まだ恋じゃない!?

やっぱり俺は、会えない時間で恋を育てられるような男ではなかった。
新原くんと会えなくなって半年、もう彼へのトキメキを少し忘れてしまってきていた。
ゆえに、キスシーンでつまずいているのである。

「絶対に、落とさせない」

電話を切った七海は、長い足を折りたたんで正座スタイルで絶望している俺の隣にしゃがみこむと、完成した部分の原稿をパラパラとめくって「この流れからのキスね」と呟いた。

「夏目さん、俺を新原だと思って」

「へ?」

なんのことか理解する前に、固くて冷たいフローリングに押し倒された。
頭には七海の手が添えられていたから、ぜんぜん痛くはなかったけど。
見上げると、苦そうな、なんとも言えない表情の七海の顔があった。

「な、なんだよ」

「現実と創作がリンクしてる夏目さんのために、俺が新原を再現してあげます。実際にしたら、インスピレーションが湧くかもしれないし。だから、目、閉じてください」

初めて間近で下から見る七海は、とても綺麗だった。
まつ毛、こんなに長かったんだ。

じゃ、なくて。

「ちょっと待って!新原くんを再現って、そんなの」

「はやく目閉じてくださいよ、俺のままじゃ気まずいじゃないですか」

七海はこつんとおでこを合わせると、呆れたように言った。

「でも、閉じたって、七海は七海じゃん」

そう口を尖らせると、七海は一瞬だけ困ったように眉毛をへにゃっと曲げた。それは初めて見る顔で、迷子になった子犬みたいだと思った。

でも、すぐにいつものスンッとした顔に戻した七海は、憎まれ口を叩いてきた。

「そこは想像力を働かせてくださいよ。あんた漫画家でしょ」

「ぐっ」

「今すぐに続きが描けるって言うのなら、やめてもいいですけど」

「う、それは……」

「じゃあ、しょうがないですよね」

「んっ、っ!?」

気まずくなって横に逸らした顔を顎を掴んでぐいっと戻されたと同時に、七海からキスが落ちてきた。

「……うそだろ」

「へぇ」

七海は離した唇をぺろりと舐めた後、呟いた。
なに、今の感想。29歳、俺のファーストキスだったんですけど!

出会った頃の七海には彼女がいたから、ゲイじゃないと思ってたけど、もしかして男もいけるんだろうか……
いや、七海は俺のためならなんでもしてくれる男だ。
でも、だからと言って。

ぐるぐる考えているあいだに、いつのまにかまた七海の顔が近くにあった。

「夏目さん、かわいいですね」

「なんっ!?」

避ける間もなく、軽く口付けられてしまった。

「ちょっ、とっ!」

「口あけてたら、舌つっこみますよ」

抗議に対する恐ろしい提案に、俺は大人しく口をつぐんだ。
黙り込んだ俺のくちびるを、七海は指でつついてみたり、なぞったり、好き勝手にして、くすりと笑った。

「どうです、描けそうですか?」

冷たい床で、いきなり一方的なファーストキスなんて。新原くんだったら、もっと優しくて、甘くって、最高のシチュエーションを用意してくれるはず。こんなの、新原くんだと思えるわけがない。

でも、どうしてだろう。なんだかご機嫌な七海を、この距離でずっと独り占めしていたいと思ってしまった。

「あ、そうそう」

七海は俺に覆い被さったまま、スンッとまた感情の読めない顔になった。

「まだラストシーンの構想が浮かばないようであれば、俺はこの先に進んでも構いませんが」

「はぁ!?」

さすが、七海だと思った。
仕事のためとはいえ、普通、ここまでできない。
やっぱりいま目の前にいるのは、誰でもなく、七海だと思った。

「どうしますか?」

返事のない俺の目を覗き込んだ七海の顔は本気だった。
俺が止めなきゃ、このまま本気でやるつもりだ!

「ごめん、描ける、描けるからどいて!」

「ラストシーンは思いつきましたか」

「うん、七海のおかげでバッチリだよ」

「それはよかった」

七海は嬉しそうに笑うと、さっきの甘い雰囲気はどこへやら、さっさと俺の上から体を起こした。

「あと3時間半もあれば間に合いますね」

背伸びしながら時計を見上げた七海の綺麗な顎のラインが、さっきの景色と重なって、つい見惚れてしまった。

「夏目さん、なにしてるんですか、急いでください」

「うんっ」

無事にラストシーンまで描き切った原稿は、七海がバイクで印刷所まで持ち込んでくれた。

まぁ、我ながら、いいシーンが描けたと思う