新年最初の講義は、思っていたよりも淡々と終わった。
正月気分が抜けきらない教室で、板書の音だけが一定のリズムで続く。
東雲はノートを閉じ、時計を見てから、ゆっくり席を立った。
悠誠とは学部が違うから、講義の終わる時間も合わない。
年が明けたからといって、それが急に変わるわけでもない。
だから、会う場所は自然と決まっていた。
SSの部室。
廊下は静かで、窓の外の空は薄く白んでいる。
冬の午後特有の、時間の輪郭が曖昧になる感じ。
東雲は足音を抑えながら、いつもの階段を上った。
部室の前まで来て、立ち止まる。
中からは、まだ気配がしない。鍵を開けて、ドアを押した。
暖房は入っていない。空気が、ひんやりと澄んでいる。
机と椅子、ホワイトボード。年が変わっても、部屋は何も変わらない。
東雲はコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。
バッグを置いて、スマホを確認する。連絡は、まだ来ていない。
(……講義、長引いてるんかな)
そう思いながら、窓際の席に腰を下ろす。
ガラス越しに、キャンパスを行き交う人の流れが見えた。
笑い声。足早な影。年明けらしい浮ついた空気が、遠くにある。
部室の中は、静かだった。
東雲は、ふと耳を澄ませる。
何かを待っている、という感覚だけが、はっきりと残っていた。
――コン、と。
廊下の向こうで、軽い足音がした。
東雲は、顔を上げる。ドアノブが回る音。
次の瞬間、扉が開いた。
「……おった」
藤宮の声だった。
その一言で、
部室の空気が、少しだけ動いた。
「講義、終わった?」
東雲がそう聞くと、藤宮はコートを脱ぎながら頷いた。
「終わった。思ったより長引いたわ」
「そっちも?」
「うん。新年一発目やのに、普通に小テストあってびびった」
「それはご愁傷さまやな」
藤宮は笑って、椅子を引いた。
いつもと同じ席。それだけで、部室の空気が落ち着く。
「正月、どうやった?」
「家にずっとおった。親戚来て、食べて、寝て」
「想像つくわ」
「悠誠は?」
「俺も似たようなもん。初詣は行ったけど」
そこまで言って、藤宮は一瞬だけ言葉を切った。
東雲は瞬きを一度、間を埋めるためにした。
「……あ、行ったな。初詣」
何でもないように答える。
東雲にとって大晦日の夜は、特別な夜になっていたが、
藤宮にとってはどうだったのか、わからないから平常を装いたかった。
「いや、なんか急に思い出した」
返事の間が短くて、声がわずかに上ずったように聞こえた。
その考えがよぎった瞬間、胸の奥の力が、すっと抜けた。
東雲は、机の上に置いたスマホを指でなぞる。
年が変わって、まだ数日しか経っていないのに、
あの夜が少し前のことみたいに感じられるのに、
悠誠の手の感触ははっきりと蘇った。
「冬休み、終わるん早いな」
東雲は少し早口で話題を変える。
「ほんまそれ。正月感、もうない」
「でも、今日から通常運転やな」
「せやな。SSも」
藤宮はホワイトボードの方を見た。
「今年、どうする?」
「どうするって?」
「活動。まあ、今まで通りやろうけど」
「……来期はどうなるかわからんけど、3月まではこのままやな。」
東雲が言うと、藤宮は頷いた。
「そうか、部員2人やもんな。」
「そう。増える気せんし」
「とりあえずは地味にやっとくか」
「地味にな。活動って言うても決まったことやってるわけちゃうし。」
言い合って、二人で少し笑う。
その間に、廊下から人の声が遠くで聞こえた。
すぐに離れていく足音。
「静かやな」
藤宮が言った。
「まだ人少ないんちゃう?」
「正月明けやしな」
藤宮はスマホを取り出して、時間を確認する。
「暖房、入れる?」
肩の当たりに寒さを感じて、東雲が聞くと藤宮は首を振った。
「んー、もうちょい我慢する」
「意外と寒さに強いな」
「その代わり、静かなとこは苦手や」
藤宮の瞳が遠くを見ているように見えた。
「へえ」
「考えすぎるから」
藤宮はそう言って、椅子に深く座り直した。
東雲は何を考えすぎるのかは聞かなかった。
それは、誰が相手でもそうしてきたからだ。
藤宮はコートを手に取りながら、話題を切り替える。
「もうすぐ定期試験始まるやろ。今日は図書館行って、そのまま帰って勉強しよ思ってんねん」
「そうやな、すぐ始まるしな。」
東雲は自分の手帳を開いて、日付を確認した。
「……あ、俺も借りなあかん専門書あったわ」
「あるやろな」
「講義中、名前だけ出てきて、内容全然覚えてへんやつ」
「それ一番やばいやつやん」
二人で小さく笑う。
「ほな、一緒に行こ」
藤宮が立ち上がった。
「借りたらそのまま帰る?」
「うん。家でやる方が集中できるし」
「分かる」
東雲も鞄を肩にかける。
「俺も借りたら帰るわ。一緒に帰ろ」
「了解」
部室の鍵を閉めて、廊下に出る。
冬の空気が、ひんやりと頬に当たった。
図書館の前は、思ったより人が多かった。
入口付近で立ち止まり、二人は自然に足を止める。
「じゃあ、外で待ち合わせな」
藤宮が言う。
「俺、借りるの早いと思う」
「俺も。借りるだけやし」
「出たとこでええ?」
「うん、そこ」
それだけ決めて、別れる。
東雲は一度だけ藤宮の背中を見てから、建物に入った。
——それほど時間はかからなかった。
先に外に出ていた藤宮が、壁にもたれてスマホを見ている。
東雲の気配に気づいて、顔を上げた。
「早かったな」
「そっちも」
「まあな」
藤宮は、東雲の持っている本に目をやる。
「それ?」
「うん。名前だけ聞いたことあるやつ」
「分かる。だいたいそうなる」
二人で並んで歩き出す。
正門の方へ向かう流れとは、少し逆だった。
「こっちから帰ろ」
藤宮が言って、進路を変える。
「近道やし」
「そっち、あんまり通らへんとこちゃう?」
「せやな。試験期間やと人少ないし」
舗装の色が変わる。
街灯の間隔が、少し広くなる。
東雲は、無意識に周囲を見回した。
「この講義棟、初めてきた。」
「俺の学部、ここ使うこと多いねん」
「へえ」
建物の影に入った途端、空気が変わった気がした。
人の気配が、急に薄くなる。
足音が、やけに響く。
「静かやな」
東雲が言うと、藤宮は軽く頷いた。
「この時間、だいたいこんなもんや」
そのときだった。
――「……智輝」
東雲は、足を止めた。
「……今、何か言うた?」
藤宮が振り返る。
「え?」
「今……俺の名前、呼ばへんかった?」
藤宮は、すぐに首を横に振った。
「いや。何も」
「……そうか」
一瞬の沈黙。
風が、建物の間を抜ける音だけがする。
「反響ちゃう?」
藤宮が言う。
「ここ、声とか音、変に残るし」
「……かもな」
そう答えながらも、
東雲は、もう一度だけ、後ろを振り返った。
誰もいない。
当然だ。
「行こ」
藤宮が、先に歩き出す。
東雲も、それについていった。
ただ、
さっき聞こえた声が、
気のせいで片づけるには、
少しだけ、近すぎた。
翌日、講義の始まる少し前、
東雲は席に着きながら、後ろの会話に耳を傾けていた。
「昨日さ、◯号館通った?」
「通ったけど?」
「いや、夜。試験前で人少ないやん」
「……ああ」
「名前呼ばれたって言うたら変?」
「は?」
「誰もおらんのに。しかも自分の名前」
東雲は、ペンを持つ手を止めた。
「それ、何時くらい?」
思わず、振り返って聞いていた。
相手は少し驚いた顔をしたが、
すぐに肩をすくめる。
「六時過ぎ。講義終わり」
「場所は?」
「渡り廊下抜けたとこの階段。◯号館側」
——昨日、通った場所と同じだった。
「……気のせいちゃう?」
別の声がそう言う。
「疲れてたんやろ」
「俺もそう思ったんやけどな」
それ以上、話は続かなかった。
講義が始まり、教室の空気が切り替わる。
だが、
東雲の意識は、ノートの上に、うまく戻らなかった。
講義が終わると、東雲は、自然な流れを装って、
昨日と同じ方向に足を向けた。
試験前のキャンパスは、やはり静かだった。
人の数も、声も、少ない。
——◯号館。
足を踏み入れると、
昨日と同じ感覚が、ふっと戻ってくる。
(……ここや)
わざと、歩く速度を落とす。耳を澄ませる。
足音。遠くのドアの音。換気の低い唸り。
——それだけ。
東雲は、小さく息を吐いた。
(……やっぱ、気のせいか)
そう思った、次の瞬間。
「……智輝」
今度は、はっきり、聞こえた。
立ち止まる。振り返る。
誰もいない。
心臓が、嫌な打ち方をする。逃げ出すほどじゃない。
でも、立ち尽くすほどには、近い声だった。
東雲は、その場を離れた。
SSの部室に着いたとき、まだ藤宮の姿はなかった。
椅子に座り、バッグを床に置く。
しばらくして、ドアが開いた。
「お疲れ」
藤宮の声だった。
「お疲れ」
東雲は、少しだけ間を置いてから言った。
「……なあ、悠誠」
「ん?」
「昨日の講義棟の話やけど」
藤宮は、椅子を引く手を止めた。
「俺な、今日も聞いた」
「……何を?」
「名前。俺の。昨日、呼んだ?って聞いたやろ。」
藤宮は、すぐには返事をしなかった。
返事はなく、視線だけがそのまま向けられていた。
「同じ場所?」
「うん。昨日と同じ」
「時間も?」
「講義終わり。人、少なかった」
藤宮は、ゆっくり息を吸う。
「……他にも?」
「講義の前に、別の人が同じこと言うてた」
東雲は講義前に聞いた話をする。
しばらくの沈黙。
藤宮は、机に肘をついて考え込む。
「条件、揃ってるな」
「条件?」
「時間帯、場所、人の少なさ。あと……」
藤宮は東雲を見る。
「試験前で、頭パンパンなとこ」
「……それで、声が聞こえる?」
「“聞こえた気がする”な」
藤宮は一拍置いてから、低い声で続きを口にした。
東雲は藤宮の言葉で、以前、講義で聞いたか、本で読んだことを思いだした。
「脳って、静かすぎると、
意味のある音を勝手に作ることあるねんて」
それを伝えると、藤宮が続ける。
「名前とか?」
「特にそう」
東雲は、机に視線を落とした。
「俺が聞いたんも……」
「可能性は高い」
藤宮の声は曖昧なままで、肯定にも否定にも寄らなかった。
「さっき、今日も名前呼ばれたって言うたな。一人で行ったん?」
「……うん」
藤宮は、それを聞いて、少しだけ眉を寄せた。
「次、行くなら一緒に行こ」
「……確認に?」
「そう、確認」
それだけ言って、藤宮は立ち上がった。
部室の空気は、昨日よりも静かだった。
講義棟の前で、二人は足を止めた。
「……ここやな」
藤宮が、小さく言う。
「うん」
東雲は頷いて、建物を見上げた。
昨日と同じ時間帯。同じ入口。
「行く?」
「行こ」
中に入ると、
すぐに昨日との違いに気づく。
誰か、いる。
奥のベンチに、ノートを広げている学生。
階段の途中で、スマホを見ている人影。
小さくページをめくる音。椅子がきしむ音。
「……人、おるな」
藤宮が言う。
「試験前やしな」
「せやな」
二人は並んで歩き出す。
足音が、二人分、重なる。
東雲は、意識して歩調を落とした。
耳を澄ます。
聞こえるのは、自分たちの足音と、遠くの物音だけ。
「……」
「……」
何も起きない。
昨日、立ち止まった場所を通り過ぎても、あの感覚は、戻ってこなかった。
「……何もないな」
藤宮が言う。
「うん」
東雲は答えながら、少し考える。
「昨日も、さっきも」
「ん?」
「ほんまに、誰もおらんかった」
「確かに」
東雲は、周囲を見回した。
「静かやけど、今日は“無音”ちゃう」
「……ああ」
藤宮は一瞬考えてから、ゆっくり頷いた。
「昨日は、静かすぎたんか」
「たぶん」
二人は階段の前で立ち止まる。
「心理の授業や、聞いたんは。」
東雲が言った。
「静かすぎると、脳って勝手に意味のある音を作るって話。」
「意味のある音?」
「自分の名前とか。一番、反応しやすいやつ」
藤宮は、眉を寄せる。
「それって……」
「錯覚やな。反響とか、換気の音とか、
はっきりせえへん音を、“呼ばれた”って補完する」
藤宮は、昨日の場所を振り返った。
「……場所のせいちゃうんや」
「うん。条件」
東雲は、少しだけ息を吐いた。
「一人で。静かすぎて。試験前で頭いっぱいで」
言いながら、
そう考えていくうちに、胸の奥のざわつきが少しずつ静まっていった。
「今日は、違う」
藤宮が言う。
「人おるし」
「音もあるし」
しばらく、二人でその場に立っていたが、
声は聞こえなかった。
「……理屈は分かったわ」
東雲が言う。
「わかっても、嫌やな」
藤宮は、即座に頷いた。
「それは分かる」
「一人では、通りたない」
「せやな」
藤宮は、歩き出しながら言った。
「帰るとき、またこっち通る?」
東雲は、一瞬迷ってから首を振った。
「……今日はやめとく」
「了解」
建物を出ると、
外の空気は、少しだけ軽かった。
理屈より先に、隣に人の気配があることだけが残った。
駅に向かうはずの足取りが、いつもより遅かった。
別に、急ぐ理由がないわけじゃない。時間は分かっている。
それでも、智輝は歩幅を詰めることができなかった。
遠回りしていることを、悠誠に先に口にされた。
「……遠回りしてる」
責める調子じゃない。確かめるみたいな声。
智輝は一瞬だけ視線を泳がせて、それから小さく頷いた。
「うん。ちょっと」
理由を続けなかったのに、悠誠はそれ以上聞かなかった。
並んで歩く距離が、そのまま保たれる。
風が強くなって、智輝は無意識に肩をすくめた。
「寒いな」
悠誠がそう言って、歩調を緩める。
その先に、自販機の明かりがあった。
「温かいの、飲も」
智輝は少し迷ってから、頷いた。
公園に入る。
ベンチには向かわず、自販機の前で立ち止まる。
缶が落ちる音。
湯気が立って、指先がじんわり温まる。
智輝は両手で缶を包んで、頬に当てた。
「あったか……」
吐いた息が白い。
悠誠も缶を持ち替えて、手を温めている。
並んで立ったまま、何も言わない時間が流れた。
さっきまで普通に話していたのに、言葉が出てこない。
智輝が顔を上げたとき、悠誠もこちらを見ていた。
距離が近い。
気づいた瞬間には、もう離れられないくらい。
悠誠が何か言いかけて、やめた。
その間に、智輝の心臓が一つ、強く鳴る。
次の瞬間、唇に触れたのは、温度だけだった。
短い。
確かめるみたいで、逃げる暇もない。
智輝は、何が起きたのか分からなくなって、
そのまま、反射的に悠誠の胸に顔を埋めた。
近い。
コート越しの体温が、さっきよりはっきり分かる。
悠誠は一瞬だけ息を詰めて、それから、しっかり腕を回した。
強めに。迷いなく。
「……ごめん」
小さな声が、頭の上から落ちる。
智輝は首を振った。
顔は上げられないまま、缶を持つ手に力を込める。
「……ううん」
それ以上、何も言わなかった。
言わなくても、分かってしまったから。
少しして、悠誠の腕が緩む。
名残惜しさが、静かに残る。
「行こか」
その声で、現実に戻る。
智輝は最後にもう一度だけ、胸に額を押しつけてから離れた。
歩き出すと、手の中の缶は、もう冷め始めていた。
それでも、胸の奥は、ずっと温かいままだった。
正月気分が抜けきらない教室で、板書の音だけが一定のリズムで続く。
東雲はノートを閉じ、時計を見てから、ゆっくり席を立った。
悠誠とは学部が違うから、講義の終わる時間も合わない。
年が明けたからといって、それが急に変わるわけでもない。
だから、会う場所は自然と決まっていた。
SSの部室。
廊下は静かで、窓の外の空は薄く白んでいる。
冬の午後特有の、時間の輪郭が曖昧になる感じ。
東雲は足音を抑えながら、いつもの階段を上った。
部室の前まで来て、立ち止まる。
中からは、まだ気配がしない。鍵を開けて、ドアを押した。
暖房は入っていない。空気が、ひんやりと澄んでいる。
机と椅子、ホワイトボード。年が変わっても、部屋は何も変わらない。
東雲はコートを脱ぎ、椅子の背にかけた。
バッグを置いて、スマホを確認する。連絡は、まだ来ていない。
(……講義、長引いてるんかな)
そう思いながら、窓際の席に腰を下ろす。
ガラス越しに、キャンパスを行き交う人の流れが見えた。
笑い声。足早な影。年明けらしい浮ついた空気が、遠くにある。
部室の中は、静かだった。
東雲は、ふと耳を澄ませる。
何かを待っている、という感覚だけが、はっきりと残っていた。
――コン、と。
廊下の向こうで、軽い足音がした。
東雲は、顔を上げる。ドアノブが回る音。
次の瞬間、扉が開いた。
「……おった」
藤宮の声だった。
その一言で、
部室の空気が、少しだけ動いた。
「講義、終わった?」
東雲がそう聞くと、藤宮はコートを脱ぎながら頷いた。
「終わった。思ったより長引いたわ」
「そっちも?」
「うん。新年一発目やのに、普通に小テストあってびびった」
「それはご愁傷さまやな」
藤宮は笑って、椅子を引いた。
いつもと同じ席。それだけで、部室の空気が落ち着く。
「正月、どうやった?」
「家にずっとおった。親戚来て、食べて、寝て」
「想像つくわ」
「悠誠は?」
「俺も似たようなもん。初詣は行ったけど」
そこまで言って、藤宮は一瞬だけ言葉を切った。
東雲は瞬きを一度、間を埋めるためにした。
「……あ、行ったな。初詣」
何でもないように答える。
東雲にとって大晦日の夜は、特別な夜になっていたが、
藤宮にとってはどうだったのか、わからないから平常を装いたかった。
「いや、なんか急に思い出した」
返事の間が短くて、声がわずかに上ずったように聞こえた。
その考えがよぎった瞬間、胸の奥の力が、すっと抜けた。
東雲は、机の上に置いたスマホを指でなぞる。
年が変わって、まだ数日しか経っていないのに、
あの夜が少し前のことみたいに感じられるのに、
悠誠の手の感触ははっきりと蘇った。
「冬休み、終わるん早いな」
東雲は少し早口で話題を変える。
「ほんまそれ。正月感、もうない」
「でも、今日から通常運転やな」
「せやな。SSも」
藤宮はホワイトボードの方を見た。
「今年、どうする?」
「どうするって?」
「活動。まあ、今まで通りやろうけど」
「……来期はどうなるかわからんけど、3月まではこのままやな。」
東雲が言うと、藤宮は頷いた。
「そうか、部員2人やもんな。」
「そう。増える気せんし」
「とりあえずは地味にやっとくか」
「地味にな。活動って言うても決まったことやってるわけちゃうし。」
言い合って、二人で少し笑う。
その間に、廊下から人の声が遠くで聞こえた。
すぐに離れていく足音。
「静かやな」
藤宮が言った。
「まだ人少ないんちゃう?」
「正月明けやしな」
藤宮はスマホを取り出して、時間を確認する。
「暖房、入れる?」
肩の当たりに寒さを感じて、東雲が聞くと藤宮は首を振った。
「んー、もうちょい我慢する」
「意外と寒さに強いな」
「その代わり、静かなとこは苦手や」
藤宮の瞳が遠くを見ているように見えた。
「へえ」
「考えすぎるから」
藤宮はそう言って、椅子に深く座り直した。
東雲は何を考えすぎるのかは聞かなかった。
それは、誰が相手でもそうしてきたからだ。
藤宮はコートを手に取りながら、話題を切り替える。
「もうすぐ定期試験始まるやろ。今日は図書館行って、そのまま帰って勉強しよ思ってんねん」
「そうやな、すぐ始まるしな。」
東雲は自分の手帳を開いて、日付を確認した。
「……あ、俺も借りなあかん専門書あったわ」
「あるやろな」
「講義中、名前だけ出てきて、内容全然覚えてへんやつ」
「それ一番やばいやつやん」
二人で小さく笑う。
「ほな、一緒に行こ」
藤宮が立ち上がった。
「借りたらそのまま帰る?」
「うん。家でやる方が集中できるし」
「分かる」
東雲も鞄を肩にかける。
「俺も借りたら帰るわ。一緒に帰ろ」
「了解」
部室の鍵を閉めて、廊下に出る。
冬の空気が、ひんやりと頬に当たった。
図書館の前は、思ったより人が多かった。
入口付近で立ち止まり、二人は自然に足を止める。
「じゃあ、外で待ち合わせな」
藤宮が言う。
「俺、借りるの早いと思う」
「俺も。借りるだけやし」
「出たとこでええ?」
「うん、そこ」
それだけ決めて、別れる。
東雲は一度だけ藤宮の背中を見てから、建物に入った。
——それほど時間はかからなかった。
先に外に出ていた藤宮が、壁にもたれてスマホを見ている。
東雲の気配に気づいて、顔を上げた。
「早かったな」
「そっちも」
「まあな」
藤宮は、東雲の持っている本に目をやる。
「それ?」
「うん。名前だけ聞いたことあるやつ」
「分かる。だいたいそうなる」
二人で並んで歩き出す。
正門の方へ向かう流れとは、少し逆だった。
「こっちから帰ろ」
藤宮が言って、進路を変える。
「近道やし」
「そっち、あんまり通らへんとこちゃう?」
「せやな。試験期間やと人少ないし」
舗装の色が変わる。
街灯の間隔が、少し広くなる。
東雲は、無意識に周囲を見回した。
「この講義棟、初めてきた。」
「俺の学部、ここ使うこと多いねん」
「へえ」
建物の影に入った途端、空気が変わった気がした。
人の気配が、急に薄くなる。
足音が、やけに響く。
「静かやな」
東雲が言うと、藤宮は軽く頷いた。
「この時間、だいたいこんなもんや」
そのときだった。
――「……智輝」
東雲は、足を止めた。
「……今、何か言うた?」
藤宮が振り返る。
「え?」
「今……俺の名前、呼ばへんかった?」
藤宮は、すぐに首を横に振った。
「いや。何も」
「……そうか」
一瞬の沈黙。
風が、建物の間を抜ける音だけがする。
「反響ちゃう?」
藤宮が言う。
「ここ、声とか音、変に残るし」
「……かもな」
そう答えながらも、
東雲は、もう一度だけ、後ろを振り返った。
誰もいない。
当然だ。
「行こ」
藤宮が、先に歩き出す。
東雲も、それについていった。
ただ、
さっき聞こえた声が、
気のせいで片づけるには、
少しだけ、近すぎた。
翌日、講義の始まる少し前、
東雲は席に着きながら、後ろの会話に耳を傾けていた。
「昨日さ、◯号館通った?」
「通ったけど?」
「いや、夜。試験前で人少ないやん」
「……ああ」
「名前呼ばれたって言うたら変?」
「は?」
「誰もおらんのに。しかも自分の名前」
東雲は、ペンを持つ手を止めた。
「それ、何時くらい?」
思わず、振り返って聞いていた。
相手は少し驚いた顔をしたが、
すぐに肩をすくめる。
「六時過ぎ。講義終わり」
「場所は?」
「渡り廊下抜けたとこの階段。◯号館側」
——昨日、通った場所と同じだった。
「……気のせいちゃう?」
別の声がそう言う。
「疲れてたんやろ」
「俺もそう思ったんやけどな」
それ以上、話は続かなかった。
講義が始まり、教室の空気が切り替わる。
だが、
東雲の意識は、ノートの上に、うまく戻らなかった。
講義が終わると、東雲は、自然な流れを装って、
昨日と同じ方向に足を向けた。
試験前のキャンパスは、やはり静かだった。
人の数も、声も、少ない。
——◯号館。
足を踏み入れると、
昨日と同じ感覚が、ふっと戻ってくる。
(……ここや)
わざと、歩く速度を落とす。耳を澄ませる。
足音。遠くのドアの音。換気の低い唸り。
——それだけ。
東雲は、小さく息を吐いた。
(……やっぱ、気のせいか)
そう思った、次の瞬間。
「……智輝」
今度は、はっきり、聞こえた。
立ち止まる。振り返る。
誰もいない。
心臓が、嫌な打ち方をする。逃げ出すほどじゃない。
でも、立ち尽くすほどには、近い声だった。
東雲は、その場を離れた。
SSの部室に着いたとき、まだ藤宮の姿はなかった。
椅子に座り、バッグを床に置く。
しばらくして、ドアが開いた。
「お疲れ」
藤宮の声だった。
「お疲れ」
東雲は、少しだけ間を置いてから言った。
「……なあ、悠誠」
「ん?」
「昨日の講義棟の話やけど」
藤宮は、椅子を引く手を止めた。
「俺な、今日も聞いた」
「……何を?」
「名前。俺の。昨日、呼んだ?って聞いたやろ。」
藤宮は、すぐには返事をしなかった。
返事はなく、視線だけがそのまま向けられていた。
「同じ場所?」
「うん。昨日と同じ」
「時間も?」
「講義終わり。人、少なかった」
藤宮は、ゆっくり息を吸う。
「……他にも?」
「講義の前に、別の人が同じこと言うてた」
東雲は講義前に聞いた話をする。
しばらくの沈黙。
藤宮は、机に肘をついて考え込む。
「条件、揃ってるな」
「条件?」
「時間帯、場所、人の少なさ。あと……」
藤宮は東雲を見る。
「試験前で、頭パンパンなとこ」
「……それで、声が聞こえる?」
「“聞こえた気がする”な」
藤宮は一拍置いてから、低い声で続きを口にした。
東雲は藤宮の言葉で、以前、講義で聞いたか、本で読んだことを思いだした。
「脳って、静かすぎると、
意味のある音を勝手に作ることあるねんて」
それを伝えると、藤宮が続ける。
「名前とか?」
「特にそう」
東雲は、机に視線を落とした。
「俺が聞いたんも……」
「可能性は高い」
藤宮の声は曖昧なままで、肯定にも否定にも寄らなかった。
「さっき、今日も名前呼ばれたって言うたな。一人で行ったん?」
「……うん」
藤宮は、それを聞いて、少しだけ眉を寄せた。
「次、行くなら一緒に行こ」
「……確認に?」
「そう、確認」
それだけ言って、藤宮は立ち上がった。
部室の空気は、昨日よりも静かだった。
講義棟の前で、二人は足を止めた。
「……ここやな」
藤宮が、小さく言う。
「うん」
東雲は頷いて、建物を見上げた。
昨日と同じ時間帯。同じ入口。
「行く?」
「行こ」
中に入ると、
すぐに昨日との違いに気づく。
誰か、いる。
奥のベンチに、ノートを広げている学生。
階段の途中で、スマホを見ている人影。
小さくページをめくる音。椅子がきしむ音。
「……人、おるな」
藤宮が言う。
「試験前やしな」
「せやな」
二人は並んで歩き出す。
足音が、二人分、重なる。
東雲は、意識して歩調を落とした。
耳を澄ます。
聞こえるのは、自分たちの足音と、遠くの物音だけ。
「……」
「……」
何も起きない。
昨日、立ち止まった場所を通り過ぎても、あの感覚は、戻ってこなかった。
「……何もないな」
藤宮が言う。
「うん」
東雲は答えながら、少し考える。
「昨日も、さっきも」
「ん?」
「ほんまに、誰もおらんかった」
「確かに」
東雲は、周囲を見回した。
「静かやけど、今日は“無音”ちゃう」
「……ああ」
藤宮は一瞬考えてから、ゆっくり頷いた。
「昨日は、静かすぎたんか」
「たぶん」
二人は階段の前で立ち止まる。
「心理の授業や、聞いたんは。」
東雲が言った。
「静かすぎると、脳って勝手に意味のある音を作るって話。」
「意味のある音?」
「自分の名前とか。一番、反応しやすいやつ」
藤宮は、眉を寄せる。
「それって……」
「錯覚やな。反響とか、換気の音とか、
はっきりせえへん音を、“呼ばれた”って補完する」
藤宮は、昨日の場所を振り返った。
「……場所のせいちゃうんや」
「うん。条件」
東雲は、少しだけ息を吐いた。
「一人で。静かすぎて。試験前で頭いっぱいで」
言いながら、
そう考えていくうちに、胸の奥のざわつきが少しずつ静まっていった。
「今日は、違う」
藤宮が言う。
「人おるし」
「音もあるし」
しばらく、二人でその場に立っていたが、
声は聞こえなかった。
「……理屈は分かったわ」
東雲が言う。
「わかっても、嫌やな」
藤宮は、即座に頷いた。
「それは分かる」
「一人では、通りたない」
「せやな」
藤宮は、歩き出しながら言った。
「帰るとき、またこっち通る?」
東雲は、一瞬迷ってから首を振った。
「……今日はやめとく」
「了解」
建物を出ると、
外の空気は、少しだけ軽かった。
理屈より先に、隣に人の気配があることだけが残った。
駅に向かうはずの足取りが、いつもより遅かった。
別に、急ぐ理由がないわけじゃない。時間は分かっている。
それでも、智輝は歩幅を詰めることができなかった。
遠回りしていることを、悠誠に先に口にされた。
「……遠回りしてる」
責める調子じゃない。確かめるみたいな声。
智輝は一瞬だけ視線を泳がせて、それから小さく頷いた。
「うん。ちょっと」
理由を続けなかったのに、悠誠はそれ以上聞かなかった。
並んで歩く距離が、そのまま保たれる。
風が強くなって、智輝は無意識に肩をすくめた。
「寒いな」
悠誠がそう言って、歩調を緩める。
その先に、自販機の明かりがあった。
「温かいの、飲も」
智輝は少し迷ってから、頷いた。
公園に入る。
ベンチには向かわず、自販機の前で立ち止まる。
缶が落ちる音。
湯気が立って、指先がじんわり温まる。
智輝は両手で缶を包んで、頬に当てた。
「あったか……」
吐いた息が白い。
悠誠も缶を持ち替えて、手を温めている。
並んで立ったまま、何も言わない時間が流れた。
さっきまで普通に話していたのに、言葉が出てこない。
智輝が顔を上げたとき、悠誠もこちらを見ていた。
距離が近い。
気づいた瞬間には、もう離れられないくらい。
悠誠が何か言いかけて、やめた。
その間に、智輝の心臓が一つ、強く鳴る。
次の瞬間、唇に触れたのは、温度だけだった。
短い。
確かめるみたいで、逃げる暇もない。
智輝は、何が起きたのか分からなくなって、
そのまま、反射的に悠誠の胸に顔を埋めた。
近い。
コート越しの体温が、さっきよりはっきり分かる。
悠誠は一瞬だけ息を詰めて、それから、しっかり腕を回した。
強めに。迷いなく。
「……ごめん」
小さな声が、頭の上から落ちる。
智輝は首を振った。
顔は上げられないまま、缶を持つ手に力を込める。
「……ううん」
それ以上、何も言わなかった。
言わなくても、分かってしまったから。
少しして、悠誠の腕が緩む。
名残惜しさが、静かに残る。
「行こか」
その声で、現実に戻る。
智輝は最後にもう一度だけ、胸に額を押しつけてから離れた。
歩き出すと、手の中の缶は、もう冷め始めていた。
それでも、胸の奥は、ずっと温かいままだった。
