――呪われの国、大和。
帝都の守護をつとめる“表院内”の一つである馨國神社。
そこに住まう一条琴音は、自国がそう呼ばれるようになった日のことを思い出す。
といってもそれは数十年前、鎖国時代の終わり頃の話なので、十七歳の琴音も伝聞としての情報でしかないのだけれど。
鎖国により永らく隔絶された世界で生きてた幕府は、開国を迫る異国に圧倒的な武力を見せつけられて自国の未来を憂いだ。
そのため、それまで陰の存在としてきた妖と契約を交わし、この国の守護として迎え入れた。
異形の妖を従えて交渉の場に訪れた帝の姿に、異国の特使は腰を抜かして恐れおののいたという。
結果、この国は異国の属領に組み込まれることなく、独立国家として近代化の道を進むことが叶った。
国の守護者と呼ぶにはおぞましい、時には人を喰らうこともある妖と共に……
そんないびつな未来を選んだこの国を、異国の特使は〝呪われの国〟と揶揄した。
『妖は守り神にあらず』
それは、亡き琴音の祖父の口癖だ。
帝都三大陰陽師のひとつ、一条家の当主であった琴音の祖父は、生前、妖と共に生きるこの国の未来を危惧していた。
妖の中には、人心を惑わし、時には人を喰らうものもいる。そんな妖が国防に力を貸すのは、己の縄張りを誇示するためと祖父は言う。
「そんなものに頼る段階で、この国は終わっているわ」
琴音がポツリと呟くと、その首筋に冷たい息が触れた。
自分の背後に立つそれがなんであるか、琴音には確認するまでもない。
殺したいのに殺せない敵の気配に、琴音は唇を噛む。
「「人など、妖の糧にすぎぬ」」
神経を引っ掻くような不快な声音と、蜜のように甘美な声音。二種類の異質な声が重なって一つの音となる。
「その糧に飼われているくせに」
琴音の皮肉に、苛立たしげな息遣いを残して背後の気配は空気に溶けていく。
――琴音は、私とお父様に愛されて生まれた誇りを忘れず幸せになって。
祖父に切られて絶命する直前、母が残した願いが琴音を縛る。だから琴音は自ら死を選択することもできずに、孤独にこの呪われの国で生きていくのである。
***
四月吉日。
馨國神社の境内を掃き清めていた琴音は、砂利の参道を歩く男女の一団に目を止めた。
一目で花嫁行列とわかるその一団は、陽光の下、淡く輝き幸せの象徴のように思えた。
「どのお宅のお式なのかしら?」
「一橋の岩島家の夏美様のご婚礼よ」
何気なく呟いた言葉に答えを返されて、驚いて背後を振り返ると、そこには母方の従姉である杉浦虹子の姿がある。
「虹子さん……」
「物欲しげな顔をして、みっともない」
驚く琴音の表情を一瞥して、虹子は意地悪く笑い、誇らしげに己の着物の合わせ目を撫でる。
琴音の一つ年上の虹子は、髪も着物も十七歳の乙女らしい華やかさに満ちている。摩り切れた縞の着物を着て、艶のない髪を一つくくりしている琴音とは大違いだ。
「夏美様のお相手は、華族の成宮様ですって。妖し除けの祈祷もかねてこの馨國神社でお式を挙げた後は、そのまま夫となられる成宮様の横浜のお屋敷に向かわれるそうよ」
ツンと澄ました口調で虹子が語る。
「そう……ですか」
下手に目が合うと、どんな難癖を付けられるかわかったものではない。
先日もたまたま琴音が視線を向けた先に虹子が居ただけで『忌み者のくせにこちらを見るな』と、そばにあった筆入れを投げつけられた。
そういった厄介ごとを避けるため、琴音は花嫁行列へと視線を向けた。
ただそれだけのことなのに、常に琴音を蔑まねば気が済まない虹子は「そんな目で花嫁さんを見て、琴音さんは本当におかわいそう」と、意地悪く言う。
「え?」
「この時代、女の幸せは優れた殿方に娶られることにあるというのに、そんな貧相ななりでは縁談なんてきやしない。これが元は表院内の小頭を務めた一条家の娘とは誰も思わないでしょうね」
虹子はクスクス笑う。
陰陽師が集まって暮らす院内と呼ばれる集落は、日本各地に点在するが、その中でも“表院内”と呼ばれる三カ所の土地は、都の守護の要として特別な意味を持っており、“帝都三大陰陽師”と呼ばれている“弓削”“一条”“土御門”の三家がその守護を任されている。
陰陽師は世襲制との定めはないが、その才能が血筋に影響されていることは確か。
そのためその優れた陰陽師の血筋は尊い存在とされ、三家の家に娘が生まれると、まだ言葉を話す前から縁談が持ち込まれるのが常となっていた。
そのため本来であれば、琴音は、名門一条家のひとり娘として美しく着飾り敬われるべき立場にある。しかし琴音ひとりを残して一条家の者が死に絶えた今、全ては過去の栄華となった。
「私は、結婚など考えておりませんから」
琴音の言葉に、虹子は満足げに頷く。
「そうね。それがいいわ。だってあなた自分の親を殺めた人殺しなんですもの」
(虹子さんは、私を傷付けたくてわざとそんな言い方をされる)
それがわかっていても、彼女の言葉が、鋭い刃物となって琴音の胸に突き刺さり、傷付くことを止められない。
「伯母様もお可哀想に。一条の家などに嫁がなければ、あんな惨い殺され方をしなくて済んだのに」
とどめを刺すように虹子が言う。
その言葉に琴音が手を強く握りしめると、虹子は歌うように「おかわいそう。おかわいそう」と繰り返しながらその場を立ち去る。
「「悔しいなら、あの女を俺が殺してやろうか?」」
ひとり残された琴音に、背後から語りかける声がある。
二種類の異質な声が重なり一つの音となるその声は、妖のそれだ。その声の異質さに警戒心が働く。
妖を憎む琴音には理解できぬことだが、心に隙のある者には、妖の声は甘美なものとして耳に届くのだとか。そしてその声に耳を傾ければ、妖に惑わされ、地獄に身を落とすことになる。
「お前が人を害すれば、その時こそ、私は自害いたします」
毅然とした琴音の言葉に、背後の妖が舌打ちをして気配を消す。
その頃には結婚式の一段も見えなくなっており、掃除を再開していると、茂みが揺れて栗毛の小さな生き物が顔をのぞかせた。
“管狐”という妖だ。
竹筒のような細い管の中に隠れるのが好きで、光るものを集める習性がある。
藪から顔をのぞかせている管狐は、どこかで拾ってきたビー玉を前足で持って見せびらかす。
「いい物を見付けたわね」
琴音が優しく声をかけると、満足したのか管狐は藪の中に姿を消す。
妖の全てが悪ではない。忌避すべきは、人を食らう鬼のような妖であり、それらの危険性を承知で契約を交わした人間だ。
「今日は午後から、叔父さまに代わって魔除けのお札を作らなきゃ」
その前に、叔父家族の昼食の支度もある。
現在馨國神社の宮司は、母方の叔父である杉浦京助が務めているが、陰陽師としての杉浦家は序列は低く、京助にいたっては退魔の才覚がまったく備わっていない。
本人に努力する気もなく、彼にできることといえば、祭事際に、紙に書かれた祝詞を形式通りに読み上げるくらいだ。
そのため陰陽師の資格をもたないが強い霊力を備え、必要な知識を持ち合わせている琴音が、彼に代わりこっそり札を書いている。
そんな才能もやる気もない男だが、琴音が婿を取るまで暫定的に、一条家に代わり馨國神社の宮司を勤めている。
開国よりこちら、妖と渡り合う術を持つ陰陽師や山伏は、国に召し抱えられ、退魔に貢献する対価として、働きに見合った禄をもらうこととなった。
その際、陰陽師を管理するために設けられた掟の中に、『女児、陰陽師にあらず』という一文がある。
優秀な血筋である一条家を断絶させるのは惜しいが、女性である琴音を陰陽師として認めることはできない。
そのため苦肉の策として、琴音が成人して婿を取るまでは、叔父の京助が馨國神社宮司の職を預かることとなり、琴音は叔父夫婦と娘の虹子と共に暮らしている。
それはあくまで琴音が婿を取るまでの暫定措置なのだが、欲深い京助は、一度手に入れた金づるを手放すつもりはない。
この暫定措置が、琴音が婿を取るまでのものだというのであれば、琴音に婿を取らせなければいい。
そうすれば、自分は馨國神社の主として簡単な祝詞をあげるだけで莫大な報償が得られると考え、京助は琴音が男の気を引かぬよう、彼女を下女のようにこき使い、着飾るだけの金と時間の余裕を奪った。
もちろんこれまで、琴音の境遇を案じ、救いの手を差し伸べてきた者もいた。
馨國神社に席を置く他の陰陽師たちは、一条家の血を引く者がこんな扱いを受けていることに憤りを示して意義を申し立てたが、京助が琴音の保護者である以上強く口出しすることもできず歯痒い思いをしていたる。
共に三大陰陽師に数えられ、爵位を持ち陰陽師総代をも務める土御門家の長子、土御門凪雅も京助に強く抗議した一人だ。
琴音より四歳年上の彼は、幼い頃より妹のように可愛がっていた彼女がそのような境遇に置かれているのはしのびないと、琴音が成人し婿を取れる歳になるまで土御門家でその身を預かり、こちらで婿を探すとまで言った。
名家の跡取りで、一条家の婿養子に入ることが許されない凪雅としては、苦肉の策だ。
だがその申し出は、琴音自身が断ったことで立ち消えとなった。
その理由は、琴音の中に渦巻く罪悪感にある。
先ほど虹子が琴音を『忌み者の人殺し』と呼んだように、彼女には……
「おい、そこの女」
あれこれ思い出し心が沈み込んでいた琴音は、凜とした声に顔を上げる。
いつの間に来たのか、ひとりの男性が目の前に立っていた。
仕立てのいい黒いシャツとズボンという洋装に身を包む彼は、艶のある皮靴を履いている。
ここ馨國神社も一応は帝都内なのだが、ひなびた土地のためまだ洋装が珍しい。
(まさか妖?)
気配を感じさせずに自分の前に立った男性に、琴音がそう考えてしまうのは、彼が驚くほど整った容姿をしているからだ。
妖という存在は実際の姿はどうであれ、人を惑わすために美しく化けていることが多い。
目の前の男は、少し癖のある長目の前髪が顔の一部を隠してしまっているが、それでも切れ長の目が涼しげな美しい顔立ちをしていることがわかる。
そのため人間であるか疑わしくなるが、ここは馨國神社の境内。
先代たちが幾重にも張った魔除けの結界に守られているので、邪悪な妖はそうそう足を踏み入れることはできないだはずなのだが。
「耳が聞こえぬか? それとも話せないのか?」
琴音があれこれ考えていると、男が苛立ちの声を上げた。
よく通る彼の声は、少しも割れて聞こえない。
それで今更ながらに相手が人間であることを理解した琴音は、慌てて首を横に振る。
「いえ。聞こえておりますし、口もきけます。どういったご用でしょうか?」
「どういった……」
呟く男は、険しい表情のまま琴音の顔を覗き込んでくる。
切れ長の目はまつ毛も長く、女性の琴音よりよほどきめ細やかな肌をしている。妖だと言われれば、信じる者もいるだろう。
そんな男と無言で見つめ合う琴音は、不思議なことに気が付いた。
人間離れした美しさを持つ彼は、瞳の色は、琴音と同じ栗色をしている。そう思ったのだけど、ずっと見ていると、その瞳の奥では鬼火のような赤い光が揺らめいているのだ。
「あの……」
驚いて声を絞り出す琴音を見詰めて男は問う。
「お前、死人のような目をしているのに、なぜ死なぬ?」
ぶしつけに投げ掛けられた言葉に、琴音は息を飲む。
その瞬間、どこからか伸びてきた拳が男の頭に拳骨を落とした。
「痛っ。なにしやがる」
男は声を荒らげ後ろを振り返る。
見ると、そこには明るい髪色をした制服姿の男が立っていた。
痛そうに手をヒラヒラさせる制服姿の男は、そのまま黒髪の男の首根っこを掴み、強引に琴音と距離を取らせる。
「申し訳ないねぇ、この柊李は、薬師丸家の嫡男として甘やかされて育ったから、女性との口の利き方を知らないんだよ」
明るい髪色の男は、元から細い目をさらに細くして詫びる。
黒髪の男にばかり気を取られていたが、彼には連れがいたらしい。
「いえ」
琴音は首を横に振る。そうしながら相手の姿に視線を走らせる。
(これは、退魔省直属の特別部隊の制服……?)
琴音の記憶違いでなければ、明るい髪色をしたキツネ目の男性が着ているのは、妖退治に特化した特別部隊のものだ。
退魔省とは、元は祭政一致に基づき祭典・宣教を管理していた神祇省の名を改めたものであり、神刀を持って悪鬼を滅っする武闘派集団で、その多くは山伏の流れを汲む者だという。
陰陽師も山伏もその起源は同じだが、魔除けの護符や結界で悪い妖を封じる術に長けた陰陽師を防衛の要とするのであれば、神剣を用いて人に害をなす悪鬼を抹殺する山伏はその逆、攻撃の要と言える。
そのため退魔省直属部隊には、血気盛んな猛者揃いと聞き及ぶ。
中には、文明開化が進んだ今も自国が“呪われの国”と呼ばれることを恥じ、全ての妖を撲滅すべきと主張する乱暴な者もいるのだとか。
そんな噂を耳にしていたので、琴音としては、退魔省直属部隊の人間は無骨な大男ばかりなのだと思い込んでいた。だが目の前の男は、細身でずいぶん人好きのする雰囲気がある。
「牧瀬、黙れ」
黒服の男性もとい柊李は、牧瀬と呼んだ男の手を払いのけた。
牧瀬と呼ばれた男は、柊李に睨まれても気にする様子はない。
「驚かせてごめんね。この柊李がここの宮司と話しをしたいと言っているのだが、いらっしゃるかな?」
牧瀬が言う。
「ぐ、宮司は今ごろ、本殿にて婚礼の祝詞を上げられているかと思います」
琴音は一度。花嫁行列が向かった方へと視線を向けてから答えた。
「だってさ」
牧瀬が柊李に言う。その言葉に、柊李は煩わしげに前髪を掻き上げる。
「婚礼の席に、喪中の俺が乗り込むわけにもいくまい。日を改めるとしよう」
(喪中?)
男が黒い服を着ているのは、そのためだったのだろうか。
「おい女」
「はいっ!」
柊李に睨むような視線を向けられ、琴音は肩を跳ねさせた。
「宮司に、三日後の正午過ぎ、薬師丸家嫡男の柊李が縁談の申し込みに訪問すると伝えておけ」
「縁談……ですか?」
ということは、この男は虹子に縁談を申し込みにきたのだ。
「なにか不満でも?」
「いえ」
琴音はとうに自分の結婚など諦めてはいるが、それでも年頃の娘。
身内の縁談に心がざわつくが、わざわざ言葉にするようなことではない。
「では後日」
柊李はそれだけ言うと牧瀬を従え引き返していく。
「かしこまりました」
琴音は箒を両手で持ったまま深く頭を下げた。
三日後の馨國神社の奥の間。
「薬師丸様はまだか」
宮司である京助は、苛立ちを募らせた眼差しを、お茶を変えにきた琴音に向ける。
「琴音、薬師丸様は、今日の正午過ぎにおこしになると申したのだな? まさか虹子の幸せを妬んで、こっそり薬師丸家に断りの文でも送ったのではなかろうな?」
その言葉に、京助の隣でめかし込んでいる虹子とその母のキヨが目尻をつり上げて琴音を睨むが、とんだ言いがかりだ。
琴音は文を出すだけの金銭を与えられていないし、朝から晩までこき使われていて、家を抜け出す暇もない。そもそも薬師丸家がどこにあるのかも知らないのだ。
ここまで京助たちが色めきだっているのは、薬師丸家が名の知れた名家だからだ。
「今や虹子は馨國神社宮司の娘。あの薬師丸家が嫁に望むのも当然よね」
「ここは帝都を守る結界の“表院内”の一つ。その土地の小頭の娘である虹子は、尊ばれるべき存在だ。かたや薬師丸家も“裏院内”の一つを任される名家。これ以上の良縁もなかなかないだろうに」
暫定的な宮司に過ぎないことも忘れて、キヨと京助が誇らしげに語り合う。
「薬師丸家は、江戸の頃よりの名家で退魔省設立の時より大役を務め、多くの武勲を挙げ爵位も与えられている家柄。しかも柊李殿は商才にも秀でているとか」
そんな家に虹子が嫁ぐ未来を想像して、一家は下卑た笑みを浮かべる。
京助が言う“裏院内”とは、“表院内”と対を成す存在だ。
三大陰陽師家はそれぞれに、北を頂点に帝都を囲う形で正三角形に配置された三箇所の神社の宮司を任されている。
それと同じように“裏院内”は、南を頂点に帝都を囲う形で正三角形に配置された三つ神社の管理が任されおり、その両者の三角形が重なる六芒星の庇護下に国の中枢機関が集められている。
それらの管理を任されるのは名誉職である。
「なんでも柊李様は昨年、許嫁が亡くされ、その後も災難続きだとか。この虹子が傷付いた心を癒やしてあげなくちゃ」
すでに薬師丸家に嫁ぐき満々の虹子が言う。
先日、彼が自分は喪中と話していたのはそういうことらしい。
琴音としては、まだ喪も明けないうちから次の花嫁を探すという感覚が理解できないが、血筋を残すことを最優先にしている名家としてはそれが普通なのだろうか。
(私には、理解できないけど……)
この時代には珍しく琴音の両親は恋愛結婚だった。
同じ陰陽師の家柄とはいえ、一条家から見れば母の生家である杉浦家はかなり格下の存在。そのためふたりの結婚に反対するものも少なからずいたと聞く。
それでも父が琴音の母以外を娶るつもりはないと譲らず、血筋が途絶えることを懸念した周囲が折れることになったのだという。
琴音の母は、よく琴音に『どんな苦難に襲われても、運命の人に出会えたのならその手を離しては駄目よ』『愛する人と一緒でなければ、どれだけ裕福でも人は寂しいままなの』と、語っていた。
それはもちろん父を心から愛していたからこその言葉なのだろうけど、母の末路を知る琴音としては、いっそもっと早くに父の手を離せばよかったのにと思う。
そうすれば、少なくとも母までが命を落とすことはなかった。
「おいっ」
つい物思いにふけっていた琴音は、苛立った京助の顔に視線を上げた。
「道に迷っているかもしれん。お前、一度表を見てこい」
一度境内を訪れているのだから迷うはずがないのだが、叔父に命じられた琴音は黙って立ち上がった。
「ほんとうに薄気味悪い子。あんな娘を庇ったせいで殺されるなんて、時枝さんもお気の毒に」
背後でキヨの声がする。
時枝とは琴音の母の名前だ。
その後も部屋を出て行く琴音に聞かせるように、口々に時枝への同情の言葉が続く。
その声に心をえぐられながら、琴音が廊下を歩いていると、またあのひび割れた声が聞こえる。
「「悔しいなら、殺してやるのに」」
甘く人間を惑わせ、地獄へと誘う妖の声。
耳元で聞こえるその囁きを無視して、琴音は外へと向かった。
とりあえず正面の鳥居を目指して歩いていた琴音は、ご神木の前で足を止めた。
「薬師丸様、ここでなにをされているんですか?」
今日の柊李は、先日彼に同行していた牧瀬と同じ退魔省直属部隊の制服に身を包んでいる。
前回は顔を隠していた長い前髪も、今日は後ろに流していて、彼の凜々しい顔がよく見える。
足早に駆け寄る琴音を見て、柊李は薄く笑う。
「ここにいれば、お前が探しにくると思ってな」
どう反応すればいいかわからず、琴音は彼の発言を聞き流してその前に立ち一礼する。
「皆が薬師丸様の到着をお待ちしております」
だからこちらへどうぞと、琴音は手の動きで移動を促すが、相手がそれに応じてくれる気配はない。
「あんな欲の皮が突っ張った狸ども、待たせておけばいい」
すげなく返して、柊李はご神木の幹をなでる。
「狸……」
琴音がもの言いたげな視線を向けるけど、柊李は気にせず話題を変える。
「この神社ではご神木を隠していないんだな」
境内には、大地に宿る神聖な気を取り込み、邪気を払う役割を担う神木が植えられている。
その御利益にあやかりたいと、神木の幹に触れたがる者が多く、時折、更なる御利益を求めてその一部を持って帰ろうと幹に傷を付ける不届き者もいるため、神社によっては、偽物のご神木を用意しているところもあるという。
もちろんそんな小手先の嘘は、琴音や柊李のように霊力を持つ者には通用しない。幹に触れれば、そうとわかるのだ。
「このご神木も皮を剥がれたり、幹の一部を削られたりしたことがあったそうです。それでも先代宮司は、罪を犯してでも神仏にすがる者にはそれなりの理由があるのだから、必死に救いを求める者を騙すようなことはしたくないと話されていました」
琴音の言う先代宮司とは、彼女の祖父のことだ。
父も祖父も、名門陰陽師家の生まれに恥じることのない強い霊力の持ち主だった。中でも一条家史上最高の霊力を持つと言われていた祖父は、優れた才を持つ者はその力を民衆に寄与すべきと考えていた。
「そのために払った犠牲を考えると、愚かとしか言えんな」
柊李が冷ややかな声で祖父の言葉を切って捨てる。
「え?」
思いがけない言葉に琴音は息を呑むが、彼の態度は変わらない。
「九年前、京の都で暴れた悪鬼は、関西在住の陰陽師が束になってもかなわなかった。多くの仲間を失い、東に援軍を求めたが、当時の帝都の退魔省でさえ二の足を踏んでいた。そんな状況でも、一条家だけは民のためにと出陣した」
その時のことは、琴音もよく覚えている。
琴音は視線を遠くに向けて、その日のことを思い出す。
その鬼は凶暴で、和解の余地など持ち合わせていなかった。
そんな鬼と対峙するため、祖父は何故か陰陽師である父だけでなく、琴音にも同行するように言った。
将来的にも陰陽師になる可能性がない琴音を随行させることに両親は難色を示したが、家長である祖父の意見に負けて渋々それに従うこととなり、結果、まだ幼い琴音の世話をするために母の時枝も一緒に京に赴くこととなった。
京へ向かう道すがら、祖父は何度も家族に『この身を差し出してでも、あの鬼は滅さねばいかん。それを理解してくれ』と話していた。
その言葉に琴音たち親子は、祖父は鬼と刺し違える覚悟でいるのだと察していた。
だからこそ、自分の最後を見せるために、幼い琴音も同行させるのだと……。
「そして見事鬼を仕留めた代わり、一条家は鬼の呪詛により、幼い孫娘ひとりを残して死に絶えた」
それこそが、京助一家が時枝を哀れみ、琴音を『忌み者』や『人殺し』と呼ぶ由縁だ。
もし時江が一条家に嫁いでいなければ、もし幼い琴音の世話をするために随行していなければ、その人生は違ったものになったはず。
その罪悪感があるから、自分に救いの手を差し伸べてくれる人がいても、琴音はその手を取ることができずにいるのだ。
「結果、一人残された一条家の娘は、死んだように生きている」
その言葉に、琴音は弾かれたように柊李を見た。
「よく……私がそうだと気付かれましたね」
琴音は、驚きのあまり素直な疑問をくちにした。
一条家のこみ入った事情を知らない者は、着飾った虹子が一条家の娘で、琴音のことは下女だと思い込む。
「纏う霊力でわかる」
そう言って、柊李は、琴音の手首を掴み顔を寄せた。
その瞳の奥にはやはり、鬼火のごとく赤い光が時折揺らめいている。そのことに琴音が驚いている隙に柊李が続ける。
「相変わらず死んだような顔をしているな。……どうだ、このまま死んだように生きるだけなら、その人生を俺に預けてみないか?」
「どういう、意味でしょうか?」
キョトンとする琴音が面白かったのか、柊李が小さく笑い、とんでもないことを言う。
「俺の嫁になれということだ」
「はい? や、薬師丸様は従姉の虹子に結婚の申し込みをされにこられたのではないのですか?」
そこまで話して、自分が彼を探しにきた本来の目的を思い出す。
早く彼を、京助たちのところに連れて行かなくては。
それなのに柊李は「なんのことだ?」と首をかしげて琴音を指さす。
「俺が嫁に娶りたいのはお前だ」
「ですが……先日、私に『縁談の申し込みに訪問する』と話されていたじゃないですか? あれは、虹子のことですよね?」
「なにを言っている? 先日、俺はお前に縁談を申し込んだはずだ。その証拠にお前も『かしこまりました』と返したではないか。だからこのまま、俺の嫁になってもらいたい」
「あ、あれは、そういう意味では……」
予想外の言葉に驚き、琴音は声をうわずらせるが、柊李は気にしない。
「本気だ。どうだ? 俺と夫婦にならないか?」
「じょ、冗談はやめてください」
どうにか声を絞り出し琴音に、瞳の奥に赤い鬼火を宿した男は、「実は俺も少々訳ありでな」と事情を語り出す。
帝都の守護をつとめる“表院内”の一つである馨國神社。
そこに住まう一条琴音は、自国がそう呼ばれるようになった日のことを思い出す。
といってもそれは数十年前、鎖国時代の終わり頃の話なので、十七歳の琴音も伝聞としての情報でしかないのだけれど。
鎖国により永らく隔絶された世界で生きてた幕府は、開国を迫る異国に圧倒的な武力を見せつけられて自国の未来を憂いだ。
そのため、それまで陰の存在としてきた妖と契約を交わし、この国の守護として迎え入れた。
異形の妖を従えて交渉の場に訪れた帝の姿に、異国の特使は腰を抜かして恐れおののいたという。
結果、この国は異国の属領に組み込まれることなく、独立国家として近代化の道を進むことが叶った。
国の守護者と呼ぶにはおぞましい、時には人を喰らうこともある妖と共に……
そんないびつな未来を選んだこの国を、異国の特使は〝呪われの国〟と揶揄した。
『妖は守り神にあらず』
それは、亡き琴音の祖父の口癖だ。
帝都三大陰陽師のひとつ、一条家の当主であった琴音の祖父は、生前、妖と共に生きるこの国の未来を危惧していた。
妖の中には、人心を惑わし、時には人を喰らうものもいる。そんな妖が国防に力を貸すのは、己の縄張りを誇示するためと祖父は言う。
「そんなものに頼る段階で、この国は終わっているわ」
琴音がポツリと呟くと、その首筋に冷たい息が触れた。
自分の背後に立つそれがなんであるか、琴音には確認するまでもない。
殺したいのに殺せない敵の気配に、琴音は唇を噛む。
「「人など、妖の糧にすぎぬ」」
神経を引っ掻くような不快な声音と、蜜のように甘美な声音。二種類の異質な声が重なって一つの音となる。
「その糧に飼われているくせに」
琴音の皮肉に、苛立たしげな息遣いを残して背後の気配は空気に溶けていく。
――琴音は、私とお父様に愛されて生まれた誇りを忘れず幸せになって。
祖父に切られて絶命する直前、母が残した願いが琴音を縛る。だから琴音は自ら死を選択することもできずに、孤独にこの呪われの国で生きていくのである。
***
四月吉日。
馨國神社の境内を掃き清めていた琴音は、砂利の参道を歩く男女の一団に目を止めた。
一目で花嫁行列とわかるその一団は、陽光の下、淡く輝き幸せの象徴のように思えた。
「どのお宅のお式なのかしら?」
「一橋の岩島家の夏美様のご婚礼よ」
何気なく呟いた言葉に答えを返されて、驚いて背後を振り返ると、そこには母方の従姉である杉浦虹子の姿がある。
「虹子さん……」
「物欲しげな顔をして、みっともない」
驚く琴音の表情を一瞥して、虹子は意地悪く笑い、誇らしげに己の着物の合わせ目を撫でる。
琴音の一つ年上の虹子は、髪も着物も十七歳の乙女らしい華やかさに満ちている。摩り切れた縞の着物を着て、艶のない髪を一つくくりしている琴音とは大違いだ。
「夏美様のお相手は、華族の成宮様ですって。妖し除けの祈祷もかねてこの馨國神社でお式を挙げた後は、そのまま夫となられる成宮様の横浜のお屋敷に向かわれるそうよ」
ツンと澄ました口調で虹子が語る。
「そう……ですか」
下手に目が合うと、どんな難癖を付けられるかわかったものではない。
先日もたまたま琴音が視線を向けた先に虹子が居ただけで『忌み者のくせにこちらを見るな』と、そばにあった筆入れを投げつけられた。
そういった厄介ごとを避けるため、琴音は花嫁行列へと視線を向けた。
ただそれだけのことなのに、常に琴音を蔑まねば気が済まない虹子は「そんな目で花嫁さんを見て、琴音さんは本当におかわいそう」と、意地悪く言う。
「え?」
「この時代、女の幸せは優れた殿方に娶られることにあるというのに、そんな貧相ななりでは縁談なんてきやしない。これが元は表院内の小頭を務めた一条家の娘とは誰も思わないでしょうね」
虹子はクスクス笑う。
陰陽師が集まって暮らす院内と呼ばれる集落は、日本各地に点在するが、その中でも“表院内”と呼ばれる三カ所の土地は、都の守護の要として特別な意味を持っており、“帝都三大陰陽師”と呼ばれている“弓削”“一条”“土御門”の三家がその守護を任されている。
陰陽師は世襲制との定めはないが、その才能が血筋に影響されていることは確か。
そのためその優れた陰陽師の血筋は尊い存在とされ、三家の家に娘が生まれると、まだ言葉を話す前から縁談が持ち込まれるのが常となっていた。
そのため本来であれば、琴音は、名門一条家のひとり娘として美しく着飾り敬われるべき立場にある。しかし琴音ひとりを残して一条家の者が死に絶えた今、全ては過去の栄華となった。
「私は、結婚など考えておりませんから」
琴音の言葉に、虹子は満足げに頷く。
「そうね。それがいいわ。だってあなた自分の親を殺めた人殺しなんですもの」
(虹子さんは、私を傷付けたくてわざとそんな言い方をされる)
それがわかっていても、彼女の言葉が、鋭い刃物となって琴音の胸に突き刺さり、傷付くことを止められない。
「伯母様もお可哀想に。一条の家などに嫁がなければ、あんな惨い殺され方をしなくて済んだのに」
とどめを刺すように虹子が言う。
その言葉に琴音が手を強く握りしめると、虹子は歌うように「おかわいそう。おかわいそう」と繰り返しながらその場を立ち去る。
「「悔しいなら、あの女を俺が殺してやろうか?」」
ひとり残された琴音に、背後から語りかける声がある。
二種類の異質な声が重なり一つの音となるその声は、妖のそれだ。その声の異質さに警戒心が働く。
妖を憎む琴音には理解できぬことだが、心に隙のある者には、妖の声は甘美なものとして耳に届くのだとか。そしてその声に耳を傾ければ、妖に惑わされ、地獄に身を落とすことになる。
「お前が人を害すれば、その時こそ、私は自害いたします」
毅然とした琴音の言葉に、背後の妖が舌打ちをして気配を消す。
その頃には結婚式の一段も見えなくなっており、掃除を再開していると、茂みが揺れて栗毛の小さな生き物が顔をのぞかせた。
“管狐”という妖だ。
竹筒のような細い管の中に隠れるのが好きで、光るものを集める習性がある。
藪から顔をのぞかせている管狐は、どこかで拾ってきたビー玉を前足で持って見せびらかす。
「いい物を見付けたわね」
琴音が優しく声をかけると、満足したのか管狐は藪の中に姿を消す。
妖の全てが悪ではない。忌避すべきは、人を食らう鬼のような妖であり、それらの危険性を承知で契約を交わした人間だ。
「今日は午後から、叔父さまに代わって魔除けのお札を作らなきゃ」
その前に、叔父家族の昼食の支度もある。
現在馨國神社の宮司は、母方の叔父である杉浦京助が務めているが、陰陽師としての杉浦家は序列は低く、京助にいたっては退魔の才覚がまったく備わっていない。
本人に努力する気もなく、彼にできることといえば、祭事際に、紙に書かれた祝詞を形式通りに読み上げるくらいだ。
そのため陰陽師の資格をもたないが強い霊力を備え、必要な知識を持ち合わせている琴音が、彼に代わりこっそり札を書いている。
そんな才能もやる気もない男だが、琴音が婿を取るまで暫定的に、一条家に代わり馨國神社の宮司を勤めている。
開国よりこちら、妖と渡り合う術を持つ陰陽師や山伏は、国に召し抱えられ、退魔に貢献する対価として、働きに見合った禄をもらうこととなった。
その際、陰陽師を管理するために設けられた掟の中に、『女児、陰陽師にあらず』という一文がある。
優秀な血筋である一条家を断絶させるのは惜しいが、女性である琴音を陰陽師として認めることはできない。
そのため苦肉の策として、琴音が成人して婿を取るまでは、叔父の京助が馨國神社宮司の職を預かることとなり、琴音は叔父夫婦と娘の虹子と共に暮らしている。
それはあくまで琴音が婿を取るまでの暫定措置なのだが、欲深い京助は、一度手に入れた金づるを手放すつもりはない。
この暫定措置が、琴音が婿を取るまでのものだというのであれば、琴音に婿を取らせなければいい。
そうすれば、自分は馨國神社の主として簡単な祝詞をあげるだけで莫大な報償が得られると考え、京助は琴音が男の気を引かぬよう、彼女を下女のようにこき使い、着飾るだけの金と時間の余裕を奪った。
もちろんこれまで、琴音の境遇を案じ、救いの手を差し伸べてきた者もいた。
馨國神社に席を置く他の陰陽師たちは、一条家の血を引く者がこんな扱いを受けていることに憤りを示して意義を申し立てたが、京助が琴音の保護者である以上強く口出しすることもできず歯痒い思いをしていたる。
共に三大陰陽師に数えられ、爵位を持ち陰陽師総代をも務める土御門家の長子、土御門凪雅も京助に強く抗議した一人だ。
琴音より四歳年上の彼は、幼い頃より妹のように可愛がっていた彼女がそのような境遇に置かれているのはしのびないと、琴音が成人し婿を取れる歳になるまで土御門家でその身を預かり、こちらで婿を探すとまで言った。
名家の跡取りで、一条家の婿養子に入ることが許されない凪雅としては、苦肉の策だ。
だがその申し出は、琴音自身が断ったことで立ち消えとなった。
その理由は、琴音の中に渦巻く罪悪感にある。
先ほど虹子が琴音を『忌み者の人殺し』と呼んだように、彼女には……
「おい、そこの女」
あれこれ思い出し心が沈み込んでいた琴音は、凜とした声に顔を上げる。
いつの間に来たのか、ひとりの男性が目の前に立っていた。
仕立てのいい黒いシャツとズボンという洋装に身を包む彼は、艶のある皮靴を履いている。
ここ馨國神社も一応は帝都内なのだが、ひなびた土地のためまだ洋装が珍しい。
(まさか妖?)
気配を感じさせずに自分の前に立った男性に、琴音がそう考えてしまうのは、彼が驚くほど整った容姿をしているからだ。
妖という存在は実際の姿はどうであれ、人を惑わすために美しく化けていることが多い。
目の前の男は、少し癖のある長目の前髪が顔の一部を隠してしまっているが、それでも切れ長の目が涼しげな美しい顔立ちをしていることがわかる。
そのため人間であるか疑わしくなるが、ここは馨國神社の境内。
先代たちが幾重にも張った魔除けの結界に守られているので、邪悪な妖はそうそう足を踏み入れることはできないだはずなのだが。
「耳が聞こえぬか? それとも話せないのか?」
琴音があれこれ考えていると、男が苛立ちの声を上げた。
よく通る彼の声は、少しも割れて聞こえない。
それで今更ながらに相手が人間であることを理解した琴音は、慌てて首を横に振る。
「いえ。聞こえておりますし、口もきけます。どういったご用でしょうか?」
「どういった……」
呟く男は、険しい表情のまま琴音の顔を覗き込んでくる。
切れ長の目はまつ毛も長く、女性の琴音よりよほどきめ細やかな肌をしている。妖だと言われれば、信じる者もいるだろう。
そんな男と無言で見つめ合う琴音は、不思議なことに気が付いた。
人間離れした美しさを持つ彼は、瞳の色は、琴音と同じ栗色をしている。そう思ったのだけど、ずっと見ていると、その瞳の奥では鬼火のような赤い光が揺らめいているのだ。
「あの……」
驚いて声を絞り出す琴音を見詰めて男は問う。
「お前、死人のような目をしているのに、なぜ死なぬ?」
ぶしつけに投げ掛けられた言葉に、琴音は息を飲む。
その瞬間、どこからか伸びてきた拳が男の頭に拳骨を落とした。
「痛っ。なにしやがる」
男は声を荒らげ後ろを振り返る。
見ると、そこには明るい髪色をした制服姿の男が立っていた。
痛そうに手をヒラヒラさせる制服姿の男は、そのまま黒髪の男の首根っこを掴み、強引に琴音と距離を取らせる。
「申し訳ないねぇ、この柊李は、薬師丸家の嫡男として甘やかされて育ったから、女性との口の利き方を知らないんだよ」
明るい髪色の男は、元から細い目をさらに細くして詫びる。
黒髪の男にばかり気を取られていたが、彼には連れがいたらしい。
「いえ」
琴音は首を横に振る。そうしながら相手の姿に視線を走らせる。
(これは、退魔省直属の特別部隊の制服……?)
琴音の記憶違いでなければ、明るい髪色をしたキツネ目の男性が着ているのは、妖退治に特化した特別部隊のものだ。
退魔省とは、元は祭政一致に基づき祭典・宣教を管理していた神祇省の名を改めたものであり、神刀を持って悪鬼を滅っする武闘派集団で、その多くは山伏の流れを汲む者だという。
陰陽師も山伏もその起源は同じだが、魔除けの護符や結界で悪い妖を封じる術に長けた陰陽師を防衛の要とするのであれば、神剣を用いて人に害をなす悪鬼を抹殺する山伏はその逆、攻撃の要と言える。
そのため退魔省直属部隊には、血気盛んな猛者揃いと聞き及ぶ。
中には、文明開化が進んだ今も自国が“呪われの国”と呼ばれることを恥じ、全ての妖を撲滅すべきと主張する乱暴な者もいるのだとか。
そんな噂を耳にしていたので、琴音としては、退魔省直属部隊の人間は無骨な大男ばかりなのだと思い込んでいた。だが目の前の男は、細身でずいぶん人好きのする雰囲気がある。
「牧瀬、黙れ」
黒服の男性もとい柊李は、牧瀬と呼んだ男の手を払いのけた。
牧瀬と呼ばれた男は、柊李に睨まれても気にする様子はない。
「驚かせてごめんね。この柊李がここの宮司と話しをしたいと言っているのだが、いらっしゃるかな?」
牧瀬が言う。
「ぐ、宮司は今ごろ、本殿にて婚礼の祝詞を上げられているかと思います」
琴音は一度。花嫁行列が向かった方へと視線を向けてから答えた。
「だってさ」
牧瀬が柊李に言う。その言葉に、柊李は煩わしげに前髪を掻き上げる。
「婚礼の席に、喪中の俺が乗り込むわけにもいくまい。日を改めるとしよう」
(喪中?)
男が黒い服を着ているのは、そのためだったのだろうか。
「おい女」
「はいっ!」
柊李に睨むような視線を向けられ、琴音は肩を跳ねさせた。
「宮司に、三日後の正午過ぎ、薬師丸家嫡男の柊李が縁談の申し込みに訪問すると伝えておけ」
「縁談……ですか?」
ということは、この男は虹子に縁談を申し込みにきたのだ。
「なにか不満でも?」
「いえ」
琴音はとうに自分の結婚など諦めてはいるが、それでも年頃の娘。
身内の縁談に心がざわつくが、わざわざ言葉にするようなことではない。
「では後日」
柊李はそれだけ言うと牧瀬を従え引き返していく。
「かしこまりました」
琴音は箒を両手で持ったまま深く頭を下げた。
三日後の馨國神社の奥の間。
「薬師丸様はまだか」
宮司である京助は、苛立ちを募らせた眼差しを、お茶を変えにきた琴音に向ける。
「琴音、薬師丸様は、今日の正午過ぎにおこしになると申したのだな? まさか虹子の幸せを妬んで、こっそり薬師丸家に断りの文でも送ったのではなかろうな?」
その言葉に、京助の隣でめかし込んでいる虹子とその母のキヨが目尻をつり上げて琴音を睨むが、とんだ言いがかりだ。
琴音は文を出すだけの金銭を与えられていないし、朝から晩までこき使われていて、家を抜け出す暇もない。そもそも薬師丸家がどこにあるのかも知らないのだ。
ここまで京助たちが色めきだっているのは、薬師丸家が名の知れた名家だからだ。
「今や虹子は馨國神社宮司の娘。あの薬師丸家が嫁に望むのも当然よね」
「ここは帝都を守る結界の“表院内”の一つ。その土地の小頭の娘である虹子は、尊ばれるべき存在だ。かたや薬師丸家も“裏院内”の一つを任される名家。これ以上の良縁もなかなかないだろうに」
暫定的な宮司に過ぎないことも忘れて、キヨと京助が誇らしげに語り合う。
「薬師丸家は、江戸の頃よりの名家で退魔省設立の時より大役を務め、多くの武勲を挙げ爵位も与えられている家柄。しかも柊李殿は商才にも秀でているとか」
そんな家に虹子が嫁ぐ未来を想像して、一家は下卑た笑みを浮かべる。
京助が言う“裏院内”とは、“表院内”と対を成す存在だ。
三大陰陽師家はそれぞれに、北を頂点に帝都を囲う形で正三角形に配置された三箇所の神社の宮司を任されている。
それと同じように“裏院内”は、南を頂点に帝都を囲う形で正三角形に配置された三つ神社の管理が任されおり、その両者の三角形が重なる六芒星の庇護下に国の中枢機関が集められている。
それらの管理を任されるのは名誉職である。
「なんでも柊李様は昨年、許嫁が亡くされ、その後も災難続きだとか。この虹子が傷付いた心を癒やしてあげなくちゃ」
すでに薬師丸家に嫁ぐき満々の虹子が言う。
先日、彼が自分は喪中と話していたのはそういうことらしい。
琴音としては、まだ喪も明けないうちから次の花嫁を探すという感覚が理解できないが、血筋を残すことを最優先にしている名家としてはそれが普通なのだろうか。
(私には、理解できないけど……)
この時代には珍しく琴音の両親は恋愛結婚だった。
同じ陰陽師の家柄とはいえ、一条家から見れば母の生家である杉浦家はかなり格下の存在。そのためふたりの結婚に反対するものも少なからずいたと聞く。
それでも父が琴音の母以外を娶るつもりはないと譲らず、血筋が途絶えることを懸念した周囲が折れることになったのだという。
琴音の母は、よく琴音に『どんな苦難に襲われても、運命の人に出会えたのならその手を離しては駄目よ』『愛する人と一緒でなければ、どれだけ裕福でも人は寂しいままなの』と、語っていた。
それはもちろん父を心から愛していたからこその言葉なのだろうけど、母の末路を知る琴音としては、いっそもっと早くに父の手を離せばよかったのにと思う。
そうすれば、少なくとも母までが命を落とすことはなかった。
「おいっ」
つい物思いにふけっていた琴音は、苛立った京助の顔に視線を上げた。
「道に迷っているかもしれん。お前、一度表を見てこい」
一度境内を訪れているのだから迷うはずがないのだが、叔父に命じられた琴音は黙って立ち上がった。
「ほんとうに薄気味悪い子。あんな娘を庇ったせいで殺されるなんて、時枝さんもお気の毒に」
背後でキヨの声がする。
時枝とは琴音の母の名前だ。
その後も部屋を出て行く琴音に聞かせるように、口々に時枝への同情の言葉が続く。
その声に心をえぐられながら、琴音が廊下を歩いていると、またあのひび割れた声が聞こえる。
「「悔しいなら、殺してやるのに」」
甘く人間を惑わせ、地獄へと誘う妖の声。
耳元で聞こえるその囁きを無視して、琴音は外へと向かった。
とりあえず正面の鳥居を目指して歩いていた琴音は、ご神木の前で足を止めた。
「薬師丸様、ここでなにをされているんですか?」
今日の柊李は、先日彼に同行していた牧瀬と同じ退魔省直属部隊の制服に身を包んでいる。
前回は顔を隠していた長い前髪も、今日は後ろに流していて、彼の凜々しい顔がよく見える。
足早に駆け寄る琴音を見て、柊李は薄く笑う。
「ここにいれば、お前が探しにくると思ってな」
どう反応すればいいかわからず、琴音は彼の発言を聞き流してその前に立ち一礼する。
「皆が薬師丸様の到着をお待ちしております」
だからこちらへどうぞと、琴音は手の動きで移動を促すが、相手がそれに応じてくれる気配はない。
「あんな欲の皮が突っ張った狸ども、待たせておけばいい」
すげなく返して、柊李はご神木の幹をなでる。
「狸……」
琴音がもの言いたげな視線を向けるけど、柊李は気にせず話題を変える。
「この神社ではご神木を隠していないんだな」
境内には、大地に宿る神聖な気を取り込み、邪気を払う役割を担う神木が植えられている。
その御利益にあやかりたいと、神木の幹に触れたがる者が多く、時折、更なる御利益を求めてその一部を持って帰ろうと幹に傷を付ける不届き者もいるため、神社によっては、偽物のご神木を用意しているところもあるという。
もちろんそんな小手先の嘘は、琴音や柊李のように霊力を持つ者には通用しない。幹に触れれば、そうとわかるのだ。
「このご神木も皮を剥がれたり、幹の一部を削られたりしたことがあったそうです。それでも先代宮司は、罪を犯してでも神仏にすがる者にはそれなりの理由があるのだから、必死に救いを求める者を騙すようなことはしたくないと話されていました」
琴音の言う先代宮司とは、彼女の祖父のことだ。
父も祖父も、名門陰陽師家の生まれに恥じることのない強い霊力の持ち主だった。中でも一条家史上最高の霊力を持つと言われていた祖父は、優れた才を持つ者はその力を民衆に寄与すべきと考えていた。
「そのために払った犠牲を考えると、愚かとしか言えんな」
柊李が冷ややかな声で祖父の言葉を切って捨てる。
「え?」
思いがけない言葉に琴音は息を呑むが、彼の態度は変わらない。
「九年前、京の都で暴れた悪鬼は、関西在住の陰陽師が束になってもかなわなかった。多くの仲間を失い、東に援軍を求めたが、当時の帝都の退魔省でさえ二の足を踏んでいた。そんな状況でも、一条家だけは民のためにと出陣した」
その時のことは、琴音もよく覚えている。
琴音は視線を遠くに向けて、その日のことを思い出す。
その鬼は凶暴で、和解の余地など持ち合わせていなかった。
そんな鬼と対峙するため、祖父は何故か陰陽師である父だけでなく、琴音にも同行するように言った。
将来的にも陰陽師になる可能性がない琴音を随行させることに両親は難色を示したが、家長である祖父の意見に負けて渋々それに従うこととなり、結果、まだ幼い琴音の世話をするために母の時枝も一緒に京に赴くこととなった。
京へ向かう道すがら、祖父は何度も家族に『この身を差し出してでも、あの鬼は滅さねばいかん。それを理解してくれ』と話していた。
その言葉に琴音たち親子は、祖父は鬼と刺し違える覚悟でいるのだと察していた。
だからこそ、自分の最後を見せるために、幼い琴音も同行させるのだと……。
「そして見事鬼を仕留めた代わり、一条家は鬼の呪詛により、幼い孫娘ひとりを残して死に絶えた」
それこそが、京助一家が時枝を哀れみ、琴音を『忌み者』や『人殺し』と呼ぶ由縁だ。
もし時江が一条家に嫁いでいなければ、もし幼い琴音の世話をするために随行していなければ、その人生は違ったものになったはず。
その罪悪感があるから、自分に救いの手を差し伸べてくれる人がいても、琴音はその手を取ることができずにいるのだ。
「結果、一人残された一条家の娘は、死んだように生きている」
その言葉に、琴音は弾かれたように柊李を見た。
「よく……私がそうだと気付かれましたね」
琴音は、驚きのあまり素直な疑問をくちにした。
一条家のこみ入った事情を知らない者は、着飾った虹子が一条家の娘で、琴音のことは下女だと思い込む。
「纏う霊力でわかる」
そう言って、柊李は、琴音の手首を掴み顔を寄せた。
その瞳の奥にはやはり、鬼火のごとく赤い光が時折揺らめいている。そのことに琴音が驚いている隙に柊李が続ける。
「相変わらず死んだような顔をしているな。……どうだ、このまま死んだように生きるだけなら、その人生を俺に預けてみないか?」
「どういう、意味でしょうか?」
キョトンとする琴音が面白かったのか、柊李が小さく笑い、とんでもないことを言う。
「俺の嫁になれということだ」
「はい? や、薬師丸様は従姉の虹子に結婚の申し込みをされにこられたのではないのですか?」
そこまで話して、自分が彼を探しにきた本来の目的を思い出す。
早く彼を、京助たちのところに連れて行かなくては。
それなのに柊李は「なんのことだ?」と首をかしげて琴音を指さす。
「俺が嫁に娶りたいのはお前だ」
「ですが……先日、私に『縁談の申し込みに訪問する』と話されていたじゃないですか? あれは、虹子のことですよね?」
「なにを言っている? 先日、俺はお前に縁談を申し込んだはずだ。その証拠にお前も『かしこまりました』と返したではないか。だからこのまま、俺の嫁になってもらいたい」
「あ、あれは、そういう意味では……」
予想外の言葉に驚き、琴音は声をうわずらせるが、柊李は気にしない。
「本気だ。どうだ? 俺と夫婦にならないか?」
「じょ、冗談はやめてください」
どうにか声を絞り出し琴音に、瞳の奥に赤い鬼火を宿した男は、「実は俺も少々訳ありでな」と事情を語り出す。

