瀬々市、宵ノ三番地




出会った青年は、西岡篤史(にしおかあつし)、年齢は二十代後半位だろうか、彼はショパンの飼い主である、(かえで)という女性の婚約者だという。

篤史が案内したのは、先程、愛が足を止めた時野(ときの)の家だった。その門の前に女性の姿が見えて、愛は思わずといった様子で足を止めた。

(かえで)!」

この家に向かう途中、篤史が楓に連絡を入れていたので、家の前で待っていてくれたのだろう。
篤史の呼び掛けに、その人がこちらを振り返ると、愛の足にぴったりくっついて歩いていたショパンが小さく吠えた。嬉しそうに尻尾を振って愛を見上げるその瞳は、早く楓の所に行こうよと、一緒に遊ぼうよと言っているみたいで、愛は躊躇いがちにショパンから目を逸らした。
愛の様子に、ショパンは不思議そうに首を傾げ、多々羅(たたら)は楓と呼ばれたその人へ視線を向けた。篤史が彼女に話しかけながら歩み寄る、ここに向かう途中で、篤史は愛と偶然出会った事、愛を連れていくと電話で話していたので、楓もこちらの事情は知っていたが、篤史は偶然の出会いへの興奮が甦ったのか、その声を弾ませている。

楓はと言うと、篤史の話に頷きながらも、愛から視線が逸らせないようだった。柔らかな短い黒髪に、涼しげなブラウスとロングスカート、その手には杖を持っている。足が悪いのだろうか、楓は一歩踏み出したが、その足取りは頼りなく、篤史が慌てて手を差し出していた。
それでも彼女は、愛へと向かおうとしているようだった。柔らかなたれ目がちの瞳は、驚きから泣きそうに歪み、多々羅は彼女の様子に戸惑いながら、愛へ視線を戻した。
愛は謝りたいと言っていたので、相手は怒っているのかと思っていた。だから愛も、会う決心がつかないのかと。だが、彼女の様子を見ていたら、そうではないのではと思えてきた。顔を合わせられない程、その関係が拗れてしまったなんて、今の楓の様子を見ていたら、どうしても想像が出来なかった。

「愛ちゃん、」

声を掛けて、多々羅は続ける言葉を失った。俯く視線、眼鏡の向こうに見える黒い瞳は怯えるように揺れ、耐えるようにぎゅっと拳が握られている。黒い瞳は、愛に何を見せているのだろう、その瞳を黒く染めるなら、その瞳に映るものを隠してくれたら良いのに。
自分がどうしたら良いか分からないから、そんな勝手な事を考えてしまう。多々羅が困惑のまま立ち往生していると、「ごめんなさい」と、今にも消え入りそうな声が聞こえた。その声に再び多々羅が振り返ると、楓が顔を手のひらで覆い伏せ、涙していた。

「ごめんなさい、愛…」

そう繰り返す彼女を、篤史がその背中を撫で支え、彼もまた申し訳なさそうに愛へと視線を向けている。その様子に、愛もまた呆然と楓を見つめていた。愛としては、楓に謝罪しに来たのだ、それが逆に謝罪を受け、戸惑っているようだった。

「とりあえず、ここでは何ですから、中に入りましょう。瀬々市(ぜぜいち)さんも御木立(みきたて)さんもどうぞ、楓、良いよね?」

その優しく気遣う篤史の言葉に、楓は顔を俯けながら頷いた。

「どうぞ、上がって。大したおもてなしも出来ないけれど…出来ればちゃんと話をさせて欲しいの…その、嫌でなければ、だけど…」

涙を拭いながら、そう控えめに尋ねる楓に、愛は瞳を揺らし、多々羅を振り返った。愛と目が合い、多々羅は戸惑いながらも頷けば、愛は楓に向き合い、躊躇いがちに頷いた。

「俺も、ずっと謝りたかったんだ。お邪魔させて貰っても良いかな…」

どこかお互いにたどたどしいのは、後ろめたさがあるというより、久しぶりに再会して距離感が分からなくなっている、という方がしっくりくるような気がする。多々羅はそう思い、二人の様子を交互に見て、少しほっとした。きっと楓は、愛を否定したりしないだろう、そう思えたからだ。

良かった。そう思っているのに、多々羅はどうしてか、落ち着かない気持ちになる。

「多々羅君も、」

愛にそう促され、多々羅は慌てて頷き、愛に駆け寄った。