINEは毎晩、同じ話題に戻ってきていた。
「週末、どこ行く?」
その一言から始まるやり取りは、すぐに結論が出ることはなく、候補だけが少しずつ増えては消えていく。
悠誠は講義とバイトの合間に返信を返し、智輝は夜、ベッドに横になりながらその返事を待った。
忙しい日々の中で、こうして時間をかけて話すこと自体が、もう特別だった。
〈智輝:あんまりバタバタせんとこ〉
〈悠誠:うん〉
〈悠誠:ゆっくりできるとこがええな〉
新生活が始まって、二人とも自分の余力を正確に把握するようになっていた。
楽しいかどうかより、無理がないかどうか。それを前提に話が進むのは、自然な流れだった。
〈悠誠:そういえば〉
(少し間を置いて、悠誠からメッセージが届く。)
〈悠誠:俺ら、王道デートってあんまりしてへんよな〉
智輝はその文を読み返し、静かに頷いた。
散歩、喫茶店、静かな場所。
二人で過ごした時間は多いけれど、「これぞ王道」と言われるものを、意識して選んだ覚えはなかった。
〈智輝:水族館とか?〉
送信してから、智輝は少し考えた。
京都水族館なら、思い立ったらすぐ行ける。講義の後でも、空き時間でも行ける場所だ。
それを分かったうえで、あえて提案している自分に気づく。
〈智輝:京都のでもええけど〉
〈智輝:せっかくやし〉
〈智輝:遠出するんも、たまには〉
返事はすぐに来た。
〈悠誠:それやな〉
〈悠誠:近いと、いつでも行けるって思ってまう〉
〈悠誠:今回は〉
〈悠誠:ちゃんと時間取った感ほしい〉
その言葉に、智輝は小さく笑った。
「特別にする」という意識が、二人の間で自然に共有されている。
〈智輝:ほな、海遊館?〉
〈智輝:大阪の〉
送信したあと、否定される可能性を一瞬だけ考えた。
でも、その心配はすぐに消える。
〈悠誠:ええやん〉
〈悠誠:前から言うてたやろ〉
〈悠誠:一回ちゃんと行きたいって〉
画面を見つめながら、智輝は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
何気ない会話の中で、相手の言葉を覚えていてくれる。その事実が、忙しさの中で確かな支えになる。
〈悠誠:夜までおれる?〉
〈智輝:うん〉
〈悠誠:ほな〉
〈悠誠:観覧車も行こ〉
水族館と観覧車。
分かりやすくて、少し照れくさいくらいの王道。それを「今さら」と思わず、「今だから」と選べることが、今の二人らしかった。
〈智輝:夜のやつやんな〉
〈悠誠:せや〉
〈悠誠:きれいやで〉
きれい、という言葉が、景色だけを指していないのは分かっていた。
時間を取って、距離を越えて、一緒に見る夜。その全部が含まれている。
〈智輝:楽しみやな〉
〈悠誠:俺も〉
智輝はスマホを置き、天井を見つめる。新生活は慌ただしくて、余裕は少ない。
それでも、その中に「特別な一日」がきちんと組み込まれている。
近いから行く場所ではなく、
わざわざ行く場所を選んだ。
その事実が、今の二人の関係を静かに支えていた。
待ち合わせは京都駅の改札前だった。
人の流れが途切れない場所で、智輝は立ち止まり、電光掲示板を一度だけ確認する。
大阪方面行きの新快速は、いつも通りの表示だった。発車まで、まだ少し時間がある。早すぎも遅すぎもしない、ちょうどいい到着だった。
改札を抜けてくる人の中に、見慣れた姿を見つけるのは難しくなかった。
悠誠は人混みの中でも背が高く、歩き方に迷いがない。目が合うと、わずかに表情が緩んだ。
「早いな」
「ちょっとだけな」
悠誠といつも通りに言葉を交わすだけで、胸の奥が落ち着く。
週に一度、ゆっくり会える日。その最初の数分が、もう特別だった。
ホームに降りると、新快速はすでに入線していた。扉の前には人が集まり、座れる気配はない。
分かっていたことだが、智輝は一瞬だけ車内を見渡してから、悠誠を見る。
「混んでるな」
「せやな。まあ、土曜やし」
そう言いながらも、悠誠は自然に智輝の立つ位置を人の少ない方へ誘導した。
ドアの脇、手すりの近く。完全に空いてはいないが、流れに押されにくい場所だ。
発車のベルが鳴り、電車が動き出す。加速の瞬間、車体がわずかに揺れた。
つり革を掴もうとした智輝の肩に、隣から圧がかかる。
「……っ」
踏ん張るより早く、悠誠の腕が伸びた。
智輝の背中に手のひらが添えられ、壁際へと引き寄せられる。
「大丈夫か」
「うん」
大丈夫、と答えながら、心臓の音が少し速くなる。
混んでいるから。揺れるから。理由はいくらでもある。そのどれもが、今は都合がよかった。
電車が速度を上げるにつれて、揺れは規則的になる。体を支えるため、二人の距離は自然と縮まった。
肩が触れ、腕が触れ、逃げ場のない近さになる。
「新快速、相変わらずやな」
「まあまあ揺れるな」
会話は他愛ない。それでも、声が近い。
悠誠が少し身をかがめて話すたび、智輝の耳元に息がかかる。
「座れへんと思ってたけど」
「立つんも、悪くないな」
悠誠がそう言って、ほんの少しだけ距離を詰める。
それは支えるための動きで、抱き寄せるほどではない。でも、守る意識がはっきりと伝わってくる位置だった。
「疲れたら言えよ」
「まだ平気」
平気、と言いながら、智輝は自分が悠誠の存在に寄りかかっていることを自覚していた。
揺れのたびに、無意識に力を預けてしまう。拒む理由はなかった。
車窓の景色が流れていく。
京都の街並みが後ろに遠ざかり、次第に見慣れない風景に変わっていく。
「大阪、久しぶりやな」
「俺は遠足で大阪城行ったくらいやけどな」
その言葉に、悠誠が小さく笑う。
「遠足。懐かしいな。」
智輝は頷いた。
ただ出かけるのではない。わざわざ行くと決めた場所がある。その事実が、電車の揺れ以上に、胸の内を落ち着かせていた。
次の揺れで、智輝の体がわずかに傾く。
今度は何も言わずに、悠誠の肩に触れたまま、体勢を整える。離れようとは思わなかった。
混んでいる。揺れる。だから近い。
その単純な理由が、今日はやけに心地よかった。
電車は一定の速度で走り続ける。目的地に向かって、二人を乗せたまま。
天保山に着いたとき、空はまだ明るさを残していた。
潮の匂いがわずかに混じった風が吹き抜けて、智輝は思わず息を吸い込む。京都とは違う。そう思うだけで、胸の奥が少し浮き立った。
「思ったより、早かったな」
「うん。ええ時間やと思う」
悠誠は歩きながらスマホを取り出し、画面を確認する。立ち止まることなく、そのまま入口へ向かった。
「チケット、もうあるから」
「……もう?」
「昨日の夜に取っといた」
さらっと言うその口調に、智輝は一瞬、足を止めかける。
計画を立てるのが得意なわけでも、段取りを見せびらかすわけでもない。
ただ、当日を滞りなく進めたいという意識が、当たり前のようにそこにある。
「さすがやな」
「並ぶん、嫌いやろ」
図星だった。
人の列に長く並ぶと、それだけで疲れてしまう。そういう智輝の性質を、悠誠は説明されなくても把握している。
入口を抜けると、照明が落ち、空気の温度が少し変わった。
外のざわめきが遠のき、代わりに低く反響する水音が耳に届く。
視界がゆっくりと暗さに慣れていくにつれて、気持ちも自然と落ち着いていくのが分かった。
「静かやな」
「せやな」
声を潜める必要はないのに、二人とも自然と小さな声になる。
通路は広く、人も多いはずなのに、騒がしさは感じなかった。
大きな水槽の前で、智輝は足を止める。
青い光の中を、ゆっくりと魚が泳いでいく。その動きを目で追っていると、時間の流れが少し遅くなったような錯覚に陥る。
「……ええな」
「やろ」
悠誠は隣に立ち、同じ方向を見る。
解説を始めるでもなく、急かすでもなく、ただ並んで立っている。その距離が、電車の中よりもずっと自然に感じられた。
暗がりの中では、表情がはっきりとは見えない。でも、肩の位置や呼吸のリズムで、隣にいることが分かる。
「京都のとは、やっぱ違うな」
「規模も、空気もな」
わざわざ来た意味が、静かに染みてくる。
近いから行く場所ではなく、今日のために選んだ場所。
その選択が、ここに立っているだけで正しかったと分かる。
智輝はもう一度、水槽を見上げた。
青い光が反射して、天井まで揺れている。
「来てよかった」
そう言うと、悠誠は一拍置いてから、短く答えた。
「せやろ」
その声には、満足と安心が混じっていた。
新生活が始まって、忙しさに追われる日々の中で、こうして並んで同じものを見る時間が、確かにここにある。
智輝は歩き出しながら、次にどんな景色が待っているのかを思った。
まだ昼と夜のあいだ。
この先に、観覧車が待っている。
そのことを意識しただけで、胸の奥が少し温かくなった。
通路を進むにつれて、水槽の配置が少しずつ変わっていく。
智輝は足を止める頻度が増え、気づけば悠誠より半歩前を歩いていた。急いでいるわけではない。
ただ、目に入るものすべてを逃したくない、という歩き方だった。
「ここさ」
不意に、智輝が声を弾ませる。
「俺、こういうとこめっちゃ好きやねん」
振り返った顔は、さっきまでの落ち着いた表情とは少し違っていた。
目がわずかに見開かれていて、言葉を選ぶ前に気持ちが先に出てしまったような顔をしている。
「……珍しいな」
「やろ」
智輝は少し照れたように笑ってから、また水槽に視線を戻す。
「『あつ森』やってるって言うたやん」
「うん」
悠誠は頷きながら、智輝の隣に立つ。
話が長くなりそうだと分かっても、遮る気はなかった。
「俺の島の博物館な、もう全部コンプリートしてて」
「全部?」
「全部。化石も、虫も、魚も」
言い切る声に、少し誇らしさが混じる。
智輝は自分でも気づいているのか、いないのか、そのまま話を続けた。
「特に水族館のとこが好きでさ」
「分かる気する」
「ほんま? あそこ、時間気にせんとずっと見てられるやん」
現実の水槽を前にしながら、智輝はゲームの中の風景を思い出しているらしかった。
視線の動きが、どこか懐かしむようにゆっくりしている。
「夜にさ、博物館入って」
「うん」
「音楽流れてて」
「うん」
「何も考えんと見てるんが、めっちゃ落ち着くねん」
言葉が途切れるたびに、智輝は水の揺れを見る。
自分の「好き」を説明することに、珍しく躊躇がなかった。
「……こういう水族館来たら」
智輝は少しだけ声を落とす。
「ゲームの中のやつ、思い出すねん」
悠誠は何も言わずに、その横顔を見ていた。
楽しそうに話す智輝を見るのは久しぶりだった。遠慮も、気遣いもなく、好きなものを好きだと言っている。
「かわええな」
思わず、そう零れる。
「え?」
「いや」
悠誠は目を逸らし、もう一度水槽の方を見る。
「そんなテンション高いん、初めて見た」
「……そう?」
智輝は一瞬きょとんとしたあと、少しだけ耳元を赤くした。
「好きなもんの話してるだけやって」
「それがや」
悠誠の声は柔らかかった。
忙しさの中で、余裕を見せることの多い智輝が、今はただ楽しんでいる。その姿が、無防備で、守りたいものに見えてしまう。
智輝はまた水槽に向き直り、しばらく黙って眺める。
青い光が、頬に淡く反射している。
「……連れてきてくれて、ありがとう」
小さな声だった。
「こっちこそ」
悠誠はそう答えた。
わざわざ来た場所で、
わざわざ時間を使って、
智輝がこんな顔をするなら。
それだけで、この一日はもう、十分すぎるほど報われていた。
展示をひと通り見終えて、出口に近づくにつれて、照明が少しずつ明るくなる。
水音が遠のき、代わりに人の声と足音が混じり始めた。現実に戻ってくる感覚に、智輝は一瞬だけ名残惜しさを覚える。
「楽しかったな」
「うん」
そのまま流れるように、土産物の並ぶスペースに入った。
カラフルなグッズが棚いっぱいに並び、小さな子どもが走り回っている。さっきまでの静けさとは別の賑やかさだった。
「見る?」
「見る」
智輝は素直にそう答えて、棚の間をゆっくり歩き出す。
キーホルダー、ポストカード、ぬいぐるみ。どれも「ここに来た証」みたいな顔をして並んでいる。
小さなぬいぐるみの列の前で、智輝の足が止まった。
手のひらに収まるくらいの大きさのカメが、いくつも並んでいる。色も表情も微妙に違っていて、どれも妙に愛嬌があった。
「……かわいいな」
思わず、声が漏れる。
智輝は一つ手に取って、軽く指で押す。柔らかくて、すぐに元の形に戻る感触が楽しいらしい。
悠誠は少し離れたところから、その様子を見ていた。
さっき水槽の前で見た顔と、同じだった。
好きなものを前にして、警戒がほどけている顔。
「それ、ええやん」
「うん。ちっちゃいし」
智輝はそう言って棚に戻しかけて、少しだけ迷うような動きをした。
欲しい、と言うほどでもない。でも、手放すのも惜しい。その微妙な間だった。
悠誠は何も言わずに、同じ棚に近づく。
智輝が触っていたのと、よく似たカメを一つ取ると、値札を確かめてから、レジの方へ目を向けた。
「記念に」
短く言う。
「え?」
「今日のな」
言い方は軽いのに、意味はちゃんと伝わる。
思い出を形にする、という選択を、悠誠は自然にしていた。
「……ええん?」
「ええよ」
即答だった。
「鍵とかにつけといたら」
「なくしたらあかんやつやん」
「せやからや」
智輝は一瞬、言葉に詰まってから、小さく笑った。
「大事にするわ」
「それでええ」
会計を済ませて戻ってきた悠誠から、キーホルダーを受け取る。
カメは思ったよりも軽くて、手の中で少し頼りなかった。でも、その軽さが、今日一日の余韻みたいに感じられた。
「こういうの、初めてもらった」
「ほんま?」
「うん」
智輝は指先で金具をいじりながら、何度もカメを見下ろす。
「見るたび、思い出すやろ」
「……うん」
水族館の青い光。
楽しそうに話してしまった自分。
それを隣で見ていた悠誠の視線。
その全部が、この小さなカメに詰まっている気がした。
「次は、観覧車やな」
「やな」
智輝はキーホルダーをそっとカバンにしまう。
なくさないように、でも、すぐに取り出せる場所に。
今日という一日が、ちゃんと続いていく気がしていた。
外に出ると、空はすっかり夕方の色に変わっていた。
人の流れに乗って歩き、どこで食べるかを迷うこともなく、自然に一度腰を落ち着ける。
詳しい話をするほどの時間は取らず、空腹を満たすための食事だった。
それでも、向かい合って同じものを食べるだけで、昼から続いていた一日がきちんと区切られた気がした。
店を出た頃には、あたりに灯りが増えている。
観覧車の光が遠くからでもはっきりと見えて、智輝は思わず足を止めた。
「あれやな」
「せやな」
昼とは違う空気が流れていた。
少し冷たくなった風が、海の匂いを運んでくる。人の数はまだ多いが、ざわめきは昼ほど騒がしくない。
智輝はカバンの中の小さな重みを確かめる。
さっき買ってもらったカメのキーホルダーが、ちゃんとそこにあった。
「行こか」
悠誠がそう言って、歩き出す。
並んで進むその背中を見ながら、智輝は思った。
今日は、まだ終わっていない。
夜の観覧車が、すぐそこまで来ていた。
ゴンドラに乗り込むと、悠誠は迷いなく隣に腰を下ろした。
向かい合うには広すぎる箱の中で、わざわざ距離を取る理由がなかった。
扉が閉まり、機械音と一緒に観覧車が動き出す。
座席の揺れに身を任せながら、智輝は窓の外を見た。夜の光が、思っていたより近い。
そのとき、指先にぬくもりが触れた。
悠誠の手だった。
確かめるように触れてから、自然に指を絡めてくる。
「……なに」
小さく言うと、悠誠は智輝を見つめて答えた。
「ええやん」
それだけ。
握る力は強くない。
逃げられないようにするでもなく、引き寄せるわけでもない。
ただ、そこにあることを確かめるみたいな手つきだった。
智輝は抵抗しなかった。
理由は分かっている。久しぶりに、こうしてゆっくり一緒にいられるからだ。
ゴンドラが高度を上げていくにつれて、外の景色が遠ざかる。
代わりに、隣の気配がはっきりしてくる。
「楽しいな」
悠誠が、独り言みたいに言った。
「うん」
智輝が返すと、悠誠は少し考えてから続けた。
「今日な、久しぶりに、時間のこと気にせんでおれる」
それ以上、続けなかったけれど、何を言いたいのかは分かった。
新生活が始まって、忙しくなって、それでもちゃんと取れた一日。
浮かれているのは、智輝だけじゃない。
頂上に近づくころ、観覧車の動きが緩やかになる。
夜の空気が、昼の名残をすっかり押し流して、冷たさだけを残していた。
「寒ない?」
そう言いながら、悠誠は絡めた手をほどかず、少しだけ体を寄せてくる。
そのまま、もう片方の手が動いた。
智輝の耳の後ろに、指先が触れる。
意味を持たせるほどでもない。
ただ、髪の生え際をなぞって、位置を確かめるような触れ方。
「……っ」
声にならない反応に、悠誠は一瞬だけ視線を向ける。
からかうようでも、狙っているようでもない。
ただ、可愛いものを見てしまった、という顔だった。
何も言わず、でも指は離れなかった。
智輝は首を振る。
嫌じゃない、という意思表示だった。
ゴンドラは、ちょうど頂点に差しかかっていた。
夜景が、窓いっぱいに広がる。
悠誠が、少しだけ身を屈める。
確認するみたいに、智輝の目を見る。
キスをされた。
唇が、確かめるみたいに重なる触れ方。
指は絡めたままだった。
「……王道やな。」
智輝が言うと、
「せやな」
悠誠は素直に認めて、少し照れたように笑った。
観覧車は、ゆっくりと下降を始める。
冷たい夜の空気の中で、二人の手だけが、まだ温かかった。
観覧車を降りると、足元が少しふわついた感覚が残っていた。
夜の空気はまだ冷たく、建物の影を抜けるたびに、潮の匂いが濃くなる。
「こっち」
悠誠が、当然みたいに進路を変える。
人の流れから少し外れた先に、海沿いの通路があった。
視界が急に開けて、街灯の光が水面に細く伸びている。
「……海、見えるな」
「せやろ」
ベンチというほどでもない、低い縁に並んで腰を下ろす。
真正面に広がるのは、暗い海だった。波は穏やかで、音も小さい。観光地のはずなのに、今は驚くほど静かだった。
智輝はコートの前を軽く押さえながら、息を吸う。
昼間のにぎやかさとは別の、夜の匂いがした。
「京都市内やと、海ないもんな」
「うん。川はあるけど」
言葉はそれだけで十分だった。
並んで、同じ方向を見る。手は自然に触れ合っていて、離す理由もなかった。
「……ほんまはな」
悠誠が、少しだけ声を落とす。
「今日は、もう帰ろって思ってた」
智輝は頷く。
帰らなければならない。明日も、いつもの日常がある。
楽しいからこそ、切り上げる必要があることも分かっている。
「せやから」
「10分くらいで」
「うん」
短い時間だからこそ、意識が集中する。
風の冷たさ。水面の揺れ。隣の体温。
「ゴールデンウィークさ」
不意に、悠誠が言った。
「一日だけ、空けられそうで」
「え?」
智輝が顔を向けると、悠誠は海を見たまま続ける。
「今日みたいに、時間気にせんで」
「……」
「ちゃんと、海見に行かへん?」
場所は言わなかった。
でも、「今日の続き」だということは、はっきり分かった。
「ええん?」
「うん」
それだけで、智輝の胸の奥が熱くなる。
一日まるごと、という言葉の重みが、静かに沁みた。
「約束な」
「約束」
観覧車よりも高い場所じゃない。
派手な夜景でもない。
それでも、この海を一緒に見た記憶が、確かに残る。
「そろそろ、帰ろか」
「うん」
立ち上がる前に、もう一度だけ海を見る。
大阪の海は、思っていたより近くて、思っていたより静かだった。
今日の終わりと、
次の約束を、ちゃんと繋げられるくらいには。
朝は決まった時間に目が覚めるのに、講義が終わったあとの時間が、想像していたよりも長く、手持ち無沙汰なのに落ち着かなかった。
空いた時間ができるほど、今日は会えるのか会えないのかが気になって、無意識に時計を見てしまう。
図書館と中庭と購買を意味もなく往復してしまう。院に進むと決めてから、読む本だけは増えた。
それでも、頭は落ち着かず、意識のどこかがずっと時計を気にしていた。今日は何時に会えるのか、会えないのか。
そう考えてしまう自分を、智輝はまだうまく制御できていなかった。
昼過ぎの講義が終わると、智輝は自然とスマホを確認していた。通知は来ていない。
それでも画面を閉じきれず、しばらく手の中で重さを確かめてから鞄に戻す。今日は会えないかもしれない、と頭では理解している。
昨日の夜、悠誠は「昼は詰まってる」と言っていたし、夕方もバイトが入っているはずだった。それでも、もしかしたら、という期待が消えきらない。
期待してはいけない理由はないのに、期待してしまう自分を、どこかで戒めている。
構内を歩きながら、智輝は人の流れをぼんやりと眺めた。新入生の姿が多く、知らない顔ばかりが行き交う。
春の空気は柔らかいのに、自分だけが取り残されたような感覚があった。部室があった頃は、講義の合間に立ち寄る場所があり、悠誠と顔を合わせる前提があった。
今は、その前提がない。だからこそ、自分で選んだはずの静かな時間が、思った以上に輪郭を持って迫ってくる。
購買の前を通り過ぎたところで、ポケットの中でスマホが震えた。取り出すと、短い通知が表示されている。
〈今、少しだけいける〉
それだけだったが、智輝の足はすぐに止まった。胸の奥が軽くなるのを感じながら、〈どこ?〉と打ち返す。返事は早かった。
〈南門〉
南門までの道を、智輝は無意識に早足で進んだ。走るほどではないが、立ち止まる理由もなかった。
約束の時間でも、ゆっくり会える日でもない。ただ「少しだけ」の再会。それでも、その言葉だけで十分だった。
門の手前で、智輝は悠誠の姿を見つけた。肩にかけた鞄はいつもより重そうで、背中がわずかに丸まっている。
スマホを操作しながら立っていた悠誠が顔を上げ、智輝に気づくと、小さく手を振った。
「来てくれたんや」
「うん。今、終わったとこ」
言葉を交わしながら、二人は門の脇に移動する。通行の邪魔にならない位置で立ち止まると、自然と距離が縮まった。
時間は限られていると分かっているから、余計な動きはしない。
「昼、ほんまにバタバタでさ」
「そやろな」
悠誠の声は落ち着いていたが、よく見ると目の奥に疲れが滲んでいる。
智輝はそれに気づいても、指摘はしなかった。言葉にした瞬間、それが問題になってしまう気がしたからだ。
「思ってたよりな」
一拍置いて、悠誠が続ける。
「大変やなって、思うわ」
それは愚痴とも弱音とも言えない、事実の確認のような言い方だった。
「しんどい」とは言わない。その代わりに、現状を静かに受け止めている響きがあった。
「でも」
悠誠は一度言葉を切り、智輝を見る。
「会えるやろ。こうやって」
その視線には、無理に笑おうとする気配はなかった。
「それあるから、頑張れる」
短く、言い切るように言ってから、悠誠は少しだけ肩の力を抜いた。
その瞬間、智輝の胸の奥が熱くなった。嬉しい、という感情が真っ先に浮かぶ。そのことに、自分で少し驚く。
悠誠の負担になりたくないと思っていたはずなのに、「自分が理由になっている」ことが、こんなにも素直に嬉しい。
「……そっか」
智輝はそれだけ返した。余計な言葉を足すと、この感情が重くなってしまう気がしたからだ。
悠誠はスマホを確認し、時間を確かめる。
「そろそろ行かなあかん」
「うん」
別れ際、ほんの一瞬だけ、指先が触れた。触れただけで、離れるのが惜しいと分かってしまう。
悠誠が歩き出すのを見送りながら、智輝は自分の胸の内を確かめていた。忙しいのは事実で、大変なのも本当だ。
それでも、会える時間を選んでくれている。その選択が、言葉よりも強く伝わってくる。
大丈夫だと思った。簡単ではないけれど、壊れる気配もない。
次の講義まで少し時間がある。智輝は、その教室へ足を向けた。
新しい生活は始まったばかりで、まだ輪郭が定まらない。それでも、支え合う場所だけは、もう決まっている。
新学期が始まってから、二人のLINEは毎晩、同じ話題に戻ってきていた。
「週末、どこ行く?」
その一言から始まるやり取りは、すぐに結論が出ることはなく、候補だけが少しずつ増えては消えていく。
悠誠は講義とバイトの合間に返信を返し、智輝は夜、ベッドに横になりながらその返事を待った。
忙しい日々の中で、こうして時間をかけて話すこと自体が、もう特別だった。
〈智輝:あんまりバタバタせんとこ〉
〈悠誠:うん〉
〈悠誠:ゆっくりできるとこがええな〉
新生活が始まって、二人とも自分の余力を正確に把握するようになっていた。
楽しいかどうかより、無理がないかどうか。それを前提に話が進むのは、自然な流れだった。
〈悠誠:そういえば〉
(少し間を置いて、悠誠からメッセージが届く。)
〈悠誠:俺ら、王道デートってあんまりしてへんよな〉
智輝はその文を読み返し、静かに頷いた。
散歩、喫茶店、静かな場所。
二人で過ごした時間は多いけれど、「これぞ王道」と言われるものを、意識して選んだ覚えはなかった。
〈智輝:水族館とか?〉
送信してから、智輝は少し考えた。
京都水族館なら、思い立ったらすぐ行ける。講義の後でも、空き時間でも行ける場所だ。
それを分かったうえで、あえて提案している自分に気づく。
〈智輝:京都のでもええけど〉
〈智輝:せっかくやし〉
〈智輝:遠出するんも、たまには〉
返事はすぐに来た。
〈悠誠:それやな〉
〈悠誠:近いと、いつでも行けるって思ってまう〉
〈悠誠:今回は〉
〈悠誠:ちゃんと時間取った感ほしい〉
その言葉に、智輝は小さく笑った。
「特別にする」という意識が、二人の間で自然に共有されている。
〈智輝:ほな、海遊館?〉
〈智輝:大阪の〉
送信したあと、否定される可能性を一瞬だけ考えた。
でも、その心配はすぐに消える。
〈悠誠:ええやん〉
〈悠誠:前から言うてたやろ〉
〈悠誠:一回ちゃんと行きたいって〉
画面を見つめながら、智輝は胸の奥がじんわり温かくなるのを感じた。
何気ない会話の中で、相手の言葉を覚えていてくれる。その事実が、忙しさの中で確かな支えになる。
〈悠誠:夜までおれる?〉
〈智輝:うん〉
〈悠誠:ほな〉
〈悠誠:観覧車も行こ〉
水族館と観覧車。
分かりやすくて、少し照れくさいくらいの王道。それを「今さら」と思わず、「今だから」と選べることが、今の二人らしかった。
〈智輝:夜のやつやんな〉
〈悠誠:せや〉
〈悠誠:きれいやで〉
きれい、という言葉が、景色だけを指していないのは分かっていた。
時間を取って、距離を越えて、一緒に見る夜。その全部が含まれている。
〈智輝:楽しみやな〉
〈悠誠:俺も〉
智輝はスマホを置き、天井を見つめる。新生活は慌ただしくて、余裕は少ない。
それでも、その中に「特別な一日」がきちんと組み込まれている。
近いから行く場所ではなく、
わざわざ行く場所を選んだ。
その事実が、今の二人の関係を静かに支えていた。
待ち合わせは京都駅の改札前だった。
人の流れが途切れない場所で、智輝は立ち止まり、電光掲示板を一度だけ確認する。
大阪方面行きの新快速は、いつも通りの表示だった。発車まで、まだ少し時間がある。早すぎも遅すぎもしない、ちょうどいい到着だった。
改札を抜けてくる人の中に、見慣れた姿を見つけるのは難しくなかった。
悠誠は人混みの中でも背が高く、歩き方に迷いがない。目が合うと、わずかに表情が緩んだ。
「早いな」
「ちょっとだけな」
悠誠といつも通りに言葉を交わすだけで、胸の奥が落ち着く。
週に一度、ゆっくり会える日。その最初の数分が、もう特別だった。
ホームに降りると、新快速はすでに入線していた。扉の前には人が集まり、座れる気配はない。
分かっていたことだが、智輝は一瞬だけ車内を見渡してから、悠誠を見る。
「混んでるな」
「せやな。まあ、土曜やし」
そう言いながらも、悠誠は自然に智輝の立つ位置を人の少ない方へ誘導した。
ドアの脇、手すりの近く。完全に空いてはいないが、流れに押されにくい場所だ。
発車のベルが鳴り、電車が動き出す。加速の瞬間、車体がわずかに揺れた。
つり革を掴もうとした智輝の肩に、隣から圧がかかる。
「……っ」
踏ん張るより早く、悠誠の腕が伸びた。
智輝の背中に手のひらが添えられ、壁際へと引き寄せられる。
「大丈夫か」
「うん」
大丈夫、と答えながら、心臓の音が少し速くなる。
混んでいるから。揺れるから。理由はいくらでもある。そのどれもが、今は都合がよかった。
電車が速度を上げるにつれて、揺れは規則的になる。体を支えるため、二人の距離は自然と縮まった。
肩が触れ、腕が触れ、逃げ場のない近さになる。
「新快速、相変わらずやな」
「まあまあ揺れるな」
会話は他愛ない。それでも、声が近い。
悠誠が少し身をかがめて話すたび、智輝の耳元に息がかかる。
「座れへんと思ってたけど」
「立つんも、悪くないな」
悠誠がそう言って、ほんの少しだけ距離を詰める。
それは支えるための動きで、抱き寄せるほどではない。でも、守る意識がはっきりと伝わってくる位置だった。
「疲れたら言えよ」
「まだ平気」
平気、と言いながら、智輝は自分が悠誠の存在に寄りかかっていることを自覚していた。
揺れのたびに、無意識に力を預けてしまう。拒む理由はなかった。
車窓の景色が流れていく。
京都の街並みが後ろに遠ざかり、次第に見慣れない風景に変わっていく。
「大阪、久しぶりやな」
「俺は遠足で大阪城行ったくらいやけどな」
その言葉に、悠誠が小さく笑う。
「遠足。懐かしいな。」
智輝は頷いた。
ただ出かけるのではない。わざわざ行くと決めた場所がある。その事実が、電車の揺れ以上に、胸の内を落ち着かせていた。
次の揺れで、智輝の体がわずかに傾く。
今度は何も言わずに、悠誠の肩に触れたまま、体勢を整える。離れようとは思わなかった。
混んでいる。揺れる。だから近い。
その単純な理由が、今日はやけに心地よかった。
電車は一定の速度で走り続ける。目的地に向かって、二人を乗せたまま。
天保山に着いたとき、空はまだ明るさを残していた。
潮の匂いがわずかに混じった風が吹き抜けて、智輝は思わず息を吸い込む。京都とは違う。そう思うだけで、胸の奥が少し浮き立った。
「思ったより、早かったな」
「うん。ええ時間やと思う」
悠誠は歩きながらスマホを取り出し、画面を確認する。立ち止まることなく、そのまま入口へ向かった。
「チケット、もうあるから」
「……もう?」
「昨日の夜に取っといた」
さらっと言うその口調に、智輝は一瞬、足を止めかける。
計画を立てるのが得意なわけでも、段取りを見せびらかすわけでもない。
ただ、当日を滞りなく進めたいという意識が、当たり前のようにそこにある。
「さすがやな」
「並ぶん、嫌いやろ」
図星だった。
人の列に長く並ぶと、それだけで疲れてしまう。そういう智輝の性質を、悠誠は説明されなくても把握している。
入口を抜けると、照明が落ち、空気の温度が少し変わった。
外のざわめきが遠のき、代わりに低く反響する水音が耳に届く。
視界がゆっくりと暗さに慣れていくにつれて、気持ちも自然と落ち着いていくのが分かった。
「静かやな」
「せやな」
声を潜める必要はないのに、二人とも自然と小さな声になる。
通路は広く、人も多いはずなのに、騒がしさは感じなかった。
大きな水槽の前で、智輝は足を止める。
青い光の中を、ゆっくりと魚が泳いでいく。その動きを目で追っていると、時間の流れが少し遅くなったような錯覚に陥る。
「……ええな」
「やろ」
悠誠は隣に立ち、同じ方向を見る。
解説を始めるでもなく、急かすでもなく、ただ並んで立っている。その距離が、電車の中よりもずっと自然に感じられた。
暗がりの中では、表情がはっきりとは見えない。でも、肩の位置や呼吸のリズムで、隣にいることが分かる。
「京都のとは、やっぱ違うな」
「規模も、空気もな」
わざわざ来た意味が、静かに染みてくる。
近いから行く場所ではなく、今日のために選んだ場所。
その選択が、ここに立っているだけで正しかったと分かる。
智輝はもう一度、水槽を見上げた。
青い光が反射して、天井まで揺れている。
「来てよかった」
そう言うと、悠誠は一拍置いてから、短く答えた。
「せやろ」
その声には、満足と安心が混じっていた。
新生活が始まって、忙しさに追われる日々の中で、こうして並んで同じものを見る時間が、確かにここにある。
智輝は歩き出しながら、次にどんな景色が待っているのかを思った。
まだ昼と夜のあいだ。
この先に、観覧車が待っている。
そのことを意識しただけで、胸の奥が少し温かくなった。
通路を進むにつれて、水槽の配置が少しずつ変わっていく。
智輝は足を止める頻度が増え、気づけば悠誠より半歩前を歩いていた。急いでいるわけではない。
ただ、目に入るものすべてを逃したくない、という歩き方だった。
「ここさ」
不意に、智輝が声を弾ませる。
「俺、こういうとこめっちゃ好きやねん」
振り返った顔は、さっきまでの落ち着いた表情とは少し違っていた。
目がわずかに見開かれていて、言葉を選ぶ前に気持ちが先に出てしまったような顔をしている。
「……珍しいな」
「やろ」
智輝は少し照れたように笑ってから、また水槽に視線を戻す。
「『あつ森』やってるって言うたやん」
「うん」
悠誠は頷きながら、智輝の隣に立つ。
話が長くなりそうだと分かっても、遮る気はなかった。
「俺の島の博物館な、もう全部コンプリートしてて」
「全部?」
「全部。化石も、虫も、魚も」
言い切る声に、少し誇らしさが混じる。
智輝は自分でも気づいているのか、いないのか、そのまま話を続けた。
「特に水族館のとこが好きでさ」
「分かる気する」
「ほんま? あそこ、時間気にせんとずっと見てられるやん」
現実の水槽を前にしながら、智輝はゲームの中の風景を思い出しているらしかった。
視線の動きが、どこか懐かしむようにゆっくりしている。
「夜にさ、博物館入って」
「うん」
「音楽流れてて」
「うん」
「何も考えんと見てるんが、めっちゃ落ち着くねん」
言葉が途切れるたびに、智輝は水の揺れを見る。
自分の「好き」を説明することに、珍しく躊躇がなかった。
「……こういう水族館来たら」
智輝は少しだけ声を落とす。
「ゲームの中のやつ、思い出すねん」
悠誠は何も言わずに、その横顔を見ていた。
楽しそうに話す智輝を見るのは久しぶりだった。遠慮も、気遣いもなく、好きなものを好きだと言っている。
「かわええな」
思わず、そう零れる。
「え?」
「いや」
悠誠は目を逸らし、もう一度水槽の方を見る。
「そんなテンション高いん、初めて見た」
「……そう?」
智輝は一瞬きょとんとしたあと、少しだけ耳元を赤くした。
「好きなもんの話してるだけやって」
「それがや」
悠誠の声は柔らかかった。
忙しさの中で、余裕を見せることの多い智輝が、今はただ楽しんでいる。その姿が、無防備で、守りたいものに見えてしまう。
智輝はまた水槽に向き直り、しばらく黙って眺める。
青い光が、頬に淡く反射している。
「……連れてきてくれて、ありがとう」
小さな声だった。
「こっちこそ」
悠誠はそう答えた。
わざわざ来た場所で、
わざわざ時間を使って、
智輝がこんな顔をするなら。
それだけで、この一日はもう、十分すぎるほど報われていた。
展示をひと通り見終えて、出口に近づくにつれて、照明が少しずつ明るくなる。
水音が遠のき、代わりに人の声と足音が混じり始めた。現実に戻ってくる感覚に、智輝は一瞬だけ名残惜しさを覚える。
「楽しかったな」
「うん」
そのまま流れるように、土産物の並ぶスペースに入った。
カラフルなグッズが棚いっぱいに並び、小さな子どもが走り回っている。さっきまでの静けさとは別の賑やかさだった。
「見る?」
「見る」
智輝は素直にそう答えて、棚の間をゆっくり歩き出す。
キーホルダー、ポストカード、ぬいぐるみ。どれも「ここに来た証」みたいな顔をして並んでいる。
小さなぬいぐるみの列の前で、智輝の足が止まった。
手のひらに収まるくらいの大きさのカメが、いくつも並んでいる。色も表情も微妙に違っていて、どれも妙に愛嬌があった。
「……かわいいな」
思わず、声が漏れる。
智輝は一つ手に取って、軽く指で押す。柔らかくて、すぐに元の形に戻る感触が楽しいらしい。
悠誠は少し離れたところから、その様子を見ていた。
さっき水槽の前で見た顔と、同じだった。
好きなものを前にして、警戒がほどけている顔。
「それ、ええやん」
「うん。ちっちゃいし」
智輝はそう言って棚に戻しかけて、少しだけ迷うような動きをした。
欲しい、と言うほどでもない。でも、手放すのも惜しい。その微妙な間だった。
悠誠は何も言わずに、同じ棚に近づく。
智輝が触っていたのと、よく似たカメを一つ取ると、値札を確かめてから、レジの方へ目を向けた。
「記念に」
短く言う。
「え?」
「今日のな」
言い方は軽いのに、意味はちゃんと伝わる。
思い出を形にする、という選択を、悠誠は自然にしていた。
「……ええん?」
「ええよ」
即答だった。
「鍵とかにつけといたら」
「なくしたらあかんやつやん」
「せやからや」
智輝は一瞬、言葉に詰まってから、小さく笑った。
「大事にするわ」
「それでええ」
会計を済ませて戻ってきた悠誠から、キーホルダーを受け取る。
カメは思ったよりも軽くて、手の中で少し頼りなかった。でも、その軽さが、今日一日の余韻みたいに感じられた。
「こういうの、初めてもらった」
「ほんま?」
「うん」
智輝は指先で金具をいじりながら、何度もカメを見下ろす。
「見るたび、思い出すやろ」
「……うん」
水族館の青い光。
楽しそうに話してしまった自分。
それを隣で見ていた悠誠の視線。
その全部が、この小さなカメに詰まっている気がした。
「次は、観覧車やな」
「やな」
智輝はキーホルダーをそっとカバンにしまう。
なくさないように、でも、すぐに取り出せる場所に。
今日という一日が、ちゃんと続いていく気がしていた。
外に出ると、空はすっかり夕方の色に変わっていた。
人の流れに乗って歩き、どこで食べるかを迷うこともなく、自然に一度腰を落ち着ける。
詳しい話をするほどの時間は取らず、空腹を満たすための食事だった。
それでも、向かい合って同じものを食べるだけで、昼から続いていた一日がきちんと区切られた気がした。
店を出た頃には、あたりに灯りが増えている。
観覧車の光が遠くからでもはっきりと見えて、智輝は思わず足を止めた。
「あれやな」
「せやな」
昼とは違う空気が流れていた。
少し冷たくなった風が、海の匂いを運んでくる。人の数はまだ多いが、ざわめきは昼ほど騒がしくない。
智輝はカバンの中の小さな重みを確かめる。
さっき買ってもらったカメのキーホルダーが、ちゃんとそこにあった。
「行こか」
悠誠がそう言って、歩き出す。
並んで進むその背中を見ながら、智輝は思った。
今日は、まだ終わっていない。
夜の観覧車が、すぐそこまで来ていた。
ゴンドラに乗り込むと、悠誠は迷いなく隣に腰を下ろした。
向かい合うには広すぎる箱の中で、わざわざ距離を取る理由がなかった。
扉が閉まり、機械音と一緒に観覧車が動き出す。
座席の揺れに身を任せながら、智輝は窓の外を見た。夜の光が、思っていたより近い。
そのとき、指先にぬくもりが触れた。
悠誠の手だった。
確かめるように触れてから、自然に指を絡めてくる。
「……なに」
小さく言うと、悠誠は智輝を見つめて答えた。
「ええやん」
それだけ。
握る力は強くない。
逃げられないようにするでもなく、引き寄せるわけでもない。
ただ、そこにあることを確かめるみたいな手つきだった。
智輝は抵抗しなかった。
理由は分かっている。久しぶりに、こうしてゆっくり一緒にいられるからだ。
ゴンドラが高度を上げていくにつれて、外の景色が遠ざかる。
代わりに、隣の気配がはっきりしてくる。
「楽しいな」
悠誠が、独り言みたいに言った。
「うん」
智輝が返すと、悠誠は少し考えてから続けた。
「今日な、久しぶりに、時間のこと気にせんでおれる」
それ以上、続けなかったけれど、何を言いたいのかは分かった。
新生活が始まって、忙しくなって、それでもちゃんと取れた一日。
浮かれているのは、智輝だけじゃない。
頂上に近づくころ、観覧車の動きが緩やかになる。
夜の空気が、昼の名残をすっかり押し流して、冷たさだけを残していた。
「寒ない?」
そう言いながら、悠誠は絡めた手をほどかず、少しだけ体を寄せてくる。
そのまま、もう片方の手が動いた。
智輝の耳の後ろに、指先が触れる。
意味を持たせるほどでもない。
ただ、髪の生え際をなぞって、位置を確かめるような触れ方。
「……っ」
声にならない反応に、悠誠は一瞬だけ視線を向ける。
からかうようでも、狙っているようでもない。
ただ、可愛いものを見てしまった、という顔だった。
何も言わず、でも指は離れなかった。
智輝は首を振る。
嫌じゃない、という意思表示だった。
ゴンドラは、ちょうど頂点に差しかかっていた。
夜景が、窓いっぱいに広がる。
悠誠が、少しだけ身を屈める。
確認するみたいに、智輝の目を見る。
キスをされた。
唇が、確かめるみたいに重なる触れ方。
指は絡めたままだった。
「……王道やな。」
智輝が言うと、
「せやな」
悠誠は素直に認めて、少し照れたように笑った。
観覧車は、ゆっくりと下降を始める。
冷たい夜の空気の中で、二人の手だけが、まだ温かかった。
観覧車を降りると、足元が少しふわついた感覚が残っていた。
夜の空気はまだ冷たく、建物の影を抜けるたびに、潮の匂いが濃くなる。
「こっち」
悠誠が、当然みたいに進路を変える。
人の流れから少し外れた先に、海沿いの通路があった。
視界が急に開けて、街灯の光が水面に細く伸びている。
「……海、見えるな」
「せやろ」
ベンチというほどでもない、低い縁に並んで腰を下ろす。
真正面に広がるのは、暗い海だった。波は穏やかで、音も小さい。観光地のはずなのに、今は驚くほど静かだった。
智輝はコートの前を軽く押さえながら、息を吸う。
昼間のにぎやかさとは別の、夜の匂いがした。
「京都市内やと、海ないもんな」
「うん。川はあるけど」
言葉はそれだけで十分だった。
並んで、同じ方向を見る。手は自然に触れ合っていて、離す理由もなかった。
「……ほんまはな」
悠誠が、少しだけ声を落とす。
「今日は、もう帰ろって思ってた」
智輝は頷く。
帰らなければならない。明日も、いつもの日常がある。
楽しいからこそ、切り上げる必要があることも分かっている。
「せやから」
「10分くらいで」
「うん」
短い時間だからこそ、意識が集中する。
風の冷たさ。水面の揺れ。隣の体温。
「ゴールデンウィークさ」
不意に、悠誠が言った。
「一日だけ、空けられそうで」
「え?」
智輝が顔を向けると、悠誠は海を見たまま続ける。
「今日みたいに、時間気にせんで」
「……」
「ちゃんと、海見に行かへん?」
場所は言わなかった。
でも、「今日の続き」だということは、はっきり分かった。
「ええん?」
「うん」
それだけで、智輝の胸の奥が熱くなる。
一日まるごと、という言葉の重みが、静かに沁みた。
「約束な」
「約束」
観覧車よりも高い場所じゃない。
派手な夜景でもない。
それでも、この海を一緒に見た記憶が、確かに残る。
「そろそろ、帰ろか」
「うん」
立ち上がる前に、もう一度だけ海を見る。
大阪の海は、思っていたより近くて、思っていたより静かだった。
今日の終わりと、
次の約束を、ちゃんと繋げられるくらいには。
