泣き面に飛んできたのは蜂なのか

 頭上に広がる、今にも雨が降り出しそうな曇天とは裏腹に、俺の心は快晴だ。だって俺は今、学校の屋上の塔屋裏で、大好きな芝井あらた先輩との逢瀬の真っ最中だから。俺の右隣、先輩がいるところだけ、陽が差しているみたいに明るい。
 肩が触れ合う近さで並んで。時々、わざと当ててみたりして。控えめな戯れあいでも、先輩とだから満たされるのだと、綺麗な横顔を盗み見しながら思った。
「俺、あらた先輩とこうやって過ごせて…すごく幸せです」
 吐息をこぼすように呟く。すると、先輩の長い指先が探るように俺の右手に絡んできて、恋人繋ぎをしてくれた。
「僕もだよ。ミチくんといると落ち着く」
 視線が交じるだけで、体温が1度上昇するから恋って不思議だ。自然と、お互いに笑みが溢れる。
 去年の秋に先輩と付き合うようになってから、晴れや曇りの日のお昼は、この塔屋裏でふたりで過ごしていた。あらた先輩も俺も演劇部に所属していて、部活に行けば顔を見ることはできるけれど、ふたりきりで会って、たわいもない話をしたり、触れ合ったりできるのはお昼の45分間だけ。ただでさえ、限られた時間しか会えないのに、悪天候となれば、それすら叶わないこともある。
 そしてここ2週間は梅雨時期ということもあって、連日の雨模様。そのせいで、こうして先輩とふたりきりになれるのも久しぶりだった。この貴重な時間を大切に過ごしたい。繋ぐ手に力が籠る。
 俺の方へ身体が向くように座り直した、先輩の胸ポケットからチャリッと明るい音がする。屋上の鍵だ。
 屋上は基本的に立ち入り禁止で、常に施錠されている。だけど、演劇部の練習場所として使用する関係で、部長である先輩だけは合鍵を所持している。
 屋上で会おうと提案したのは先輩からだった。ここなら万が一、人が来ても見られないからキスもできるよ、職権濫用ってやつだね、そう言って笑った先輩の顔を今でも鮮明に思い出せる。大人びた雰囲気の先輩が、初めて見せた年相応の表情だったから。
「ミチくん」
 大きくて温かい手が、俺の頬に触れる。真っ直ぐ見つめてくれる栗色の瞳が、湿度をもっている。
 先輩はキスをする前、いつも俺の名前を呼ぶ。してもいい?という、先輩なりの確認なんだと思う。優しい先輩らしい控えめな気遣い。だから、たぶん、きっと今回も、そう。
 俺は次を期待して、そっと瞼を閉じた。
「ん…」
 啄むような軽いキス。
 期待通りのものが与えられた嬉しさと、少しの気恥ずかしさ。身体がふわりと浮くような感覚になる。
 もっとしてほしい。ずっと先輩とキスできる関係でいたい。先輩も同じ気持ちだったらいいなと、思う。
「……あらた先輩、もっかい」
 先輩の癖のある栗色の髪が、俺の鼻先をいたずらに撫でてくる距離で、いつものように強請る。
 間もなく先輩は応えてくれた。薄くて、温度が少し低い先輩の唇。さっきより温かい気がするのは、俺の体温が移ったのかな、なんて馬鹿みたいなことを思ったりする。
 先輩の整った顔が遠くなる。少しだけじっとして、おまけのもう一回がないかなと期待する。だけど、先輩の手は俺の頬から離れてしまった。どうやら、もう今日は終わりらしい。先輩からのおかわりがない時、求めているのが俺だけな気がして、いつもちょっとだけ悲しくなる。
「ミチくん」
 また先輩が俺の名前を呼ぶ。
「なんですか?」
 寂しさを悟られたくなくて、少し意識して声を出す。先輩の肩に頭を委ね、恋人繋ぎをしたまま、絡んだ先輩の指先で遊ぶ。
「これからのことなんだけど……」
 その言葉に、俺は視線を上げる。落ちた気持ちが回復する兆しが見えた気がした。
 次のデートの計画かな?それとも次のステップに進もう、とか?
 妄想と期待はむくむくと勝手に膨れて、心をくすぐった。自分でも単純すぎるとは思うが、さっきまでの寂しさは、もうなかった。
 おやつを待つ子犬みたいに先輩の次の言葉を待った。早くと、催促するように先輩の長袖のシャツを引っ張る。
 先輩は柔く微笑んだ後、ゆっくり瞬くと、呟くように言った。
「ーー僕と別れてほしいんだ」
 いつもよりワントーン低い、乾いた先輩の声。
 遊ぶ指を止め、肩から頭を離した。一度曇天を仰いでから、右を向く。
 眼鏡の奥の先輩の瞳は揺れていない。
「え……っと、先輩今なんて……?」
 どうか、聞き間違いであってほしい。願いを込めて先輩を見つめた。
 少しして、先輩は浅く息を吸った。
「ごめん、ミチくん。僕と、別れてほしい」
 今度はゆっくり、言葉を区切りながら先輩は告げた。きっと、一言一句間違いなく俺が聞き取れるようにという配慮だろう。だけど、その優しさが俺の心を抉った。先輩の優しさをいらないと思ったのは、今が初めてだった。
「別れ、る……?な、何でですか?さっきキスだってしたし、今だってこうやって手を繋いでて…」
 動揺が隠せず、声が震えた。別れるなんて、俺と先輩には無縁の言葉だと思っていた。繋がった手を持ち上げれば、そっと解かれてしまった。
「ごめんね」
 先輩の眉は下がっている。でも瞳は濡れていない。
「本気、なんですか……」
「うん」
 先輩は即答した。もう二択の時期はとうに過ぎたらしい。だけど、どうしても納得がいかず、脳みそを全力で稼働し、考える。
 最初から今日振るつもりだったなら、いつも通りに過ごして、キスまでしたのはいったい何故?それとも、振るつもりはなかったけど、この短時間でそうしたくなるようなことを俺がしてしまったとか?後者ならまだなんとかなる?
 答えが出ないうちに先輩が立ち上がる気配がして、俺は慌てて口を開いた。
「……り、理由は何なんですか?俺、何か先輩が嫌がるようなことしましたか?していたなら直します…!だから教えてください…っ」
 思っていたより懇願するような声が出た。みっともなくても、わずかな可能性に縋りたかった。だって、初めて両思いになれた、大好きな人だから。
 栗色の瞳をじっと見つめる。だが、すぐに視線は逸らされてしまった。
「ミチくんは何も悪くないよ。ただ……」
 先輩は言葉を区切り、少しして、
「ミチくんは、男の子だから……かな」
 と言った。
「俺が男、だから……」
 屋上から突き落とされた気分だった。
 今まで性別を理由に恋を諦めてきた俺が、やっと諦めなくていいって思えたのが先輩だった。なのに、俺はまた「男だから」で好きになることも、好きになってもらうことも諦めないといけないのか。
「それを言われたら……何も言えません、ね」
 そう返すのがやっとだった。笑って悲しみを誤魔化したくても、俺の口角の糸はぷつりと切断されてしまっていた。
「ごめんね。……鍵、部活の時返してくれればいいから」
 先輩は鍵を俺の手に載せると、立ち止まることも振り向くこともせず、出口に向かった。さっきまですぐそばにいた背が遠くなるのをぼんやりと見つめた。もう腕を伸ばしても、あの背に手が届くことはないのだ。
 戸の遮断音で我に返る。完全に道は断たれてしまったのだと、小さく絶望した。鍵はこの手に残されているのに。
「嘘でも、悪いところがあったって言ってくれればな……」
 優しい先輩だから、指摘できなかっただけなのかもしれない。だから性別なんてどうしようもできない理由で俺を振った……いや、もしかすると、ただ縋られたくなかっただけなのかも。そうであれば、きっと先輩の選択は最適解だ。性別を盾にされたら、矛を向ける気も起こらないのだから。
 ぽっかり空いてしまった右隣のコンクリートに触れた。まだ、少しだけ温かい。俺は頬を伝う雫を掌で拭った。灰色の空はまだ曇天の明るさを保っている。どうやら俺は空より先に泣いてしまったらしい。
 先輩との別れも涙で洗い流して、なかったことにできないだろうか。曇天を眺めながら、本降りになってきた涙を雑に払った。
「ーー泣いてんの?」
 ふいに、艶のある声が飛んできて、俺は慌てて背後を振り返った。
「だ、誰……?」
 滲む視界を擦り、明らかになったそこには、見覚えのない金髪頭の生徒がいた。目鼻立ちがはっきりした華やかなこの顔に見覚えはない。警戒してじっとしていると、金髪頭はこちらに近づいてきた。いったいこの金髪頭は、いつから屋上にいて、どこまで見ていたのだろうか。先輩が出て行った後か、それとも最初からーー……嫌な汗がじわりと背中に滲んだ。
 目の前までくると、金髪頭はしゃがんで視線を合わせてきた。
「いやー、でもまさか工藤が男と付き合ってたなんてね。しかも直前までキスしていちゃついてんのに振られてるし」
 さも面白いものを見たと言わんばかりの顔に、血の気が引いた。全部見られていたなんて、最悪の展開だ。
「……だっ、誰にも言わないでほしい……!」
 咄嗟に懇願した。見られてしまったことは変えられない。だが、広まることだけはなんとしても阻止したかった。
「どうしよっかなー?」
 もったいぶって話す金髪頭に、俺は頭を深く下げた。
「お願いします……!絶対に知られたくないんだ」
 どう見てもこの金髪頭は集団の中央に座しているタイプの人間だ。台風の目は安全でも、金髪頭が一言漏らせば周りが最大風速で拡散するだろ。そうなれば、俺の学校生活は一瞬で吹き飛んでしまう。
 頭上で金髪頭が笑ったような気がした。恐る恐る顔を上げると、金髪頭はにやりと笑ってきた。
「ならさーー……」
 俺は固唾を飲んで、続きを待つ。いったい何を言われるのか気が気じゃなかった。
「俺と付き合おっか。それなら黙っといてあげる」
 先ほどと打って変わって、邪気のない笑顔を向けられ、俺は目を丸くした。そして耳を疑った。
「はい?」
 誰が誰と付き合うって?
 俺が、この金髪頭と?
 意味がわからず押し黙ると、金髪頭はわざとらしくため息をついてきた。
「そもそもさ、俺のことよくわかってないって顔してるけど、一応タメだから。6組の望月壮太って言うんだけど、聞いたこともない?」
 望月は不満そうに口を尖らした。
 名前は聞いたことがあるなと思った。女子だけでなく、男子の間でもよく話題にあがっていた存在だったから。ただ、答えたくなかった。
 待つことに飽きたのか、望月は俺の前髪を店前の暖簾のように捲って遊び始めた。「噂通りきれーな顔してんね。黒髪似合うとか羨ましー」とか呑気なことを言っている。そんなことはいいから、さっきの条件の意図を説明してほしい。
 相変わらず黙っていると、望月は立ち上がって、見下ろしてきた。
「ま、付き合わないらなら早速クラスに行って話してくるかな。1組の人気者工藤道弥くんは同性愛者でしたーって」
 俺は反射的にスラックスの裾を掴んだ。
「まっ待って!わかった!付き合うから……!だから黙っててほしい!」
 意図なんて、拡散されてしまう危険に比べたら重要度は地にめり込むほど低い。
「いいよ」
 待ってましたと言わんばかりの顔を向けられる。
「本当に、黙っててくれるんだよな……?」
「信用できない?」
 念押しで確認すると、不服そうに眉根を寄せられた。望月の機嫌を損なってしまったら元も子もないのだ。俺は、縦にも横にも首が振れず硬直するしかなかった。
 すると、望月はしゃがみ直し、俺の顎に手を添えて軽く上向かせてきた。
「なら、俺もそっち側行けばいい?」
 望月は首を傾げ、こちらの反応を窺うような眼差しを向けてきている、はずだったが、
「そっち側ってなにーー」
 言い切る前に、俺の唇は柔らかなもので塞がれた。
「これで俺も晴れてそっち側だ」
 顔を離した望月は、右の口角だけを器用に上げた。
 人間、驚きの向こう側に行くと声すら出ないらしい。俺は金魚のように、ただ口を開閉させていた。
「あ、雨」
 頬を撫でた雨粒を、望月は上向けた顔で楽しそうに受け止めた。
「撤退撤退っと」
 弾む声で足取り軽く去ろうとする望月を、俺は呆然と眺めることしかできない。頭が混乱し、何をどう言葉にすればいいのかわからない。
「あ、明日の昼から一緒に飯食うからな。じゃ」
 手を振り、望月は塔屋の向こうに消えていった。一方的な約束を置き土産にして。
「…………さい、あく」
 やっと絞り出せた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
 先輩からしてもらった最後のキスは、あっさり塗り替えられてしまった。人の最悪な不幸を楽しむ最悪な相手によって。
 泣き面に蜂とはまさにこのことだと、俺は残された屋上で、またひとりで泣いた。