瀬々市、宵ノ三番地



「は、はい!デートします!えっと、風嗣智(かぜつぐさとし)さん」
「え…」

手を取ってくれたのもそうだが、麗香(れいか)が自分の名前を知っていた事に智は驚いた。自分で申し込んでおきながら、信じられない思いで顔を上げると、ほっとしたというよりは、照れたようにこちらを見つめたり瞳を伏せたりしている麗香に、智は今更ながら胸がドキドキと音を立てていくのを感じた。

完全に蚊帳の外に放り出されてしまった先輩はぽかんとして、様子を見守っていた周りの学生達からは、何故か拍手と歓声が起こった。
「いいぞ!」「よくやった!」なんて声に、智と麗香は二人揃って顔を上げ、照れくさそうに周りに頭を下げながらも、その手を離す事はなかった。

「で、では、い、行きましょう!」
「は、はい!」

そして、智は麗香の手を引いて走った。先輩の呼び止める声が聞こえたが、何故か続く歓声がそれを掻き消して、智は背中を押されるように走っていく。
そうして麗香の手を引いていると、華奢な指が自分の手の中にすっぽりと収まってしまう事に気づいた。意識すれば、手に熱が集中して、手汗が出ないか心配になったが、麗香の指先が小さく智の手を握り返したので、智の胸は更にドキドキと震え、その後はどう走ったのか覚えていない程だった。

どうにか大学の外に出ると、智は立ち止まり、ぎこちなく麗香の手を放した。

「…う、上手くいきましたね、すみません勝手な真似をして」

そう言って頭を下げ、智はそそくさと立ち去ろうとする。
デートは麗香を助ける為の口実でしかなく、お付き合いして下さいと申し出た訳でもないので、周囲に何か聞かれても、デートしただけと言い張れば、その内に噂される事もなくなるだろう。そもそも、自分と麗香とでは噂にすらならないのではないか、周囲の皆も、先輩の誘いを断りきれない麗香を助ける為に使った口実だと思っているかもしれない。
名前を知っていたのも、よく考えればおかしい事ではない。しっかり者の麗香は、同じテニスをやっている同級生の名前くらい覚えていて当然だろう。

止まらない胸の騒めきを、その苦しさを誤魔化そうと、智が自分を必死に納得させていれば、くんっと服を引かれた。驚いて振り返ると、麗香の手が智の服の裾を掴んでいた。

「え、えっと…?」

何かあったのかと思ったが、真っ赤に頬を染めて俯いている麗香を見てしまえば、心配よりも可愛さが先に立ち、智は途端にしどろもどろになってしまう。

二人して赤くなって俯いた数秒が、ふわふわとした甘酸っぱさに包まれて、とても恋しく、愛しくなる。

そんなトキメキに、智は、違う違うと心の中で頭を振った。こんなにドキドキしているのは自分だけで、麗香は違うからと、勘違いする前に、この胸がきゅっとなる時間から抜け出さなければ。

智が思いきって顔を上げ、何か言わなくてはと口を開いた瞬間、麗香も同じように顔を上げたので、智の声は喉の奥に引っ込んでしまった。麗香の緊張が伝わってくる、いつもはキリッとして格好良い瞳が甘く頼りなくて、そんな顔を見てしまったら、うっかり抱きしめてしまいたくなる。

目が合った途端、再び恋の波に呑まれた智に、麗香は思いきってというように口を開いた。

「あ、あの、デート、しないんですか…?」

ようやくの思いで言葉を発した、というような麗香のその言葉に、智はその言葉の意味が一瞬理解出来なかった。
だって、デートは口実で、麗香は先輩の誘いを断れたのだから自分は用済みの筈で。

「え、えっと、え…?」

混乱のあまり頭が回らなくなった智に、それでも麗香の気持ちは変わらないようで。麗香は気合いを入れ直すように、一度唇を引き結ぶと、智の服から手を放し、そして一歩下がって距離を取った。

「で、では、私がデートに立候補していいですか?」
「え、」
「風嗣智さん、私とデートして下さい!」

そして、先程、智が麗香にしたように、麗香は智に向かって手を差し出し、頭を下げた。綺麗な髪が麗香の肩から落ち、髪の隙間からは赤くなった耳が見える。ぎゅっと瞼が閉じられたその表情からは、真剣な思いが伝わってくる。その様子を見ていたら、混乱していた頭の中が嘘みたいに静かになって、智は綺麗なその手を握った。

「…ぼ、僕なんかで宜しければ…」

お付き合いする訳ではない、麗香の時間を少しだけ一緒に過ごさせて貰うだけ。自分なんかは麗香には釣り合わないんだから、そう心の中で自制しながらも、顔を上げた麗香の、ほっとしたような、嬉しそうな笑顔を見てしまったら、智の心はもう麗香でいっぱいになってしまった。


その後、智の思惑は外れ、二人の噂は大学内を駆け巡り、デートの立候補制度が暫し流行ったという。翌年に入学した多々羅も、智の武勇伝として、周りの生徒が話しているのを聞いていた。

二人が付き合うのは、そのデートから三ヶ月後のこと。
それから七年、二人はずっと一緒だった。