楓は、あの頃と何も変わらない。いつだって、愛を受け入れ許し、守ってくれる。また、こんな風に許されて良いのだろうか。愛が躊躇いを浮かべていると、不意に楓は、ほっとしたように息を吐いた。
「でも、良かった」
肩の力が抜けたように笑うので、愛は不思議に思い、戸惑いながらも顔を上げた。その視線を受け、楓は少し悪戯に表情を緩めた。
「ちゃんと見つかったみたいじゃない?愛の事、理解してくれる人」
悪戯っこのような瞳に、愛はすぐに多々羅の事だと気づき、苦笑った。
「…物好きで、世話焼きなだけだよ」
「またそんな事言って。見てれば分かるよ、信頼してるんだなって。だから、ほっとした。ずっと心配してたんだよ?また一人でいい、みたいに言ってたらどうしようって、それこそ、私の事がきっかけだったら、」
「そんな事、」
言いかけて目が合うと、愛は思わず目を逸らした。楓のまっすぐな瞳には、昔から嘘がつけない愛だ。今思えば、初対面の時からこの瞳には弱かったように思う。その好奇心に気圧される事はあるが、強ばる肩もそっと解して、純粋に相手の目を見れる人。
だから、愛はいつも魔法にでもかかったような気分にさせられる。強引に暴くのではない、気づけばそっと手を引かれ、日向の道に連れ出されているような。
「だから、いい人に出会えたみたいで良かった」
楓がそう微笑むので、愛は困って首の後ろを搔き、視線を彷徨わせた。随分と会っていないのに、楓には全て見抜かれてしまっているようだ。愛が何を言おうとしたのか、どんな思いを飲み込んだのか、それを分かった上で、良かったと言ってくれている。
楓と過ごした日々は短くても、二人で過ごした日々は、その時間以上の濃度を持って、愛の胸に刻まれている。愛にとって楓は、素直に胸の内を晒せた稀有な人で、大切な人。それは関係が変わろうと、昔も今も変わらない。
「…そっちこそ、いい人そうだな、婚約者」
「ふふ、でしょ?彼とは病院に行くようになってから知り会ったの。これも怪我の功名かな」
微笑む楓に、愛はきょとんとした。傷を負って良いことなんてない、体を蝕むのは足だけではなかっただろう。それなのに、楓はそんな風に傷さえも受け入れて、前を向いている。
「だから、私は不幸な目にあったなんて、一度も思った事ないよ。この体になったお陰で幸せになれたんだから」
辛くない筈がないのに、それでも、そんな事よりも幸せだと思える瞬間があったのだと楓は言う。勿論、本当にそう思っているのだろうが、それがまた、愛の気持ちを解す事を、楓はきっと知っている。
「…本当、君は」
愛は言葉にならず、俯いて唇を噛みしめた。
もっと、ああしていれば良かった、こうすれば良かったのにと後悔を繰り返し、自分を責めてばかりいた、自分に罰を与えている気にすらなって、向き合う事から逃げていたのに。
楓は愛がしてきた全て受け入れて、その上で前を向いて生きている。自分が後ろを向いても、楓はまっすぐと、更にはこんな弱い自分まで受け入れて、抱きしめてしまう。
敵わないな、愛の呟きは、自身の涙に遮られた。
「泣かないで。私が悪かったのに、辛い思いをさせてごめん。でもね、私は愛と会えて良かったって、本当に思ってるんだからね。あの時も、今日も、愛に会えた事で後悔なんてない。あの子だって、きっとそうだった」
あの子、その言葉に愛は顔を上げる。楓は泣きそうに、それでも優しく笑った。
「あの子だって、そうだったんだよ」
楓の微笑みは、愛の為に、自身の為に、あの子の為に。
愛はぐい、と目元を擦ると、スーツの内ポケットから、丁寧にハンカチでくるまれたそれを楓に差し出した。
「…ずっと返せなくて、ごめん」
それを見て楓は目を丸くし、堪えきれない思いが瞳を濡らした。そこには、愛の部屋にあったミモザのイヤリングがあった。
「…守れなくて、」
「守ってくれてたよ」
楓は愛の言葉を遮り、その傷のついてしまったイヤリングを大事そうに手に取ると、胸に抱きしめた。もうあの子に会うことは出来ない、それでも楓は愛おしそうにイヤリングを胸に抱く。
「持っていてくれて、この子を守ってくれてありがとう」
化身が消えても、大事なものに変わりない。あの子との思い出が、そのイヤリングには宿っている。
それは、愛の中にも。
「…楓、ありがとう。ずっと、会いにこれなくてごめん」
「ううん、それは私も同じだから」
そして、目を合わせれば、昔のように互いに笑みが零れていく。楓は笑って目元を擦ると、愛にお茶菓子をすすめた。
「ごめんね、食べて食べて。あ、そうだ!正一さんは元気にしてる?」
「元気だよ、きっと」
「きっと?」
「今、一人で海外に行ってるんだ」
「旅行?」
「研究熱心なんだ、いくつになっても」
「正一さんらしいね」
それから、二人は会えなかった日々を埋めるように話をした。宵の店の用心棒の事、楓がピアノ教室の先生を始めた事、最近はまっている料理、多々羅との共同生活、二人でよく通ったテラスのある喫茶店、その店でミモザのイヤリングの化身を含めた三人で会話していたら奇妙な目で見られた事。
そして、楓が気にかけていた化身の友達は、今もこの家で静かに暮らしている事。
二人のお喋りは尽きなかったが、そろそろピアノ教室の生徒がやって来る時間だ。二階に居た多々羅達を呼べば、多々羅は心配そうな表情を浮かべていたので、愛はそっと表情を緩めた。今まで大人しく楓の足元にいたショパンは、愛が帰る気配を察して、寂しそうに愛の足元に駆け寄ってくる。
「じゃあな、西岡さんとも仲良くな」
愛がショパンの頭を撫で、そう伝えれば、ショパンにもその思いが伝わったのか、力なく頭を下げ、上目遣いで愛を見上げた。
「…善処は、してくれるみたいですね」と、多々羅が苦笑いつつ篤史を見れば、篤史は「ショパーン…」と小さく呟き項垂れていた。



