瀬々市、宵ノ三番地




時野(ときの)のお宅は、見るからに立派な建物で、中に入れば高級品ばかりが並んでいるのではと、多々羅(たたら)は少し緊張していたが、玄関もリビングも、続く廊下も、生活を感じられる温度感のある空間だった。物がごちゃごちゃ溢れている訳ではないが、品がありすぎて気を遣わせるという感覚もない。ピアノ教室の看板もあったし、子供を迎え入れる上での気遣いだろうか。アットホーム、その言葉がしっくりくる空間が広がっていた。

それでも、アイボリーのソファーは座り心地が良く、目の前のローテーブルの上には、少しお高めなお茶菓子が置かれている。
愛と多々羅の対面に座った彼女は、時野楓(ときのかえで)、年齢は二十六歳。どこか儚げな印象を受けたのは、その涙を見たからかもしれない。彼女はこの家でピアノの先生をしているという。
ショパンは嬉しそうに、愛と楓の間を行ったり来たりしていて、改めて、愛の恋人はこの人かと思えば、多々羅は少し緊張を覚えた。多々羅が身構える事など何もないのだが、どうにも落ち着かない気持ちになる。それと同時に、本当に自分がこの場に居ても良いのだろうか、という思いがじわじわと芽生え始めて、余計に落ち着かなかった。

そこへ、コーヒーをいれてくれていた篤史が戻って来た。愛と楓の前にコーヒーを差し出すと、トレイにはまだ多々羅と篤史(あつし)の分のカップを残したまま、彼は多々羅へ声を掛けた。

「それじゃあ、御木立(みきたて)さんは僕に付き合って貰って良いですか?」
「あ、はい…」

その言葉に素直に従い、多々羅は席を立った。愛にとっても、過去の恋人との話を自分に聞かせたくないかもしれない、楓はちゃんと話したいと言ってくれている、ここまで来れば、多々羅の出番はないように思えた。気にはなるが、愛の邪魔になってはいけない。

「それでは、失礼します…」

そう楓に声を掛けたところで、不意に愛と目があった。愛は咄嗟に何か言おうとしたようだが、愛の口から言葉が発せられる事はなく、多々羅は少し不安を覚えながらも、小さく頭を下げてリビングを後にした。



多々羅は篤史に促され、二階へ上がった。その部屋にはピアノがあり、窓を開けると夏の風が通り抜けていく。ピアノ教室用の部屋だろうか、部屋にはぬいぐるみや、子供向けの本等も置かれていた。

「…良いんですか?二人きりにして」

自分はいいとして、篤史は婚約者の元に昔の恋人を残して来たのだ、心配にはならないのだろうか。
だが、多々羅の心配をよそに、篤史は爽やかに笑顔を見せ、多々羅をソファーに促すと、コーヒーのカップを前に置いた。香ばしい香りは、落ち着かない気持ちを緩めてくれるようだ。

「さすがに、僕がいたら話にくいでしょ?御木立さんには悪いけど、一人でいるのは落ち着かなくなりそうで…すみません、連れ出しちゃって」

苦笑う篤史に、多々羅は慌てて首を横に振った。

「俺の方こそ!完全に部外者なので、居ても良いのかなって思ってたので…ちょっとほっとしました」

気にはなるが、ほっとした気持ちも嘘ではない。苦笑う多々羅に、篤史は合わせるように表情を緩めたが、少し考える様子を見せ口を開いた。

「でも、信頼されているんだなっていうのは伝わってきましたよ」
「え?」
瀬々市(ぜぜいち)さん。楓から少し話を聞いただけですけど、御木立さんみたいに理解してくれる人と出会えたんだなって…僕は良かったって思ったんです、楓、本当に後悔していたみたいですから」

そう話す篤史からは、素直な気持ちが伝わってくる。会ったこともない愛に対しても心を寄せてくれているように感じ、多々羅は優しい人だなと心を温めたが、それでも、どうしても愛の事が気になってしまう。
篤史は、愛と楓の間に何があったのか知っている、そう思ったら、聞かずにはいられなかった。多々羅は、愛に悪いと思いつつも、思いきって尋ねてみる事にした。

「あの、二人には何があったんでしょうか?」

それには、篤史は迷うように視線を巡らせたが、やがてその視線を多々羅に向けた。

「僕も全部って訳じゃないけど…ただ、楓はとても後悔しているんだ」

篤史はそっと眉を下げ、窓の外へ目を向けた。