「遅い」
明日〆切のゲラチェックを片付けているからいいものの、打ち合わせの予定時間からもう30分も経っている。
遅れる連絡もないし、夏目さんに何かあったのではと心配になる。
気にしすぎて気持ち悪がられても嫌なので耐えていたが、痺れを切らしてスマホの電話アイコンをタップしたちょうどそのとき。
会議室のドアが勢いよく開いた。
「七海、遅れてごめん!そして一生のお願い!」
夏目さんはそう言って、俺の足元に縋り付いてきた。
急いで自転車を漕いで来たのか、ぴょこんと跳ねている前髪が可愛い。心配で溜まっていたストレスが一気にゼロになった。
「遅刻ですよ」
可愛いなと思いながらわざと呆れたように言うと、夏目さんは「ごめん」としおれてしまった。
このまま夏目さんを地面に座らせておくのは可哀想なので、さりげなく両肩を支えて立たせ、隣の椅子に座らせる。
「それで、今日の一生のお願いはなんですか」
向き合うように座って尋ねると、夏目さんは「七海ぃ」と目にじわりと涙を浮かべた。
突然の涙にギョッとして、慌てて机の上のティッシュボックスからティッシュを何枚か引き抜く。
「こんなところで泣かないでください」
動揺を誤魔化すように、夏目さんの泣き顔にティッシュを押し付けた。
夏目さんは「ごめん、ちょっと安心しちゃって」と勢いよく鼻をかむと、背負っていたリュックから封筒を取り出した。
好きな人の涙は心臓に悪い。悪い意味でドキドキした心臓を押さえつけて、封筒を受け取る。
差出人は「大福不動産」とあった。
「さっき、ポストに入ってたの。大型ショッピングセンターができるから、俺のアパート、来月に取り壊されるんだって」
大家さんにとっては、家賃収入の見込めない都内最低家賃のボロアパート経営より、土地を売ったほうがいいと判断したんだろう。
「でも、それで悲しんでたんですか?」
夏目さんは出会った時からあの物理的に傾いたボロアパートに住んでいたけど、泣くほど気に入っているようには見えなかった。
「ううん。明日……」
「明日?」
「明日までに、出て行かないといけない」
「は?」
急いで書類をめくると、確かに明日の日付が書いてあった。
「前日の告知は契約違反では?俺が大家さんと話しましょうか」
「ううん。大家さんは先月からずっと何回もピンポンしてくれたらしいんだけど、俺、日中は徹夜明けで気絶してるし」
夏目さんはそう言ってリュックをゴソゴソと探り、赤黄緑色の封筒をバサバサと取り出した。
「お知らせもいっぱい来てたけど、ポストも先月からずっと見てなかったんだよね」
ありえない事態に、かける言葉がない。
夏目さんは漫画家としては天才だが、生活能力が一切ない。
俺と出会うまで、どうやって生活していたのか謎だ。
「それで、一生のお願いなんだけど」
夏目さんは姿勢を正した。
「俺、明日から家がないの。このビルの仮眠室に住んでもいいか、七海から編集長に聞いてくれない?俺、怖くて聞けない」
「いいわけないでしょう」
どうしてそうなる。体から力が抜けて、反射で返事をする。
「安いアパート見つけて、そこの敷金礼金が貯まったらすぐに出て行くから!」
「そういう問題じゃありません。そもそも大切な作家に仮眠室暮らしさせるなんて、夏目さんじゃなくても止めますよ」
「じゃあどうしたらいいのさぁ」
「もちろん、夏目さんが嫌じゃなければうちに……」
不自然に言葉を詰まらせた俺に、夏目さんは不思議そうな顔をした。
「七海?」
今日までの3年間、夏目さんのプライベートには絶対に干渉しないよう、細心の注意を払って距離を保ってきた。喉から手が出るほど渇望しているくせに、どうせ手に入らない幸せは、最初から知りたくないと逃げていた。
だけど、これが俺の運命なのかもしれない。
もう、諦めるしかないようだ。
「次の家が見つかるまで、うちに来ませんか」
「え、いいの?」
「ちょうど部屋も余ってますし。俺は日中仕事でいないので、夏目さんの仕事の邪魔にはならないと思います」
「うそ!やったー!ありがとう!」
無邪気に喜ぶ顔に、酔い潰れた俺を介抱するために夏目さんが家に来てくれた日を思い出す。
朝ソファで目が覚めると、隣で夏目さんが寄り添うように眠っていた。すやすやと安心した顔で眠る夏目さんの顔を見て、幸せすぎて、これが現実ならもう死んでもいいとさえ思っていた。それが、まさか同棲することになるとは。
「俺、友達とシェアハウスするの夢だったんだよね!」
厳重に、絶対に開かないように封をしていた心に、夏目さんはいつも土足でスキップをしながら入ってくる。
人の気も知らないで楽しそうに笑う夏目さんを、ちょっとだけ憎らしく、でもやっぱり大好きだと思った。
明日〆切のゲラチェックを片付けているからいいものの、打ち合わせの予定時間からもう30分も経っている。
遅れる連絡もないし、夏目さんに何かあったのではと心配になる。
気にしすぎて気持ち悪がられても嫌なので耐えていたが、痺れを切らしてスマホの電話アイコンをタップしたちょうどそのとき。
会議室のドアが勢いよく開いた。
「七海、遅れてごめん!そして一生のお願い!」
夏目さんはそう言って、俺の足元に縋り付いてきた。
急いで自転車を漕いで来たのか、ぴょこんと跳ねている前髪が可愛い。心配で溜まっていたストレスが一気にゼロになった。
「遅刻ですよ」
可愛いなと思いながらわざと呆れたように言うと、夏目さんは「ごめん」としおれてしまった。
このまま夏目さんを地面に座らせておくのは可哀想なので、さりげなく両肩を支えて立たせ、隣の椅子に座らせる。
「それで、今日の一生のお願いはなんですか」
向き合うように座って尋ねると、夏目さんは「七海ぃ」と目にじわりと涙を浮かべた。
突然の涙にギョッとして、慌てて机の上のティッシュボックスからティッシュを何枚か引き抜く。
「こんなところで泣かないでください」
動揺を誤魔化すように、夏目さんの泣き顔にティッシュを押し付けた。
夏目さんは「ごめん、ちょっと安心しちゃって」と勢いよく鼻をかむと、背負っていたリュックから封筒を取り出した。
好きな人の涙は心臓に悪い。悪い意味でドキドキした心臓を押さえつけて、封筒を受け取る。
差出人は「大福不動産」とあった。
「さっき、ポストに入ってたの。大型ショッピングセンターができるから、俺のアパート、来月に取り壊されるんだって」
大家さんにとっては、家賃収入の見込めない都内最低家賃のボロアパート経営より、土地を売ったほうがいいと判断したんだろう。
「でも、それで悲しんでたんですか?」
夏目さんは出会った時からあの物理的に傾いたボロアパートに住んでいたけど、泣くほど気に入っているようには見えなかった。
「ううん。明日……」
「明日?」
「明日までに、出て行かないといけない」
「は?」
急いで書類をめくると、確かに明日の日付が書いてあった。
「前日の告知は契約違反では?俺が大家さんと話しましょうか」
「ううん。大家さんは先月からずっと何回もピンポンしてくれたらしいんだけど、俺、日中は徹夜明けで気絶してるし」
夏目さんはそう言ってリュックをゴソゴソと探り、赤黄緑色の封筒をバサバサと取り出した。
「お知らせもいっぱい来てたけど、ポストも先月からずっと見てなかったんだよね」
ありえない事態に、かける言葉がない。
夏目さんは漫画家としては天才だが、生活能力が一切ない。
俺と出会うまで、どうやって生活していたのか謎だ。
「それで、一生のお願いなんだけど」
夏目さんは姿勢を正した。
「俺、明日から家がないの。このビルの仮眠室に住んでもいいか、七海から編集長に聞いてくれない?俺、怖くて聞けない」
「いいわけないでしょう」
どうしてそうなる。体から力が抜けて、反射で返事をする。
「安いアパート見つけて、そこの敷金礼金が貯まったらすぐに出て行くから!」
「そういう問題じゃありません。そもそも大切な作家に仮眠室暮らしさせるなんて、夏目さんじゃなくても止めますよ」
「じゃあどうしたらいいのさぁ」
「もちろん、夏目さんが嫌じゃなければうちに……」
不自然に言葉を詰まらせた俺に、夏目さんは不思議そうな顔をした。
「七海?」
今日までの3年間、夏目さんのプライベートには絶対に干渉しないよう、細心の注意を払って距離を保ってきた。喉から手が出るほど渇望しているくせに、どうせ手に入らない幸せは、最初から知りたくないと逃げていた。
だけど、これが俺の運命なのかもしれない。
もう、諦めるしかないようだ。
「次の家が見つかるまで、うちに来ませんか」
「え、いいの?」
「ちょうど部屋も余ってますし。俺は日中仕事でいないので、夏目さんの仕事の邪魔にはならないと思います」
「うそ!やったー!ありがとう!」
無邪気に喜ぶ顔に、酔い潰れた俺を介抱するために夏目さんが家に来てくれた日を思い出す。
朝ソファで目が覚めると、隣で夏目さんが寄り添うように眠っていた。すやすやと安心した顔で眠る夏目さんの顔を見て、幸せすぎて、これが現実ならもう死んでもいいとさえ思っていた。それが、まさか同棲することになるとは。
「俺、友達とシェアハウスするの夢だったんだよね!」
厳重に、絶対に開かないように封をしていた心に、夏目さんはいつも土足でスキップをしながら入ってくる。
人の気も知らないで楽しそうに笑う夏目さんを、ちょっとだけ憎らしく、でもやっぱり大好きだと思った。
