まだ恋じゃない!?

巻頭カラーを乗り越えた『木漏れ日の夢を見た』は、ついに単行本が発売されることが決まった。
お祝いに経費で打ち上げをしていいと編集長に言われて、俺たちは七海おすすめのお店があるという銀座に来ていた。

「ここです」

七海が指差したのは、いかにも高級そうなお店の入口だった。

「この店の中で、風呂なしの家に住んでるの絶対に俺だけだと思う」

「はいはい、お行儀良くしてくださいね」

やけに楽しそうな七海に促されて緊張しながら中に入ると、店内はライトアップされたアクアリウムで空間が仕切られた、幻想的で素敵な雰囲気のダイニングバーだった。

「きれー!」

席をぐるっと囲むように大きなアクアリウムが置いてあるテーブル席に案内されて、七海と並んで座る。慣れた様子の七海に、だれかこういうお店に一緒に来る人がいるのかなと思って、なぜかちょっと胸がざわついた。

「夏目さんは軽めがいいですよね?」 

七海は細くて綺麗な指でメニューをなぞると、最初のワインを注文してくれた。
今日の七海は前髪をゆるく降ろしていて、モデルさんみたいな雰囲気にドキドキする。向かい合わせの席じゃなくてよかった。

「夏目さん、このお店気に入ってくれました?」

「うん、めちゃくちゃ好き。連れてきてくれてありがとう」

「よかった。俺も好きなんです、ここ」

めずらしく七海の口から発された低音の「好き」の良さに浸っているあいだ、七海は尾びれがドレスみたいにひらひらした赤い熱帯魚が気になるようで、ずっと目で追いかけている。アクアリウムの青が七海の瞳に映っていて、すごく綺麗だった。

「取材旅行の時、夏目さんが大型水槽の前からぜんぜん動かなかったのを思い出して。このバーは3時までやってるので、今日はゆっくりできますね」

いたずらっぽく笑う七海に、当然のように今日は夜中の3時までここで過ごすつもりだと言われたみたいで、胸が苦しくなる。

「七海、最近メロくない?」

「前から夏目さんには甘くしてるつもりですが」と、七海は運ばれてきた前菜を受け取った。

「ここはお料理も美味しいんですよ。これ、生ウニのプリンです」

「ウニの!?」

興奮して撮影会を開催する俺を横目に、料理を取り分けていた七海がそっとため息をついたのに気がついた。

「七海、なんか疲れてる?」

顔を覗き込むと、「なんでこういう時だけ気付くんですか」と嫌そうな顔をした七海は、「面白い話じゃないのでいいです」とグラスを手にした。

「えー、気になるじゃん!」と食い下がると、七海は一瞬ためらったあと、「じゃあ、せっかくなので」と話し出した。

「今まで夏目さんの担当編集として死ぬ気で、夏目さんが売れるためにやれることは全部やってきました」

真面目な話そうなのに、目線を下げた七海の物憂げな表情に見惚れてしまう。背景のアクアリウムも相まって、手が届かない月みたいに綺麗だと思った。

「でもいざ本当に人気が出始めると、俺だけが知ってた夏目さんの可愛いところが世間に見つかってしまって、マジで嫌なんです。俺が最初に夏目さんを見つけたのに」

「ん?」

ちゃんと聞いていなかった間に、なんか違う話になっている気がする。

「ファンレターもSNSのフォロワーも、ずっと増え続けてるんですよ。こんな、みんなの夏目さんになってしまうくらいだったら、誰にも教えずに俺だけの夏目さんにしておけばよかった、って後悔してるんです」

七海はせっかくの高級ワインを日本酒みたいに煽った。確か、七海はあんまりお酒が強くなかったはずだ。

「ちょっと、大丈夫?」

「お祝いの席ですみません。でも、目下の俺の悩みはこれなんです」

「次からはボトルにしましょう」と七海は店員さんにアイコンタクトを送った。こんな時にまで、七海の横顔のすっとした鼻筋とか、顎のラインも綺麗だなと思ってしまう自分がちょっと面白い。どんだけ七海の顔が好きなんだろう。いけない、七海を励まさないと。

「でも……そう、俺、普通に友だちいないし、ここ数年は七海としかごはん食べてないし。人気が出たって言っても、前の俺に比べたらの話で、風呂付き物件の家賃は払えてないし。だから、まだ七海だけの俺ってことで大丈夫!元気出して!」

俯いた七海の顔を覗き込んで、ぐっと親指を立てる。なのに、「そんなこと冗談でも言わないでください」と人差し指でぐりぐりと眉間を押されて、顔を離された。

「なんで!?励ましてるのに!」

「俺が道を踏み外さないように、夏目さんもちょっとは協力してください」

おでこを押さえる俺を見て吹き出した七海が、なんだか可愛く見えて困った。最近、新原くんをモデルにしたはずの攻めの口調が七海に寄ってしまい、七海自身に「これ、新原が言いそうにないんですが」と修正されることも増えてきてしまっていた。

これじゃあキャラ作りに支障が出るなぁと、久しぶりに新原くんのことを考える。そうして俺は、何気なく考えたことをそのまま口に出してしまった。

「そういえばさ。新原くんってどこでもやっていけそうなのに、どうしてうちの出版社の営業を選んだんだろうね。本とか好きなのかな」

「は?」

まずい。さっきまでリラックスした雰囲気だった七海が、信じられないものを見たような顔で振り向いた。背後でゴングがなった気がした。

「夏目さんの担当になってから3年、俺は一度も聞かれてないんですが」

「えっと、」

「普通、自分の担当になった新入社員がBL漫画雑誌編集部を熱望して配属になった男だと紹介されたら、たとえ興味がなかったとしてもコミュニケーションとして一度くらいは理由を聞いてくれてもいいですよね」

「そうだよね、」

「別にいいですよ。やっぱり夏目さんのような天才肌の芸術家は我々一般人とは感性が違うんだなと納得していました。でも、新原のことは気になるんだとしたら話は違ってきます」

「違くて、ほら、出会った時は俺も必死だったし、打ち合わせしてても、漫画の話ばっかりでタイミングがなかったから、」

「漫画の話ばっかり?」

「ひいっ」

いつのまにか七海の目元は赤く染まっていて、据わった目で睨みつけてきた。

「取材旅行に行けば、電車の時間が迫っているというのにやれ作品に関係ないラッコ水槽の前から動きたくないやら、限定のガチャガチャをしないと帰れないなどとゴネまくり、カフェに入れば、店員の胡散臭い男に彼女がいるのかばかり気になり打ち合わせの内容が身が入らないまま、勝手にインスタをネトストしていたかと思えば彼女が出来たのを知って大騒ぎのあと血迷ったネームを生み出し、挙げ句の果てには偶然社内で会って一度挨拶しただけの男に会えなくなったからといって、あやうく巻頭カラーを落としそうになった記憶があるんですが」

七海はここまで一息で言うと、「俺の勘違いでしたっけ」と首を傾げた。七海の背後で優雅に泳いでいた熱帯魚たちも、危険を察知したのかいつのまにかワカメみたいな草にみんな隠れてしまった。

「いつもご迷惑をおかけしてすいません……」

ぐうの音も出ないほどボコボコにされてHPが0になった俺は、テーブルの空いているスペースに突っ伏した。

「まぁでも、夏目さんがそれで面白い漫画が描けるならいいですけどね」

めずらしくすぐに失速した七海は、ボトルで頼んでいたワインをドボドボと注いた。ペースがめちゃくちゃ早くて心配になる。いや、俺のせいなんだけど。

「あの、申し訳ないついでに、七海はなんでこの仕事に就いたのか、教えて欲しいなって……」

七海の顔色を伺うと、「別に、聞いて欲しかっただけでたいした話じゃないんですけど」と落ち込んだ声で答えた。お酒のせいか、いつもより感情がわかりやすい気がする。

「小さい頃から仲の良かった姉が、中学で不登校になったのがきっかけです。なんとか元気になってほしくて姉の親友に相談したら、姉はBL漫画が好きらしいと教えてくれました。もちろんBLって概念すら知らなかったですけど、大好きな姉の見ている世界に少しでも近づきたくて、ネットの投稿サイトで探しました。それからです、俺がBLに魅力されたのは。BLって、みんなが誰かのために必死に生きてて、最後は報われて、ハッピーエンドで終わりますよね。あぁ、こんなに幸せな世界にいるのなら、姉は大丈夫だって安心しました」

いつもよりゆっくりと話す七海の大切な話を聞き逃したくなくて、七海のほうに少し体を近づける。

「ある日、勇気を出して姉にBL漫画の話を振ってみました。姉は「そんなの読んでるの」と困った顔で、だけど嬉しそうに笑ってくれたんです。いまはもう結婚して遠くに住んでいますが、僕がBL漫画編集者になって一番喜んでくれたのは、姉かもしれません」

七海は微笑みながらワイングラスをくゆらせた。

「俺も、受験とか就職とか、辛いことは何度もありましたけど、その度にいつもBL漫画が俺の心を引っ張り上げて、背中を押してくれたんです。今度は俺が、そんな作品を俺みたいな人に届けたいと思ったんです」

「そっか」

「でも、夏目さんは隠しておけばよかったと思うし、どうしようもないですね」

困ったように笑う七海の顔から目が離せなくなる。初めて、七海の心の深いところに触れられた気がして嬉しかった。
にやける口元を我慢していると、急に七海がくたりと肩に寄りかかってきた。

「七海?」

顔を覗き込むと、七海は少しだけ口を開けてすやすやと眠っていた。前髪がくしゃっとなって、幼くて天使みたいでめちゃくちゃ可愛い。
じゃ、なくて。

「え?寝たってことは……俺、クレジットカードとか持ってないよ!お会計どうしよう!」

真っ青な顔で店員さんに事情を説明したら、いつも会社ぐるみでご利用いただいているので本日はツケで構いませんとあっさり言われ、親切に帰りのタクシーまで呼んでもらえた。
大手出版社の社会的信用、恐るべし。