頭上に広がる、今にも雨が降り出しそうな曇天とは裏腹に俺の心は快晴だ。
だって俺は今、学校の屋上の塔屋裏で大好きな芝井あらた先輩との逢瀬の真っ最中だから。
俺の右隣、先輩がいるところだけ陽が差しているみたいに明るい。
肩が触れ合う近さで並んで。
時々、わざと当ててみたりして。
控えめな戯れあいでも、先輩とだから満たされるのだと綺麗な横顔を盗み見しながら思った。
「俺、あらた先輩とこうやって過ごせて…すごく幸せです」
吐息をこぼすように呟く。
すると、先輩の長い指先が探るように俺の右手に絡んできて、恋人繋ぎをしてくれた。
「僕もだよ。ミチくんといると落ち着く」
視線が交じるだけで、体温が1度上昇するから恋って不思議だ。自然と、お互いに笑みが溢れる。
去年の秋に先輩と付き合うようになってから、昼休みは塔屋裏で過ごしていた。
あらた先輩も俺も演劇部に所属していて、部活に行けば顔を見ることはできるけれど、ふたりきりで会って、たわいもない話をしたり、触れ合ったりできるのはお昼の45分間だけ。受験を控える先輩とは、休日に会うことは難しかった。
ただでさえ限られた時間しか会えないのに、悪天候となればそれすら叶わないこともある。梅雨時期の今、ここ数日は連日の雨模様。そのせいで、こうして先輩とふたりきりになれるのも久しぶりだった。
俺の方へ身体が向くように座り直す、先輩の胸ポケットからチャリッと明るい音がした。たぶん、屋上の鍵だ。
屋上は基本的に立ち入り禁止で、常に施錠されている。だけど、演劇部の練習場所として使用する関係で部長である先輩だけは合鍵を所持することを許されていた。
だからこそ、屋上で会おうと提案したのは先輩からだった。
ここなら万が一、人が来ても見られないからキスもできるよ、職権濫用ってやつだね、そう言って笑った先輩の顔を今でも鮮明に思い出せる。大人びた雰囲気の先輩が、初めて見せた年相応の表情だったから。
「ミチくん」
大きくて温かい手が、俺の頬に触れる。
真っ直ぐ見つめてくれる栗色の瞳が、湿度をもっている。
先輩はキスをする前、いつも俺の名前を呼ぶ。
してもいい?という、先輩なりの確認なんだと思う。優しい先輩らしい控えめな気遣い。
だから、たぶん、きっと今回も、そう。
俺は次を期待して、そっと瞼を閉じた。
「ん…」
啄むような軽いキス。
期待通りのものが与えられた嬉しさと、少しの気恥ずかしさ。身体がふわりと浮くような感覚になる。
もっとしてほしい。
ずっと先輩とキスできる関係でいたい。
先輩も同じ気持ちだったらいいなと、思う。
「……あらた先輩、もっかい」
先輩の癖のある栗色の髪が俺の鼻先をいたずらに撫でてくる距離で、いつものように強請る。
間もなく先輩は応えてくれた。
薄くて、温度が少し低い先輩の唇。
さっきより温かい気がするのは俺の体温が移ったのかな、なんて馬鹿みたいなことを思ってみたりして。自分がこんな乙女思考を持っているなんて、先輩と付き合うまで知らなかったことだ。
先輩の整った顔が遠くなった。少しだけじっとして、おまけのもう一回がないかなと期待する。
だけど、先輩の手は俺の頬から離れてしまった。どうやら、もう今日は終わりらしい。先輩からのおかわりがないと、求めているのが俺だけな気がしていつもちょっとだけ、悲しくなる。
「ミチくん」
また先輩が俺の名前を呼ぶ。
「なんですか?」
寂しさを悟られたくなくて、少し意識して声を出す。
先輩の肩に頭を委ね、恋人繋ぎをしたまま、絡んだ先輩の指先で遊んだ。
「これからのことなんだけど……」
その言葉に、俺は視線を上げる。
落ちた気持ちが回復する兆しが見えた気がした。
次のデートの計画かな?
それとも次のステップに進もう、とか?
妄想と期待はむくむくと勝手に膨れて、心をくすぐった。自分でも単純すぎるとは思うが、さっきまでの寂しさはあっという間に消えてしまった。
おやつを待つ子犬みたいに先輩の次の言葉を待った。
早く、と催促するように先輩の長袖のシャツを引っ張る。
先輩は柔く微笑んだ後、ゆっくり瞬くと、呟くように言った。
「——僕と別れてほしいんだ」
いつもよりワントーン低い、乾いた先輩の声。
俺は遊ぶ指を止め、先輩の肩から頭を離した。
一度曇天を仰いでから、右を向く。
「え……っと、先輩今なんて……?」
どうか、聞き間違いであってほしい。
願いを込めて先輩を見つめた。眼鏡の奥の先輩の瞳は揺れていなかった。
少しして、先輩は浅く息を吸った。
「ごめん、ミチくん。僕と、別れてほしい」
今度はゆっくり、言葉を区切りながら先輩は告げた。
きっと、一言一句間違いなく俺が聞き取れるようにという配慮だろう。だけど、その優しさが俺の心を抉った。
先輩の優しさをいらないと思ったのは、今が初めてだった。
「別れ、る……?な、何でですか?さっきキスだってしたし、今だってこうやって手を繋いでて…」
動揺が隠せず、声が震えた。
別れるなんて、俺と先輩には無縁の言葉だと思っていた。
繋がった手を持ち上げれば、そっと解かれてしまった。
「ごめんね」
先輩の眉は下がっている。でも瞳は揺れていない。濡れていない。そこには強い意志だけがあるように見えた。
「本気、なんですか……」
「うん」
先輩は即答した。
もう二択の時期はとうに過ぎたらしい。
だけどどうしても納得がいかず、俺は脳みそを全力で稼働させて先輩の思考の道筋を探った。
最初から今日振るつもりだったなら、いつも通りに過ごして、キスまでしたのはいったい何故なんだろ?
それとも振るつもりはなかったけど、この短時間でそうしたくなるようなことを俺がしてしまった、とか?
……後者ならまだなんとかなるだろうか。
導き出されない答えに頭を抱えていると、不意に先輩が立ち上がる気配がした。
このままじゃ、本当に先輩は俺から去ってしまう…!
先輩の行動を制止するように俺は慌てて口を開いた。
「……り、理由は何なんですか?俺、何か先輩が嫌がるようなことしましたか?していたなら直します…!だから教えてください…っ」
思っていたより懇願するような声が出た。
みっともなくても、わずかな可能性に縋りたかった。
だって、初めて両思いになれた、大好きな人だから。
栗色の瞳をじっと見つめる。
だが、すぐに視線は逸らされてしまった。
「ミチくんは何も悪くないよ。ただ……」
先輩は言葉を区切り、少しして、
「ミチくんは、男の子だから……かな」
と言った。
「俺が男、だから……」
屋上から突き落とされた気分だった。
今まで性別を理由に恋を諦めてきた俺が、やっと諦めなくていいって思えたのが先輩だった。
先輩から告白してもらえて、恋をすることを神様から赦されたような気さえしたのに。
なのに、俺はまた「男だから」で好きになることも、好きになってもらうことも諦めないといけないのか。
「それを言われたら……何も言えません、ね」
そう返すのがやっとだった。
笑って悲しみを誤魔化したくても、俺の口角の糸はぷつりと切断されてしまっていた。
「ごめんね。……鍵、部活の時返してくれればいいから」
先輩は鍵を俺の手に載せると、立ち止まることも振り向くこともせず、出口に向かった。
俺は何も言うことも、することもできず、ただぼんやりと離れていく背を見つめた。さっきまですぐそばにいたのに、もう腕を伸ばして手が届かないほど遠い。
戸の遮断音で我に返った。同時に、完全に道は断たれてしまったのだと小さく絶望した。鍵はこの手に残されているのに、先輩へと続く扉は開けられないのだ。
「嘘でも、悪いところがあったって言ってくれればな……」
優しい先輩だから、指摘できなかっただけなのかもしれない。だから性別なんてどうしようもできない理由で俺を振った……いや、もしかすると、ただ縋られたくなかっただけなのかも。
それなら、きっと先輩の選択は最適解だ。
性別を盾にされたら、説得しようと矛を向ける気も起こらないのだから。
ぽっかり空いてしまった右隣のコンクリートに触れた。
まだ、少しだけ温かい。
俺は頬を伝う雫を掌で拭った。
見上げた灰色の空は、まだ曇天の明るさを保っている。どうやら俺は空より先に泣いてしまったらしい。
先輩との別れも涙で洗い流して、なかったことにできないだろうか。
曇天を眺めながら、本降りになってきた涙を雑に払った。
「——泣いてんの?」
不意に、艶のある声が飛んできて俺は慌てて背後を振り返った。
「だ、誰……?」
滲む視界を擦り、明らかになったそこには見覚えのない金髪頭の生徒がいた。
目鼻立ちがはっきりした華やかなこの顔に見覚えはない。
警戒してじっとしていると、金髪頭はこちらに近づいてきた。
いったいこの金髪頭は、いつから屋上にいて、どこまで見ていたのだろうか。
先輩が出て行った後か、それとも最初から——……嫌な汗がじわりと背中に滲んだ。
俺の目の前までくると、金髪頭はしゃがんで視線を合わせてきた。
「いやー、でもまさか工藤が男と付き合ってたなんてね。しかも直前までキスしていちゃついてんのに振られてるし」
さも面白いものを見たと言わんばかりの顔に、血の気が引いた。
全部見られていたなんて、最悪だ。
「……だっ、誰にも言わないでほしい……!」
咄嗟に懇願した。
見られてしまったことは変えられない。だが、広まることだけはなんとしても阻止したかった。
「どうしよっかなー?」
もったいぶって話す金髪頭に、俺は頭を深く下げた。
「お願いします……!絶対に知られたくないんだ」
どう見てもこの金髪頭は集団の中央に座しているタイプの人間だ。台風の目は安全でも、金髪頭が一言漏らせば周りが最大風速で拡散するだろ。そうなれば、まだ残り2年近くある俺の学校生活は一瞬で吹き飛んでしまう。
頭上で金髪頭が笑ったような気がした。
恐る恐る顔を上げると、金髪頭はにやりと笑ってきた。
「ならさ…… ——」
俺は固唾を飲んで、続きを待つ。
いったい何を言われるのか気が気じゃなかった。
「——俺と付き合おっか。それなら黙っといてあげる」
先ほどと打って変わって、邪気のない笑顔を向けられ、俺は目を丸くした。そして耳を疑った。
「はい?」
誰が誰と付き合うって?
俺が、この金髪頭と?
意味がわからず押し黙ると、金髪頭はわざとらしくため息をついてきた。
「そもそもさ、俺のことよくわかってないって顔してるけど、一応タメだから。6組の望月壮太って言うんだけど、聞いたこともない?」
望月は不満そうに口を尖らした。
言われてみれば、名前は聞いたことがある。女子だけでなく、男子の間でもよく話題にあがっていた存在だったから。
ただ特進クラスである6組は渡り廊下を挟んだ向かいの校舎にクラスがあり、特進に友人がいない俺からすれば偶然すれ違って見かけるということもほぼない。
学年行事では一緒になるが、たいして望月という存在に興味がなかったから気にしたことがなかった。ずっと、あらた先輩しか見えていなかったから。
だけど、そんなことは口が裂けても言えない。
言えば絶対にこの状況はさらに悪化する。
俺の返事を待つことに飽きたのか、望月は俺の前髪を店前の暖簾のように捲って遊び始めた。
「噂通りきれーな顔してんね。黒髪似合うとか羨ましー」とか呑気なことを言っている。
そんなことはいいから、さっきの条件の意図を説明してほしいのだが。
相変わらず黙っていると、望月は立ち上がって見下ろしてきた。
「ま、付き合わないらなら早速クラスに行って話してくるかな。1組の人気者工藤道弥くんは、男の先輩と付き合ってキスした後に振られましたーって」
俺は反射的に望月のスラックスの裾を掴んだ。
「まっ待って!わかった!付き合うから……!だから黙っててほしい!」
望月の発言の意図なんて、俺の秘密を拡散されてしまう危険に比べたら重要度は地にめり込むほど低い。
「いいよ、黙っとく」
待ってましたと言わんばかりの顔を向けられる。
望月の掌の上で転がされている自覚はある。だけど選択肢なんて、秘密を握られてしまった俺にはない。
「本当に、黙っててくれるんだよな……?」
念押しで確認すると、不服そうに眉根を寄せられた。
「信用できない?」
その問いに、俺は首を縦にも横にも振れず硬直した。
やってしまった……。
望月の機嫌を損なってしまったら元も子もないのに。なんで訊いてしまったんだ、俺は。
答えあぐねていると望月は再びしゃがみ、俺の顎に手を添えて軽く上向かせてきた。望月の蜜色の瞳に捕らえられる。
「なら、俺もそっち側行けばいいよな?」
望月は首を傾げ、こちらの反応を窺うような眼差しを向けてきている、はずだったが、
「そっち側ってなに——」
言い切る前に、俺の唇は柔らかなもので塞がれた。
「これで俺も晴れてそっち側だ」
顔を離した望月は、右の口角だけを器用に上げた。
人間、驚きの向こう側に行くと声すら出ないらしい。俺は金魚のように、ただ口を開閉させていた。
「あ、雨」
俺たちの頬を撫でた雨粒を、望月は上向けた顔で楽しそうに受け止めた。
「撤退撤退っと」
弾む声で足取り軽く去ろうとする望月を、俺は呆然と眺めることしかできない。
頭が混乱し、何をどう言葉にすればいいのかわからない。
「あ、明日の昼から一緒に飯食うからな。じゃ」
手を振り、望月は塔屋の向こうに消えていった。
一方的な約束を置き土産にして。
「…………さい、あく」
やっと絞り出せた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
先輩からしてもらった最後のキスは、あっさり塗り替えられてしまった。
人の最悪な不幸を楽しむ、最悪な相手によって。
泣き面に蜂とはまさにこのことだと、俺は残された屋上で、またひとりで泣いた。
だって俺は今、学校の屋上の塔屋裏で大好きな芝井あらた先輩との逢瀬の真っ最中だから。
俺の右隣、先輩がいるところだけ陽が差しているみたいに明るい。
肩が触れ合う近さで並んで。
時々、わざと当ててみたりして。
控えめな戯れあいでも、先輩とだから満たされるのだと綺麗な横顔を盗み見しながら思った。
「俺、あらた先輩とこうやって過ごせて…すごく幸せです」
吐息をこぼすように呟く。
すると、先輩の長い指先が探るように俺の右手に絡んできて、恋人繋ぎをしてくれた。
「僕もだよ。ミチくんといると落ち着く」
視線が交じるだけで、体温が1度上昇するから恋って不思議だ。自然と、お互いに笑みが溢れる。
去年の秋に先輩と付き合うようになってから、昼休みは塔屋裏で過ごしていた。
あらた先輩も俺も演劇部に所属していて、部活に行けば顔を見ることはできるけれど、ふたりきりで会って、たわいもない話をしたり、触れ合ったりできるのはお昼の45分間だけ。受験を控える先輩とは、休日に会うことは難しかった。
ただでさえ限られた時間しか会えないのに、悪天候となればそれすら叶わないこともある。梅雨時期の今、ここ数日は連日の雨模様。そのせいで、こうして先輩とふたりきりになれるのも久しぶりだった。
俺の方へ身体が向くように座り直す、先輩の胸ポケットからチャリッと明るい音がした。たぶん、屋上の鍵だ。
屋上は基本的に立ち入り禁止で、常に施錠されている。だけど、演劇部の練習場所として使用する関係で部長である先輩だけは合鍵を所持することを許されていた。
だからこそ、屋上で会おうと提案したのは先輩からだった。
ここなら万が一、人が来ても見られないからキスもできるよ、職権濫用ってやつだね、そう言って笑った先輩の顔を今でも鮮明に思い出せる。大人びた雰囲気の先輩が、初めて見せた年相応の表情だったから。
「ミチくん」
大きくて温かい手が、俺の頬に触れる。
真っ直ぐ見つめてくれる栗色の瞳が、湿度をもっている。
先輩はキスをする前、いつも俺の名前を呼ぶ。
してもいい?という、先輩なりの確認なんだと思う。優しい先輩らしい控えめな気遣い。
だから、たぶん、きっと今回も、そう。
俺は次を期待して、そっと瞼を閉じた。
「ん…」
啄むような軽いキス。
期待通りのものが与えられた嬉しさと、少しの気恥ずかしさ。身体がふわりと浮くような感覚になる。
もっとしてほしい。
ずっと先輩とキスできる関係でいたい。
先輩も同じ気持ちだったらいいなと、思う。
「……あらた先輩、もっかい」
先輩の癖のある栗色の髪が俺の鼻先をいたずらに撫でてくる距離で、いつものように強請る。
間もなく先輩は応えてくれた。
薄くて、温度が少し低い先輩の唇。
さっきより温かい気がするのは俺の体温が移ったのかな、なんて馬鹿みたいなことを思ってみたりして。自分がこんな乙女思考を持っているなんて、先輩と付き合うまで知らなかったことだ。
先輩の整った顔が遠くなった。少しだけじっとして、おまけのもう一回がないかなと期待する。
だけど、先輩の手は俺の頬から離れてしまった。どうやら、もう今日は終わりらしい。先輩からのおかわりがないと、求めているのが俺だけな気がしていつもちょっとだけ、悲しくなる。
「ミチくん」
また先輩が俺の名前を呼ぶ。
「なんですか?」
寂しさを悟られたくなくて、少し意識して声を出す。
先輩の肩に頭を委ね、恋人繋ぎをしたまま、絡んだ先輩の指先で遊んだ。
「これからのことなんだけど……」
その言葉に、俺は視線を上げる。
落ちた気持ちが回復する兆しが見えた気がした。
次のデートの計画かな?
それとも次のステップに進もう、とか?
妄想と期待はむくむくと勝手に膨れて、心をくすぐった。自分でも単純すぎるとは思うが、さっきまでの寂しさはあっという間に消えてしまった。
おやつを待つ子犬みたいに先輩の次の言葉を待った。
早く、と催促するように先輩の長袖のシャツを引っ張る。
先輩は柔く微笑んだ後、ゆっくり瞬くと、呟くように言った。
「——僕と別れてほしいんだ」
いつもよりワントーン低い、乾いた先輩の声。
俺は遊ぶ指を止め、先輩の肩から頭を離した。
一度曇天を仰いでから、右を向く。
「え……っと、先輩今なんて……?」
どうか、聞き間違いであってほしい。
願いを込めて先輩を見つめた。眼鏡の奥の先輩の瞳は揺れていなかった。
少しして、先輩は浅く息を吸った。
「ごめん、ミチくん。僕と、別れてほしい」
今度はゆっくり、言葉を区切りながら先輩は告げた。
きっと、一言一句間違いなく俺が聞き取れるようにという配慮だろう。だけど、その優しさが俺の心を抉った。
先輩の優しさをいらないと思ったのは、今が初めてだった。
「別れ、る……?な、何でですか?さっきキスだってしたし、今だってこうやって手を繋いでて…」
動揺が隠せず、声が震えた。
別れるなんて、俺と先輩には無縁の言葉だと思っていた。
繋がった手を持ち上げれば、そっと解かれてしまった。
「ごめんね」
先輩の眉は下がっている。でも瞳は揺れていない。濡れていない。そこには強い意志だけがあるように見えた。
「本気、なんですか……」
「うん」
先輩は即答した。
もう二択の時期はとうに過ぎたらしい。
だけどどうしても納得がいかず、俺は脳みそを全力で稼働させて先輩の思考の道筋を探った。
最初から今日振るつもりだったなら、いつも通りに過ごして、キスまでしたのはいったい何故なんだろ?
それとも振るつもりはなかったけど、この短時間でそうしたくなるようなことを俺がしてしまった、とか?
……後者ならまだなんとかなるだろうか。
導き出されない答えに頭を抱えていると、不意に先輩が立ち上がる気配がした。
このままじゃ、本当に先輩は俺から去ってしまう…!
先輩の行動を制止するように俺は慌てて口を開いた。
「……り、理由は何なんですか?俺、何か先輩が嫌がるようなことしましたか?していたなら直します…!だから教えてください…っ」
思っていたより懇願するような声が出た。
みっともなくても、わずかな可能性に縋りたかった。
だって、初めて両思いになれた、大好きな人だから。
栗色の瞳をじっと見つめる。
だが、すぐに視線は逸らされてしまった。
「ミチくんは何も悪くないよ。ただ……」
先輩は言葉を区切り、少しして、
「ミチくんは、男の子だから……かな」
と言った。
「俺が男、だから……」
屋上から突き落とされた気分だった。
今まで性別を理由に恋を諦めてきた俺が、やっと諦めなくていいって思えたのが先輩だった。
先輩から告白してもらえて、恋をすることを神様から赦されたような気さえしたのに。
なのに、俺はまた「男だから」で好きになることも、好きになってもらうことも諦めないといけないのか。
「それを言われたら……何も言えません、ね」
そう返すのがやっとだった。
笑って悲しみを誤魔化したくても、俺の口角の糸はぷつりと切断されてしまっていた。
「ごめんね。……鍵、部活の時返してくれればいいから」
先輩は鍵を俺の手に載せると、立ち止まることも振り向くこともせず、出口に向かった。
俺は何も言うことも、することもできず、ただぼんやりと離れていく背を見つめた。さっきまですぐそばにいたのに、もう腕を伸ばして手が届かないほど遠い。
戸の遮断音で我に返った。同時に、完全に道は断たれてしまったのだと小さく絶望した。鍵はこの手に残されているのに、先輩へと続く扉は開けられないのだ。
「嘘でも、悪いところがあったって言ってくれればな……」
優しい先輩だから、指摘できなかっただけなのかもしれない。だから性別なんてどうしようもできない理由で俺を振った……いや、もしかすると、ただ縋られたくなかっただけなのかも。
それなら、きっと先輩の選択は最適解だ。
性別を盾にされたら、説得しようと矛を向ける気も起こらないのだから。
ぽっかり空いてしまった右隣のコンクリートに触れた。
まだ、少しだけ温かい。
俺は頬を伝う雫を掌で拭った。
見上げた灰色の空は、まだ曇天の明るさを保っている。どうやら俺は空より先に泣いてしまったらしい。
先輩との別れも涙で洗い流して、なかったことにできないだろうか。
曇天を眺めながら、本降りになってきた涙を雑に払った。
「——泣いてんの?」
不意に、艶のある声が飛んできて俺は慌てて背後を振り返った。
「だ、誰……?」
滲む視界を擦り、明らかになったそこには見覚えのない金髪頭の生徒がいた。
目鼻立ちがはっきりした華やかなこの顔に見覚えはない。
警戒してじっとしていると、金髪頭はこちらに近づいてきた。
いったいこの金髪頭は、いつから屋上にいて、どこまで見ていたのだろうか。
先輩が出て行った後か、それとも最初から——……嫌な汗がじわりと背中に滲んだ。
俺の目の前までくると、金髪頭はしゃがんで視線を合わせてきた。
「いやー、でもまさか工藤が男と付き合ってたなんてね。しかも直前までキスしていちゃついてんのに振られてるし」
さも面白いものを見たと言わんばかりの顔に、血の気が引いた。
全部見られていたなんて、最悪だ。
「……だっ、誰にも言わないでほしい……!」
咄嗟に懇願した。
見られてしまったことは変えられない。だが、広まることだけはなんとしても阻止したかった。
「どうしよっかなー?」
もったいぶって話す金髪頭に、俺は頭を深く下げた。
「お願いします……!絶対に知られたくないんだ」
どう見てもこの金髪頭は集団の中央に座しているタイプの人間だ。台風の目は安全でも、金髪頭が一言漏らせば周りが最大風速で拡散するだろ。そうなれば、まだ残り2年近くある俺の学校生活は一瞬で吹き飛んでしまう。
頭上で金髪頭が笑ったような気がした。
恐る恐る顔を上げると、金髪頭はにやりと笑ってきた。
「ならさ…… ——」
俺は固唾を飲んで、続きを待つ。
いったい何を言われるのか気が気じゃなかった。
「——俺と付き合おっか。それなら黙っといてあげる」
先ほどと打って変わって、邪気のない笑顔を向けられ、俺は目を丸くした。そして耳を疑った。
「はい?」
誰が誰と付き合うって?
俺が、この金髪頭と?
意味がわからず押し黙ると、金髪頭はわざとらしくため息をついてきた。
「そもそもさ、俺のことよくわかってないって顔してるけど、一応タメだから。6組の望月壮太って言うんだけど、聞いたこともない?」
望月は不満そうに口を尖らした。
言われてみれば、名前は聞いたことがある。女子だけでなく、男子の間でもよく話題にあがっていた存在だったから。
ただ特進クラスである6組は渡り廊下を挟んだ向かいの校舎にクラスがあり、特進に友人がいない俺からすれば偶然すれ違って見かけるということもほぼない。
学年行事では一緒になるが、たいして望月という存在に興味がなかったから気にしたことがなかった。ずっと、あらた先輩しか見えていなかったから。
だけど、そんなことは口が裂けても言えない。
言えば絶対にこの状況はさらに悪化する。
俺の返事を待つことに飽きたのか、望月は俺の前髪を店前の暖簾のように捲って遊び始めた。
「噂通りきれーな顔してんね。黒髪似合うとか羨ましー」とか呑気なことを言っている。
そんなことはいいから、さっきの条件の意図を説明してほしいのだが。
相変わらず黙っていると、望月は立ち上がって見下ろしてきた。
「ま、付き合わないらなら早速クラスに行って話してくるかな。1組の人気者工藤道弥くんは、男の先輩と付き合ってキスした後に振られましたーって」
俺は反射的に望月のスラックスの裾を掴んだ。
「まっ待って!わかった!付き合うから……!だから黙っててほしい!」
望月の発言の意図なんて、俺の秘密を拡散されてしまう危険に比べたら重要度は地にめり込むほど低い。
「いいよ、黙っとく」
待ってましたと言わんばかりの顔を向けられる。
望月の掌の上で転がされている自覚はある。だけど選択肢なんて、秘密を握られてしまった俺にはない。
「本当に、黙っててくれるんだよな……?」
念押しで確認すると、不服そうに眉根を寄せられた。
「信用できない?」
その問いに、俺は首を縦にも横にも振れず硬直した。
やってしまった……。
望月の機嫌を損なってしまったら元も子もないのに。なんで訊いてしまったんだ、俺は。
答えあぐねていると望月は再びしゃがみ、俺の顎に手を添えて軽く上向かせてきた。望月の蜜色の瞳に捕らえられる。
「なら、俺もそっち側行けばいいよな?」
望月は首を傾げ、こちらの反応を窺うような眼差しを向けてきている、はずだったが、
「そっち側ってなに——」
言い切る前に、俺の唇は柔らかなもので塞がれた。
「これで俺も晴れてそっち側だ」
顔を離した望月は、右の口角だけを器用に上げた。
人間、驚きの向こう側に行くと声すら出ないらしい。俺は金魚のように、ただ口を開閉させていた。
「あ、雨」
俺たちの頬を撫でた雨粒を、望月は上向けた顔で楽しそうに受け止めた。
「撤退撤退っと」
弾む声で足取り軽く去ろうとする望月を、俺は呆然と眺めることしかできない。
頭が混乱し、何をどう言葉にすればいいのかわからない。
「あ、明日の昼から一緒に飯食うからな。じゃ」
手を振り、望月は塔屋の向こうに消えていった。
一方的な約束を置き土産にして。
「…………さい、あく」
やっと絞り出せた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
先輩からしてもらった最後のキスは、あっさり塗り替えられてしまった。
人の最悪な不幸を楽しむ、最悪な相手によって。
泣き面に蜂とはまさにこのことだと、俺は残された屋上で、またひとりで泣いた。
