なずながアパートに来てから、アパートの中は随分変わった。互いの程よい距離感が平和を生んでいると思っていたのに、なずなは、皆が保っていた距離をお構い無しに引き寄せてしまった。
苛立ちや諦めに満ちたメゾン・ド・モナコが、今は明るく変わろうとしている。
だから、怖かった。距離が近づけば、この手がまた誰かを傷つけてしまうかもしれない、その時、自分にはもう行く場所はない。皆が変わろうとしている中で、自分の存在がいつか毒になるんじゃないかと思って、怖かった。
それなのに、なずなは怖れず向かってくる。真っ直ぐにその心に触れてくる。誰かの為に必死で、目を逸らしたくても、逸らせなくて。
伸ばされる手を、掴んでしまいたくなる。
許されていいのかと、願ってしまう。
伏せた視線を上げると、なずなはフウカの言葉を静かに待っているようだ。この気持ちの揺らぎすら、共に乗り越えようとしてくれているかのようで、フウカは何だか心強かった。
「…あなたはもう、アパートの住人じゃないですか」
そうフウカが言えば、なずなは嬉しそうに表情を緩め、はい、と笑顔で頷いた。
その笑顔に頼りたくなってしまい、フウカは繋がる手に視線を落とした。
「…僕は強くなれるでしょうか」
「強く?」
「もう、大切な人を傷つけたくないんです。このグローブは、戒めでした」
ぎゅ、と力のこもる手に、なずなは力強く頷いた。
「なれますよ!傷と向き合うフウカさんは、もう十分強いと思います!大丈夫、大丈夫ですフウカさん」
フウカはきょとんとしてなずなを見つめたが、それはすぐに笑顔に変わった。
「…ありがとう」
それは、とてもキレイな笑顔だった。
二人が少しの照れくささを引き連れてキッチンカーに戻ると、いつもある長蛇の列が嘘のように、紫乃のキッチンカーの周りだけ客がいなかった。
「え、どういう事ですか!?」
「あ、お帰りーお二人さん」
にこりと手を上げる春風に対し、紫乃の顔は悲壮感に溢れている。
「どうしてお客さん来ないんだろう…俺、何かしたかな、知らない所で食中毒とか!?どうしよう…」
頭を抱える紫乃の隣で、春風はこっそり手を叩く。すると、どこからともなく人が集まり始め、途端に店は賑わいを見せた。
「…まさか」
ジロ、と睨むフウカとなずなに、春風はカラリと笑ってみせ、フウカの背中を押した。
「ほら、お客さんが待ってるよー、フウカ君!」
「あなたね…」
「良かった!早くフウカ君!この店は君が居なきゃダメなんだ…!」
嬉々として動き出す紫乃に手を引かれ、フウカはエプロンを巻き手を消毒する。その手はまだグローブがはめられたままだけど。
「じゃ、家で待ってるよー」
春風の声に振り返り、その隣で手を振るなずなを目に留め、フウカは元気に「はい」と頷いた。



