被写体は、きみひとり



 廊下を歩きながら、俺は必死に脳内会議を繰り広げていた。


 やっぱり、撮りたい。翠×犬の写真。あの優しい腕の中で、ちょこんと覗くあの柴犬……尊すぎる!! 絶対に今しか撮れない奇跡の瞬間でしかない!!


 ……でも、この子を職員室に連れて行ったら、間違いなく没収コースで。写真どころか、お別れ一直線だ。


 俺は立ち止まり、わんこの顔を見つめた。くぅん、と小さく鳴く。うぅ、かわいい。なんだこの生き物は。愛着しか湧かない。


 ーーそこで、俺はひらめいた。


「そうか……『犬』を、『犬』として連れて行かなければいいのか!!」


 天啓のようなアイディアに打たれ、即行動する。教室のドアを開け、目に入ったクラスメイトに声をかけた。


「高橋! 油性ペン貸して!」
「え? いいけど……」
「ありがとう! ごめん、明日返す!」
「え、なんか怖いんだけど……?」


 そんな言葉を背に、俺は廊下に戻り、わんこを膝へ乗せた。油性ペンをキャップオフ!! そして、眉毛、ドン!!!


「……よし!! お前はもう犬じゃない! ぬいぐるみだ!! 自信を持て!!」


 自作の『眉わんこ』をぎゅっと抱えて、職員室の前へ行く。ドアに手をかけた瞬間、ぬくもりが腕に伝わった。この小さな体温に、なんだか、勇気もらったような気がした。


「失礼します!」


 職員室の中はとても静かで。先生が椅子をくるりと回して、俺を見た。


「成瀬、遅かったな」
「すみません!」


 鋭い視線が突き刺さる。眼鏡の奥の目が、完全に獲物を見ているように思えた。


「成瀬。学校に犬を連れてきちゃいけないってことぐらい、分かるよな? 説明してもらえるか?」


 緊張で喉が鳴る。でも、俺は迷わず、わんこの眉毛を指差した。


「先生、これは犬じゃありません」
「は?」
「ほら、眉毛があるじゃないですか。犬に眉毛、ないですよね?」
「……授業中、吠えてたよな?」
「それはこの子の仕様です。背中のスイッチを押すと鳴きます」
「じゃあ押してみろ」


 俺は一呼吸おいて、わんこの背中をそっと押して、喉の奥から声を絞り出した。


「ワンッ!」
「……お前の声だろ」
「違います」
「わん」
「今、ちょっと遅れたけど鳴きましたよね?!」
「だから犬なんだって」
「違いますってぇぇ……!」


 もはや理論破綻してるのは分かっている!! けれど、引くに引けない!! 押し通すしかない!!


 その時、ドアが開いて、静かな声が届いた。


「失礼します」


 振り向くと、翠だった。そっと俺の隣に立って、ほんの少しだけ袖が触れそうな距離で止まる。視線はまっすぐ先生へ向けられていた。


「……この犬は……」
「篠原が犬っていったぞ」
「ち、違いますよ、先生! 今『ぬい』って篠原は言いましたよ! これは『ぬいぐるみ』なんです!」
「……玲央、なにこれ。……なんで眉毛があるの?」
「最初からあったよ」
「なかったよ……!」


 翠が俺から犬を取り上げ、眉をそっと擦る。指先についた油性ペンの黒がじわりと滲んで、それを見つめた翠は、静かに息を吸い込んだ。


 その沈黙のなかで、先生が深く息を吐く。眼鏡の奥の視線が、俺たちふたりを順に見つめた。


「成瀬、もう一度聞く。なんで学校に『これ』を連れてきた?」
「だから、これは犬じゃーー」
「すみません。僕が連れてきました」


 翠の声が、被せるように割って入った。俯いたまま、ぽつりと続ける。


「道で震えてたんです。誰もいなくて……つい」


 その小さな声に、先生は少しだけ表情を緩めた。


「……放課後まで職員室で預かる。それから、しかるべき施設に連絡する。……本当は、最初からそうすべきだったんだぞ」
「……はい」



 床を見つめたまま、顔を上げない翠の姿が、どこか少し小さく見えた。けれど、先生は、しばらく何も言わなくて。黙ったまま、犬にそっと手を伸ばし、優しく頭を撫でた。


「ま、結果的にはこの子にとって良かったのかもな」

 
 それから、俺にギロリと視線を戻す。


「成瀬。ほんと、お前の嘘はひどいな~~。少しは篠原を見習え」
「先生にも眉毛描きますよ、油性ペンで」
「やめろ」
「……待って。これ、油性ペンだったの……?」


 翠が犬の眉を凝視し、絶望的な顔になる。……それでも俺は、満面の笑みで親指を立てた。


「うん!」
「……玲央のばか。きらい。もうモデルやらない」
「えぇぇええぇえぇえぇえ!!?!?!」