藤宮は足早にその場を離れていた。
旧校舎へ向かう坂道を、振り返らずに上っていく。
夕方の光が校庭を淡く染めている。
背後に人の気配は残っていたが、足音が追ってくることはなかった。
(……ついては、来えへんよな)
胸の鼓動が落ち着かない。
今日まで何度同じことを繰り返しただろう。
複数の女の子から誘われて、断れなくて、一緒に出かけて。
それが重なって、とうとう “選んで” などと言われる始末だ。
藤宮は深く息を吐いた。
(疲れる……俺も悪いけど)
断れない。
あの時のことが頭をよぎると、どうしても。
旧校舎の裏手まで来ると、ひんやりした空気がまとわりつく。
人気がない、薄暗い廊下。夕暮れに取り残されたみたいな静けさ。
藤宮は、ゆっくり歩きながら肩の力を抜いた。
(……誰もおらん。もう大丈夫や)
ふと、目に入った。
古い木の扉。その上に掲げられた重厚な真鍮のプレート。
S.S.
Silent Society
読めはする。
だが、それ以上のことは、何も分からなかった。
(サークルの部屋か……?何の?)
逃げ込む必要はもうない。
それなのに、手が勝手に伸びていた。
静かに、扉が開く。
部屋の中には、大きな木製の書架。
壁一面に本が並び、窓際の書斎机はどこか歴史の重みをまとっていた。
そして、その机に寄りかかるように座っていた、ひとりの少年。
金色の髪が、夕陽を受けて淡く光っていた。
色白で、目元が印象的で、ピアスがいくつか光っている。
なのに、軽薄さは一つも感じられなかった。
その瞳は――
こちらをまっすぐ静かに射抜く、深い色をしていた。
少年は本から顔を上げ、藤宮をじっと見た。
「……誰?」
澄んだ声だった。思っていたより柔らかい。
藤宮は立ちすくんだまま、息をのみ、言葉を探しながら見惚れていた。
(なんや、この子……
見た目と、纏ってる空気が噛み合わへん)
「えっと……旧校舎の廊下、歩いてたら……その……」
うまく言えない。
藤宮はこんなふうに言葉を詰まらせるタイプじゃない。
少年は本を閉じると、椅子から立ち上がった。
距離が近づいてくる。表情は変わらないのに、なぜか圧がある。
「……迷い込んだんやったら、座ったら?」
椅子を指すその仕草が、なぜか断れない優しさを伴っていた。
藤宮の胸が、かすかに跳ねる。
「え、あ、……すまん」
促されるまま、ぎこちなく椅子に座る。
少年が柔らかな光の中でこちらを見下ろしていた。
その横顔にはどこか影があって、けれど不思議と落ち着く静けさもあった。
「ここ、Silent Societyっていうサークルの部室や」
「……聞いたことないな」
少年は淡々と、けれどどこかおかしそうに返す。
「まあ、来るのは“迷い込んだ人”ばっかりやし」
藤宮は無意識に息を整えていた。
(この子……なんなんやろ。
初めてや、こんなふうに“落ち着く”相手)
さっきまで胸を圧迫していた焦燥も、
追い詰められた息苦しさも、なぜかここでは薄れていく。
ただ、
さっきまでの焦りが、ここでは嘘みたいに遠かった。
藤宮は椅子に腰を落としたまま、ゆっくりと息を整えた。
ここに来てから、時間の進み方が少し変わった気がしていた。
椅子の背にもたれたまま、やっと落ち着いてきた呼吸を意識した。
まだ心臓は少しだけ早い。けれど、胸を締めつける感じではない。
少年は、藤宮の向かいで本を伏せると、静かに口を開いた。
「……とりあえず、落ち着いたみたいやし」
そう言って、机の端に置いてあったカップを手に取る。
動きはゆっくりで、無駄がない。
「紅茶でよかったら、淹れるけど」
「え……あ、うん。悪い。助かる」
藤宮は、反射的に頷いていた。
そうしてから、(また断ってへんやん、俺)と、心の中で小さく苦笑する。
少年は特に気にした様子もなく、湯を沸かしてポットに注ぎ、
ティーバッグではなく、缶から茶葉をすくって入れた。
どこか場違いなほど丁寧な所作だった。
藤宮は、その手つきをぼんやりと眺める。
(なんや、ちゃんとしてる……。
てきとうにティーパックでとか出してくるタイプちゃうんや)
古い部屋の空気と、紅茶の香り。
さっきまで逃げてきた事ばかり気になっていたのに、
鼻をくすぐる匂いが、少しだけ肩の力を抜かせてくる。
程なくして、少年はトレイにカップを二つ載せて戻ってきた。
「熱いから、気ぃつけてな」
目の前にそっと置かれたカップの中で、琥珀色の液体が揺れる。
藤宮は両手でそっと包み込むように持ち上げ、一口だけ啜った。
「あ……うま」
思わず漏れた言葉に、少年がほんの少しだけ、口元を緩めた。
「よかった。適当に淹れてるだけやけど」
「いや、これで適当はないやろ……。ちゃんとしたカフェの味するで」
カップを置きながらそう言うと、少年は「ふーん」とだけ返して、
椅子を引いて藤宮の正面に腰を下ろした。
間近で見ると、やはり金色の髪がよく目立つ。
けれど、光を受けた瞳の色は思ったよりも、静かだった。
(不思議な奴やな)
藤宮は気づかれないように、そっと息を吸う。
沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は、さっきまで廊下で感じていた
“答えを待たれる”静けさとは違った。
落ち着いた、やわらかい空白。
会話を始めたのは少年の方だった。
「……名前、聞いてもええ?」
「え?」
「迷いこんでくる人、多くはないから。せめて、呼び方ぐらいは知っときたい」
藤宮は、少しだけ笑って肩をすくめる。
「ああ、そらそうやな。
俺は、藤宮悠誠(ふじみやゆうせい)。法学部の二回生」
「法学部」
その瞬間、少年のまなざしが、ほんのわずか止まった。
まるで“何かを思い出す”みたいに、一瞬だけ視線が揺れる。
藤宮はその間を読み違えて、訝しげに眉を寄せる。
「……なんや、その一瞬止まったみたいな目」
「別に。ただ、“法学部”って聞いて、少し意外やっただけ。
俺は東雲智輝(しののめともき)心理学部の2回生」
「同い年か。年下に見えたわ。」
藤宮の言葉に東雲は何も返さなかった。
東雲は、テーブルに置いた自分のカップに指先を添えて、淡々と続ける。
「さっきの藤宮、ちょっと変やったなって思って」
「変?」
「追い詰められてる人の顔してた」
藤宮は、言葉を詰まらせた。
(……見られてたんか)
否定しようと思えば、できないこともない。
けれど、東雲の瞳は、冗談で追い詰めるような色をしていなかった。
ただ、静かに“見ている”。
だから、軽口で誤魔化す気分にもなれない。
「……まあ、そう、かもな」
結局、ぼかした答えしか出てこない。
東雲は、それ以上は何も聞いてこなかった。
ただ「そっか」と短く相づちを打って、カップに口をつけた。
藤宮の胸の奥で、さっきとは違う種類のざわめきが生まれる。
(普通やったら、絶対聞いてくるやろ。“何から逃げてきたん?”とか。
なんで聞かへんねん、この子)
聞かれないことが、逆に気になる。
“話したくなるまで待つ”という姿勢を向けられ慣れていないせいか、
落ち着かないような、でも少し安心するような、複雑な心地。
「東雲は……えらい、見た目と中身のギャップあるな」
「よく言われる」
即答だった。
「心理学部ってことは、人の心読むん、得意なん?」
軽口半分で投げた言葉に、東雲は少しだけ首を傾けている。
「読めたら苦労せえへんと思うけど」
「そらそうか」
「でも、“今しんどそうかどうか”ぐらいやったら、見たら分かる」
その言い方は、妙に迷いがなかった。
藤宮は、思わず視線を逸らす。
「……そんなに、しんどそうに見える?」
「さっきよりはマシ」
「比較対象が迷いこんだ直後なんは、なんか納得いかへんな」
そう言いつつも、藤宮の口調には少し冗談めいた響きが戻っていた。
東雲は、その変化を確認するように、じっと藤宮の表情を見つめていた。
藤宮は脚を組み直し、ふと壁に視線を向けた。
薄い布に深い紺色の文字で “Silent Society” と染め抜かれた旗が飾られている。
どこか運動部の部旗のようにも見えるが、この静かな部屋には妙にしっくり馴染んでいた。
「なあ……これ。サークルの旗なん?」
東雲は布地を一瞥して、少しだけ肩をすくめている。
「せやで。このサークルの創始者の先輩が作ったんや。
運動部でもないのに、なんか“こういうの必要やろ”って言うてた。」
「変わった先輩やな」
「まあ……ちょっと、おもろい人やったし」
東雲の語り口は淡々としているのに、どこか“懐かしさ”の気配が滲んでいた。
藤宮は「へえ」と目を細め、改めて旗の文字を見つめる。
「……で、“Silent Society”って結局なんなん?」
視線をプレートに向けながら、自然と口が動いていた。
東雲はちらと壁の真鍮のプレートを見やってから、藤宮に向き直る。
「さっき言うたとおり、先輩が作ったサークルでな」
「先輩?」
「東条啓介って言うんやけど。今は弁護士してる。俺んちのお隣さんで幼馴染やねん。
その人が、学生のときに立ち上げた“人の話を聞く場所”やって」
藤宮は、興味を引かれて眉を上げる。
「心理カウンセリングサークル、みたいな?」
「そこまでかっちりしたもんちゃうけど。
悩みとか、愚痴とか、どうしたらいいか分からへんこととかを、一緒に整理する場所」
東雲の声は、どこか誇らしげでもあり、同時に淡々ともしていた。
「今は俺一人だけやけど。ここのルールは、一つだけ」
「ルール?」
東雲は、指先でテーブルの縁を軽くなぞっている。
「“ここまで来れた人を、追い返さない”」
その言葉は、静かに部屋の空気に溶けた。
藤宮は、思わず視線を上げる。
「追い返さない、って」
「さっきも言ったけど、ここに来る人って、たいてい“迷い込んだ人”やから。
わざわざ旧校舎の奥まで来て、真鍮のプレート読んで、扉開けるくらいには」
そこで、東雲は藤宮をまっすぐ見た。
「――“何かから逃げたい”か、“どこにも行き場がない”か、その両方」
石ころ一つ投げていないのに、胸の真ん中に波紋が広がった。
藤宮は、笑って誤魔化そうとした。けれど、口元だけが上手く動かない。
(図星、なんやろな)
女の子たちに答えを出せと言われていること。
ちゃんと向き合わず、曖昧なまま返事を濁し続けたこと。
その根っこにある「断れない自分」のこと。
全部まとめて、見透かされている気がして、ぞわりとした。
「……それ、ここに来たやつ全員に言うてんの?」
どうにか捻り出した言葉は、少し棘を含んでいた。
東雲は、特に気にした様子もなく首を横
「全員には言わへん。必要そうな人だけ」
「俺は“必要そう”な方なんや」
「どうやろ?俺にはそう思えた。」
否定する材料がない。
藤宮は、テーブルの上で指を組み、視線を落とした。
紅茶の表面に、歪んだ自分の顔が映っている。
(こんな見知らんやつに、何話せるっていうねん)
そう思う一方で、胸の奥には別の声もあった。
(でも――話してしまったら、ちょっと楽になるかもしれん)
あの時のこと。
断わったせいで起こった、あの日の出来事。
喉の奥まで出かけて、そこで引っかかる。
東雲は、急かさない。
一言も「話してみたら?」とすら言わない。
ただ、カップを持ったまま、待っているだけだった。
沈黙が、今度は少し長くなる。
けれど、その沈黙は不思議と苦しくなかった。
やがて、先にカップを置いたのは藤宮だった。
「……悪い。今は、まだ上手く話せそうにない」
ようやく絞り出した言葉に、東雲は小さく頷く。
「それでええと思う」
「引き止めへんの?」
「ここ、カウンセリングルームちゃうし。
話したくないことまで、引きずり出す場所でもない」
それは、変に優しく聞こえた。
藤宮は、椅子から少し身を乗り出して東雲を見る。
「……なんで、そんな場所続けてんの?」
「惰性」
即答だった。
藤宮は思わず吹き出す。
「惰性て。もっとマシな理由なかったん?」
「先輩が作った場所やし。
俺は“ここ向いてると思うで”って、その先輩に言われて入ったんよ」
そこで初めて、東雲の表情にほんのかすかな陰が差した。
遠くを見ているような視線。
(こいつにも、“迷い込んだ”過去があるんか)
藤宮は、その影を追いかけるように見つめた。
けれど、東雲はすぐにその色を消してしまう。
「まあ、藤宮がどうするかは、藤宮が決めたらええことやけど」
そう言って、椅子から立ち上がる。
「とりあえず、今日はそろそろ閉めなあかん時間やし」
窓の外は、気づけば夕焼けのオレンジから、群青に変わりかけていた。
旧校舎の廊下に差し込む光も、細くなっている。
藤宮は、時間の流れを一気に思い出して腰を浮かせた。
「うわ、マジか……。悪い、長いこと居座ってもうた」
「別に。誰も来ぇへんし」
そう言いながらも、東雲は空になったカップを回収した。
トレイにカップを乗せながら、さらりと言葉を投げてくる。
「藤宮」
呼び止められて振り向くと、振り返った東雲と目が合う。
「また、迷い込んできてもええから」
それは、“来いよ”と強制するような響きではなかった。
ただ、扉を少しだけ開けておくような、そんな誘い方。
藤宮は、一瞬だけ返事に詰まる。
(“また来る”って言うたら、多分、話さなあかんのやろうな)
そう思った途端、喉の奥が少しだけ重くなる。
それでも――さっきまでより、その重さは薄まっていた。
「……気ぃ向いたら、また来るわ」
結局、それが精一杯の言葉だった。
東雲は、それで十分だと言うように、ふっと目尻を和らげた。
「うん。そのくらいが、ちょうどいいと思う」
部屋を出て、廊下に出ると、旧校舎の空気はひんやりしていた。
きたときとは違う温度に感じる。
階段を降りながら、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見なくても、誰からかは分かる。
(……また、メッセージ増えてるやろな)
胸のあたりに、鈍い痛みが走る。
けれどそのすぐ下で、さっき飲んだ紅茶の温度が、まだ微かに残っている気がした。
旧校舎の出口に立ち、夕暮れと夜のあいだの空を見上げる。
(“迷い込んだ人ばっかり”の場所、か)
真鍮のプレートに刻まれた“Silent Society”の文字が、
頭の中で何度も反芻される。
(……誤魔化してきた俺が一番、似合ってるのかもしれん)
自嘲ぎみにそう思いながらも、足取りはさっきより軽かった。
携帯の画面を見ないまま、藤宮は校舎を後にする。
背中のどこかに、さっきの部屋の静けさが、まだ貼りついていた。
歩きながらふと、こんなことを考えていた。
(……明日も、あの部屋、空いてるんかな)
そんな考えがふと胸に浮かび、藤宮は小さく笑う。
迷い込んだように入った部屋なのに――
出ていく足取りは、来たときよりずっと軽かった。
旧校舎へ向かう坂道を、振り返らずに上っていく。
夕方の光が校庭を淡く染めている。
背後に人の気配は残っていたが、足音が追ってくることはなかった。
(……ついては、来えへんよな)
胸の鼓動が落ち着かない。
今日まで何度同じことを繰り返しただろう。
複数の女の子から誘われて、断れなくて、一緒に出かけて。
それが重なって、とうとう “選んで” などと言われる始末だ。
藤宮は深く息を吐いた。
(疲れる……俺も悪いけど)
断れない。
あの時のことが頭をよぎると、どうしても。
旧校舎の裏手まで来ると、ひんやりした空気がまとわりつく。
人気がない、薄暗い廊下。夕暮れに取り残されたみたいな静けさ。
藤宮は、ゆっくり歩きながら肩の力を抜いた。
(……誰もおらん。もう大丈夫や)
ふと、目に入った。
古い木の扉。その上に掲げられた重厚な真鍮のプレート。
S.S.
Silent Society
読めはする。
だが、それ以上のことは、何も分からなかった。
(サークルの部屋か……?何の?)
逃げ込む必要はもうない。
それなのに、手が勝手に伸びていた。
静かに、扉が開く。
部屋の中には、大きな木製の書架。
壁一面に本が並び、窓際の書斎机はどこか歴史の重みをまとっていた。
そして、その机に寄りかかるように座っていた、ひとりの少年。
金色の髪が、夕陽を受けて淡く光っていた。
色白で、目元が印象的で、ピアスがいくつか光っている。
なのに、軽薄さは一つも感じられなかった。
その瞳は――
こちらをまっすぐ静かに射抜く、深い色をしていた。
少年は本から顔を上げ、藤宮をじっと見た。
「……誰?」
澄んだ声だった。思っていたより柔らかい。
藤宮は立ちすくんだまま、息をのみ、言葉を探しながら見惚れていた。
(なんや、この子……
見た目と、纏ってる空気が噛み合わへん)
「えっと……旧校舎の廊下、歩いてたら……その……」
うまく言えない。
藤宮はこんなふうに言葉を詰まらせるタイプじゃない。
少年は本を閉じると、椅子から立ち上がった。
距離が近づいてくる。表情は変わらないのに、なぜか圧がある。
「……迷い込んだんやったら、座ったら?」
椅子を指すその仕草が、なぜか断れない優しさを伴っていた。
藤宮の胸が、かすかに跳ねる。
「え、あ、……すまん」
促されるまま、ぎこちなく椅子に座る。
少年が柔らかな光の中でこちらを見下ろしていた。
その横顔にはどこか影があって、けれど不思議と落ち着く静けさもあった。
「ここ、Silent Societyっていうサークルの部室や」
「……聞いたことないな」
少年は淡々と、けれどどこかおかしそうに返す。
「まあ、来るのは“迷い込んだ人”ばっかりやし」
藤宮は無意識に息を整えていた。
(この子……なんなんやろ。
初めてや、こんなふうに“落ち着く”相手)
さっきまで胸を圧迫していた焦燥も、
追い詰められた息苦しさも、なぜかここでは薄れていく。
ただ、
さっきまでの焦りが、ここでは嘘みたいに遠かった。
藤宮は椅子に腰を落としたまま、ゆっくりと息を整えた。
ここに来てから、時間の進み方が少し変わった気がしていた。
椅子の背にもたれたまま、やっと落ち着いてきた呼吸を意識した。
まだ心臓は少しだけ早い。けれど、胸を締めつける感じではない。
少年は、藤宮の向かいで本を伏せると、静かに口を開いた。
「……とりあえず、落ち着いたみたいやし」
そう言って、机の端に置いてあったカップを手に取る。
動きはゆっくりで、無駄がない。
「紅茶でよかったら、淹れるけど」
「え……あ、うん。悪い。助かる」
藤宮は、反射的に頷いていた。
そうしてから、(また断ってへんやん、俺)と、心の中で小さく苦笑する。
少年は特に気にした様子もなく、湯を沸かしてポットに注ぎ、
ティーバッグではなく、缶から茶葉をすくって入れた。
どこか場違いなほど丁寧な所作だった。
藤宮は、その手つきをぼんやりと眺める。
(なんや、ちゃんとしてる……。
てきとうにティーパックでとか出してくるタイプちゃうんや)
古い部屋の空気と、紅茶の香り。
さっきまで逃げてきた事ばかり気になっていたのに、
鼻をくすぐる匂いが、少しだけ肩の力を抜かせてくる。
程なくして、少年はトレイにカップを二つ載せて戻ってきた。
「熱いから、気ぃつけてな」
目の前にそっと置かれたカップの中で、琥珀色の液体が揺れる。
藤宮は両手でそっと包み込むように持ち上げ、一口だけ啜った。
「あ……うま」
思わず漏れた言葉に、少年がほんの少しだけ、口元を緩めた。
「よかった。適当に淹れてるだけやけど」
「いや、これで適当はないやろ……。ちゃんとしたカフェの味するで」
カップを置きながらそう言うと、少年は「ふーん」とだけ返して、
椅子を引いて藤宮の正面に腰を下ろした。
間近で見ると、やはり金色の髪がよく目立つ。
けれど、光を受けた瞳の色は思ったよりも、静かだった。
(不思議な奴やな)
藤宮は気づかれないように、そっと息を吸う。
沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は、さっきまで廊下で感じていた
“答えを待たれる”静けさとは違った。
落ち着いた、やわらかい空白。
会話を始めたのは少年の方だった。
「……名前、聞いてもええ?」
「え?」
「迷いこんでくる人、多くはないから。せめて、呼び方ぐらいは知っときたい」
藤宮は、少しだけ笑って肩をすくめる。
「ああ、そらそうやな。
俺は、藤宮悠誠(ふじみやゆうせい)。法学部の二回生」
「法学部」
その瞬間、少年のまなざしが、ほんのわずか止まった。
まるで“何かを思い出す”みたいに、一瞬だけ視線が揺れる。
藤宮はその間を読み違えて、訝しげに眉を寄せる。
「……なんや、その一瞬止まったみたいな目」
「別に。ただ、“法学部”って聞いて、少し意外やっただけ。
俺は東雲智輝(しののめともき)心理学部の2回生」
「同い年か。年下に見えたわ。」
藤宮の言葉に東雲は何も返さなかった。
東雲は、テーブルに置いた自分のカップに指先を添えて、淡々と続ける。
「さっきの藤宮、ちょっと変やったなって思って」
「変?」
「追い詰められてる人の顔してた」
藤宮は、言葉を詰まらせた。
(……見られてたんか)
否定しようと思えば、できないこともない。
けれど、東雲の瞳は、冗談で追い詰めるような色をしていなかった。
ただ、静かに“見ている”。
だから、軽口で誤魔化す気分にもなれない。
「……まあ、そう、かもな」
結局、ぼかした答えしか出てこない。
東雲は、それ以上は何も聞いてこなかった。
ただ「そっか」と短く相づちを打って、カップに口をつけた。
藤宮の胸の奥で、さっきとは違う種類のざわめきが生まれる。
(普通やったら、絶対聞いてくるやろ。“何から逃げてきたん?”とか。
なんで聞かへんねん、この子)
聞かれないことが、逆に気になる。
“話したくなるまで待つ”という姿勢を向けられ慣れていないせいか、
落ち着かないような、でも少し安心するような、複雑な心地。
「東雲は……えらい、見た目と中身のギャップあるな」
「よく言われる」
即答だった。
「心理学部ってことは、人の心読むん、得意なん?」
軽口半分で投げた言葉に、東雲は少しだけ首を傾けている。
「読めたら苦労せえへんと思うけど」
「そらそうか」
「でも、“今しんどそうかどうか”ぐらいやったら、見たら分かる」
その言い方は、妙に迷いがなかった。
藤宮は、思わず視線を逸らす。
「……そんなに、しんどそうに見える?」
「さっきよりはマシ」
「比較対象が迷いこんだ直後なんは、なんか納得いかへんな」
そう言いつつも、藤宮の口調には少し冗談めいた響きが戻っていた。
東雲は、その変化を確認するように、じっと藤宮の表情を見つめていた。
藤宮は脚を組み直し、ふと壁に視線を向けた。
薄い布に深い紺色の文字で “Silent Society” と染め抜かれた旗が飾られている。
どこか運動部の部旗のようにも見えるが、この静かな部屋には妙にしっくり馴染んでいた。
「なあ……これ。サークルの旗なん?」
東雲は布地を一瞥して、少しだけ肩をすくめている。
「せやで。このサークルの創始者の先輩が作ったんや。
運動部でもないのに、なんか“こういうの必要やろ”って言うてた。」
「変わった先輩やな」
「まあ……ちょっと、おもろい人やったし」
東雲の語り口は淡々としているのに、どこか“懐かしさ”の気配が滲んでいた。
藤宮は「へえ」と目を細め、改めて旗の文字を見つめる。
「……で、“Silent Society”って結局なんなん?」
視線をプレートに向けながら、自然と口が動いていた。
東雲はちらと壁の真鍮のプレートを見やってから、藤宮に向き直る。
「さっき言うたとおり、先輩が作ったサークルでな」
「先輩?」
「東条啓介って言うんやけど。今は弁護士してる。俺んちのお隣さんで幼馴染やねん。
その人が、学生のときに立ち上げた“人の話を聞く場所”やって」
藤宮は、興味を引かれて眉を上げる。
「心理カウンセリングサークル、みたいな?」
「そこまでかっちりしたもんちゃうけど。
悩みとか、愚痴とか、どうしたらいいか分からへんこととかを、一緒に整理する場所」
東雲の声は、どこか誇らしげでもあり、同時に淡々ともしていた。
「今は俺一人だけやけど。ここのルールは、一つだけ」
「ルール?」
東雲は、指先でテーブルの縁を軽くなぞっている。
「“ここまで来れた人を、追い返さない”」
その言葉は、静かに部屋の空気に溶けた。
藤宮は、思わず視線を上げる。
「追い返さない、って」
「さっきも言ったけど、ここに来る人って、たいてい“迷い込んだ人”やから。
わざわざ旧校舎の奥まで来て、真鍮のプレート読んで、扉開けるくらいには」
そこで、東雲は藤宮をまっすぐ見た。
「――“何かから逃げたい”か、“どこにも行き場がない”か、その両方」
石ころ一つ投げていないのに、胸の真ん中に波紋が広がった。
藤宮は、笑って誤魔化そうとした。けれど、口元だけが上手く動かない。
(図星、なんやろな)
女の子たちに答えを出せと言われていること。
ちゃんと向き合わず、曖昧なまま返事を濁し続けたこと。
その根っこにある「断れない自分」のこと。
全部まとめて、見透かされている気がして、ぞわりとした。
「……それ、ここに来たやつ全員に言うてんの?」
どうにか捻り出した言葉は、少し棘を含んでいた。
東雲は、特に気にした様子もなく首を横
「全員には言わへん。必要そうな人だけ」
「俺は“必要そう”な方なんや」
「どうやろ?俺にはそう思えた。」
否定する材料がない。
藤宮は、テーブルの上で指を組み、視線を落とした。
紅茶の表面に、歪んだ自分の顔が映っている。
(こんな見知らんやつに、何話せるっていうねん)
そう思う一方で、胸の奥には別の声もあった。
(でも――話してしまったら、ちょっと楽になるかもしれん)
あの時のこと。
断わったせいで起こった、あの日の出来事。
喉の奥まで出かけて、そこで引っかかる。
東雲は、急かさない。
一言も「話してみたら?」とすら言わない。
ただ、カップを持ったまま、待っているだけだった。
沈黙が、今度は少し長くなる。
けれど、その沈黙は不思議と苦しくなかった。
やがて、先にカップを置いたのは藤宮だった。
「……悪い。今は、まだ上手く話せそうにない」
ようやく絞り出した言葉に、東雲は小さく頷く。
「それでええと思う」
「引き止めへんの?」
「ここ、カウンセリングルームちゃうし。
話したくないことまで、引きずり出す場所でもない」
それは、変に優しく聞こえた。
藤宮は、椅子から少し身を乗り出して東雲を見る。
「……なんで、そんな場所続けてんの?」
「惰性」
即答だった。
藤宮は思わず吹き出す。
「惰性て。もっとマシな理由なかったん?」
「先輩が作った場所やし。
俺は“ここ向いてると思うで”って、その先輩に言われて入ったんよ」
そこで初めて、東雲の表情にほんのかすかな陰が差した。
遠くを見ているような視線。
(こいつにも、“迷い込んだ”過去があるんか)
藤宮は、その影を追いかけるように見つめた。
けれど、東雲はすぐにその色を消してしまう。
「まあ、藤宮がどうするかは、藤宮が決めたらええことやけど」
そう言って、椅子から立ち上がる。
「とりあえず、今日はそろそろ閉めなあかん時間やし」
窓の外は、気づけば夕焼けのオレンジから、群青に変わりかけていた。
旧校舎の廊下に差し込む光も、細くなっている。
藤宮は、時間の流れを一気に思い出して腰を浮かせた。
「うわ、マジか……。悪い、長いこと居座ってもうた」
「別に。誰も来ぇへんし」
そう言いながらも、東雲は空になったカップを回収した。
トレイにカップを乗せながら、さらりと言葉を投げてくる。
「藤宮」
呼び止められて振り向くと、振り返った東雲と目が合う。
「また、迷い込んできてもええから」
それは、“来いよ”と強制するような響きではなかった。
ただ、扉を少しだけ開けておくような、そんな誘い方。
藤宮は、一瞬だけ返事に詰まる。
(“また来る”って言うたら、多分、話さなあかんのやろうな)
そう思った途端、喉の奥が少しだけ重くなる。
それでも――さっきまでより、その重さは薄まっていた。
「……気ぃ向いたら、また来るわ」
結局、それが精一杯の言葉だった。
東雲は、それで十分だと言うように、ふっと目尻を和らげた。
「うん。そのくらいが、ちょうどいいと思う」
部屋を出て、廊下に出ると、旧校舎の空気はひんやりしていた。
きたときとは違う温度に感じる。
階段を降りながら、ポケットの中でスマホが震えた。
画面を見なくても、誰からかは分かる。
(……また、メッセージ増えてるやろな)
胸のあたりに、鈍い痛みが走る。
けれどそのすぐ下で、さっき飲んだ紅茶の温度が、まだ微かに残っている気がした。
旧校舎の出口に立ち、夕暮れと夜のあいだの空を見上げる。
(“迷い込んだ人ばっかり”の場所、か)
真鍮のプレートに刻まれた“Silent Society”の文字が、
頭の中で何度も反芻される。
(……誤魔化してきた俺が一番、似合ってるのかもしれん)
自嘲ぎみにそう思いながらも、足取りはさっきより軽かった。
携帯の画面を見ないまま、藤宮は校舎を後にする。
背中のどこかに、さっきの部屋の静けさが、まだ貼りついていた。
歩きながらふと、こんなことを考えていた。
(……明日も、あの部屋、空いてるんかな)
そんな考えがふと胸に浮かび、藤宮は小さく笑う。
迷い込んだように入った部屋なのに――
出ていく足取りは、来たときよりずっと軽かった。
