被写体は、きみひとり



 ーー月曜日


 空は快晴で。通学路には、制服姿の生徒たちがちらほらと歩いていた。俺もいつものように、カメラのストラップを首にかけて登校する。


 目の前に見慣れた後ろ姿を見つけて、とん、と背中を軽く叩いた。


「翠、おはよ!」
「……おはよう、玲央」


 その瞬間、俺は目を疑った。


 クラス委員の翠が、スクールバッグを両腕でぎゅっと抱えるように持っていて、そこから、小さな柴犬の顔が、ひょこりと覗いていたのだ。


「……翠?! え、ちょ、お前、な、なに持ってんの?!」
「しーーっ……鳴きそうだから、静かにして」
「いやいやいや、犬じゃん!! オジサンと粗大ゴミは拾っちゃいけないって、知らないの?!」
「知ってるよ。でもこれ動物だから」


 口調はいつも通りだったけど、翠の手つきはどこかぎこちなくて。普段はこんなふうに物を抱えたりしないのに、犬を包むようにして、大事そうに歩いている。


 下駄箱で靴を履き替えるときも、犬を抱えたままだった。これは、まさか!! 教室まで持っていく気?!


「でも、この子、捨てられてたんだ。僕のこと見てたし……放っておけなかった」
「いやいやいや……元の場所に返してこよう? な?」


 翠の目は、いつもよりほんの少し、必死そうで。珍しく、言い訳も、皮肉も言わず、黙って犬を抱きしめる翠が少し可愛く思えた。


「……返すのはちょっと。もう連れてきちゃったし。大人しいから黙っていれば気づかれないと思う」
「えっ……教室まで連れてくの?!」


 思わず聞き返してしまったけれど、翠はごく普通の顔で鞄を抱えていて。犬が入っているとは思えないくらい、落ち着いた足取りだった。


 並んで歩く廊下には、朝の光が斜めに差し込み、窓から吹き込む風は、少し青臭くて、春よりも濃い、五月の匂いが混じっていた。


「保健室は?!」
「保健室は人がいるからダメ。だから、机の下でしばらく隠す」
「バレたら終わるやつじゃん!! 委員長でしょ?! ダメだって!!」
「……大丈夫。『何を言ってるのか、分かりません』で突き通すから」
「えぇぇええ……」


(いや、無理だろ……)


 それでも、翠がここまでして何かを守ろうとする姿は、初めてで。だからこそーーこの構図は、絶対に逃せない!!


(翠×犬……レアすぎる……!!)


 しかし、この構図を撮影するには、昼休みまで、この犬を絶対に隠し通さなければいけないということ!!


 俺は立ち止まり、翠の正面にまわった。


「……わかった。俺も協力する。だから写真を撮らせて」
「……なんかおかしくない?」


 白く濁った目で翠が俺を見る。でも、拒否はされていない。つまり、オッケーということだ!!


「……どうせ、撮るんでしょ。止めても無駄だし」
「ありがとう……!」


 それから、俺たちは一緒に教室へ入った。朝のHRが始まっても、幸いなことに、誰も犬に気づかなかった。机の下で丸くなって静かにしているのが奇跡みたいだった。


 でも、四限目の途中、事件は起きた。


「ねえ、なんか……動物くさくね?」
「え、ほんと? どこどこ?」
「誰か犬飼ってる? 制服に匂い移ったとか?」


 ざわざわと、教室内の空気が変わっていく。あきらかに匂いがバレ始めていた。翠の鞄の中を想像し、嫌な予感が過ぎる。


(まさか……トイレ、しちゃった……?!)


 鼻をひくつかせる生徒たちの視線が、じわじわと翠の机へ集まる。その瞬間、教室に小さな鳴き声が響いた。


「わんっ!」


 黒板に向かっていた先生が、ゆっくりと振り返る。そして、教室を鋭く見渡した。


「誰か犬を飼っていますか?」
「俺が拾いましたぁあぁあぁあ!!」


 勢いよく立ち上がって叫ぶと、教室中の視線が一斉に俺へ向いた。


「え……成瀬?」
「マジ? 犬、拾ってきたの?」
「フツー、学校に連れてくるか?!」


 翠が驚いたように振り返る。その目が、ほんの少し揺れていたのが分かった。でも、いいんだ。俺が全部背負うから。翠は怒られなくていい。先生が眉を顰めて、口を開いた。


「成瀬、犬を連れて後で職員室へ来なさい」
「はい!」


 そうして授業が終わり、俺は翠の席へ向かった。しゃがみ込んで、鞄の中を覗き込む。


「あ~~あ~~、カバンが大変なことになってら」
「……玲央」
「ん? 気にすんなって!」


 犬をそっと抱き上げ、笑ってみせる。そのとき、翠の指先が俺の頬に触れた。柔らかくて、優しい手だった。


「……ありがと、玲央」


 その小さな声が、胸の奥をまっすぐ貫く。手のひらから伝わる体温に、心臓が跳ねた。見つめられるのが、恥ずかしくて、サッと目を逸らす。


「うん! あ、今日は撮影できないかも! だから今日はなしで!」
「……そうだね」
「犬と翠、撮りたかったなぁ! じゃ、また! 先、昼食べちゃって!」
「……うん」


 翠がそっと、俺の頬から手を離す。でも、その手のぬくもりだけが、残っていて。まるで、写真の代わりに、心に焼きついたみたいだった。