「そろそろお弁当にしようか」
「う、うん」
「僕、一旦、怪我の報告してくるから。玲央はここに座って待ってて」
「うん……」
河川敷のベンチにそっと下ろされ、翠の背中を見送る。春の匂いを含んだ風が通り抜け、目を細めて空を仰ぐと、その向こうから、ひそひそとした声が耳に届いた。
「え、篠原って……あんな子だったっけ?」
「委員やるって言ったときもびっくりしたけどさ」
「てか、玲央のこと、おんぶしてたよね? 地味に力あるじゃん」
「え、マジで……あの篠原が?」
普段は静かで、どこか近づきがたい雰囲気のあった翠だけど、さっきの姿は、迷いなんかひとつもなくて。俺を助ける手が、まっすぐに伸びてきた。
「……なんか、篠原くん、かっこよくない?」
「……うん、ちょっと見直したかも」
「私も篠原くんにおんぶされたい~~!」
(……翠が、女子に騒がれてる)
それが嫌ってわけじゃない。ただ、なんとなく胸の奥が、じくりと熱を持って疼いた。俺しか知らない翠なのに。俺だけが見ていたのに。そんなの、きっと独りよがりだって分かってる。
でも、背中から感じた温もりが、まだ肌に残っている気がして、息を吸うたびに胸がざわついた。
カメラを取り出し、両手で構える。上を見上げれば、桜の枝が陽に透けて、青空とのコントラストが眩しいくらい綺麗だった。無意識に、シャッターを押す。
「……今日、翠の写真、全然撮れてない」
ぽつりと零れた声に、胸がきゅっと締めつけられた。
さっきまでファインダー越しに見ていた世界は、カメラを下ろすと、そのままの景色として目に映る。ふと、翠の姿を追ってしまうのは、癖のようなものだった。
(……次は、笑ってる翠を、絶対、シャッターに収める)
そんな風に思った瞬間、ふらりと翠が戻ってきた。手に持ったペットボトルを、何も言わずに、俺へ差し出した。
「……飲む?」
「あ、ありがと」
(……これ、翠が飲んだやつ?)
どきどきしながら受け取って、そっと蓋を開ける。口をつけるのを躊躇っていたら、翠が目の前でしゃがみ込んだ。
「足、大丈夫?」
「えっ……?」
靴を脱がされ、足首に触れてくる。くるぶしのあたりをそっと撫でるように確認する指先が、妙に丁寧で。その体温に、心臓が跳ねた。
「ちょ、ちょっと?! 触るなってば!!」
「腫れてるか見てるだけ」
淡々とした口調だけど、その無表情の奥に、優しさが潜んでいることを、俺はもう知っていた。
(な、なんだこの距離……っ! なんか変な気持ちだし、顔が熱い!!)
翠の顔はすぐ目の前で。まつ毛の長さも、頬の線も、息遣いさえも感じられそうな距離に、思わず視線を逸らした。
「もう大丈夫だから!! 男の脚だし! 色気もなにもないし!」
「そうかな。玲央の脚、綺麗だと思うけど」
「~~~~っ?! な、なに言ってんの?!」
「そろそろ先生来るかな」
話を切り上げるように、翠がすっと立ち上がった。その仕草がやけに自然で、ますます気持ちの整理が追いつかなくなる。足の痛みなんて、どこかへ消えたみたいに感じなくて。
それよりも、気になるのは、静かになってくれない自分の心臓の音だった。
「成瀬、大丈夫か?」
「あ……先生」
「どうする? 家の人に迎えに来てもらう?」
「いや……大丈夫です。自分で帰ります」
先生が離れたのを見計らって、そっと立ち上がる。翠の服の裾を引っ張って、顔を上げられないまま呟いた。
「……ありがとう、色々」
「玲央」
名前を呼ばれて、反射的に顔を上げる。途端に、両手で頬を挟まれた。額と額が、こつんとぶつかる。鼻先が触れるくらいの近さに、思わず、息が止まった。
「……可愛い」
「えっ?! なっ、なに?!?!」
「なんにも? さ、帰ろう」
「はぁぁぁ?!?!」
(……今の、キスされるかと思った)
鼓動が、うるさいくらいに鳴っている。歩き出した横顔をそっと盗み見れば、翠の頬がほんのり赤い気がした。
綻んだ顔は、普段より少し柔らかくて。気づけば、俺は、シャッターを切っていた。
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帰宅して、シャワーを浴びて。全身から今日の汗を洗い流したはずなのに、胸の奥にはまだ熱が残っていた。
髪を拭きながら、自分の部屋に戻る。ベッドに倒れ込むように身体を沈めて、思わず小さくため息が漏れた。
「……足、くじいた以外は、最高だったんだけど……」
翠の背中。触れた指先。鼻先が触れた距離。なにより、あの言葉。
『玲央だから』
思い出すだけで、心臓が跳ねるみたいにして鳴る。落ち着こうとしても、呼吸はどこか浅くなった。
気を紛らわせるように、カメラを取り出す。今日撮ったデータを、パソコンではなく、液晶越しに一枚ずつ確認していく。
河川敷の並木道。芝生に座るクラスメイトたち。青空。舞い落ちる桜の花びら。
……そして、翠。
気づけば何枚も撮っていた。ファインダー越しに見ていたはずなのに、どれも少しずつ違っていて。
気まずそうに目を逸らす顔。無表情なのに、どこか考え込んでる横顔。風に前髪を揺らしながら、微かに笑っていた口元。
シャッターを切るたびに、『特別』を探していた気がする。
ふと、指が止まった。
ーーピントも構図も、完璧じゃない。
けど、まっすぐにこちらを見つめて、少し照れたように笑っている翠の写真。
汗で額に張りついた前髪と、風にほんのり赤く染まった頬。どこか子供っぽさを残しているのに、どうしようもなく綺麗だった。
その一枚に、胸がぎゅっと掴まれる。
「……多分、これが、いちばん、好き」
カメラを持つ手に力がこもる。視線を外して、深く息を吸い込んだ。
(……この気持ちは、なんだろう……)
どくん、と胸が鳴る。何かに触れかけて、怖くなった。認めたら、もう戻れない気がして。俺は、カメラを下ろした。
