ーー翌朝
空は雲ひとつない青さで。爽やかな風が頬を掠めていく。登校中、歩く足がふと緩む。昨日の屋上のことを思い出し、胸の奥がむずがゆくなった。
名前を呼び合ったこと。唇に指先を当てて、『玲央と僕だけの秘密だね』と笑った顔。何度思い返しても、顔が熱くなる。
(……なんで、あんな顔するんだよ……)
カメラのストラップを人差し指でくるくると回して、気を紛らわせる。けれど心は、何度振っても、あの声と笑顔を思い出してしまって、どうしようもなかった。
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ーーHR
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。黒板に『クラス委員決め』と書かれた瞬間、教室全体がどんよりと沈んだ空気に包まれた。
(……やば、絶対やりたくない!!)
俺は机に突っ伏して、存在感を消すように息を潜めた。
「はい、来週から委員会活動が本格的に始まるので、クラス委員を今日決めます」
「うげぇ~~」
「まず、立候補いるー?」
当然のように、誰も手を挙げない。だが俺もやるつもりはない!! 俺は机、俺は机、俺は机……もはや石と同然……!!
「いないなら推薦で。……誰かいない? うーん、成瀬とかどう?」
「はあ?!?!」
突然名指しされ、思わず顔を上げる。意味がわからない。なんで俺なの?!
「いやいやいや!! 無理!! 絶対無理だから!!!」
「明るいし、まとめ役とか向いてそうかなって」
「向いてないって! 昨日も写真のことでテンパってたの見たでしょ?!」
「でも他にやる人いないしー」
黒板に『成瀬玲央』と書かれていく。なにこれ、強制?! 選ばれる空気?!?! そんなの絶対嫌だ!!!
「ちょ、やめろって! 勝手に名前書かないで!! 俺やりたくないってば!!」
焦って言い募る俺の声を遮るように、教室に、椅子を引く音が静かに響いた。急に立ち上がった翠に、空気がぴたりと静まり返る。
「……僕、やります」
「え?」
「僕が、クラス委員やります」
まるで、最初からそのつもりだったかのように、その声は、驚くほど落ち着いていた。
先生はホッとしたように笑って、「助かるよ」と言いながら、黒板の俺の名前を消して、『篠原翠』と書いた。
(なんで、おまえが……)
そっと視線を向ける。翠はすでに席についていて、表情を変えることなく、ノートに何かを書き込んでいた。
俺は口を開けたまま、ただ呆然と翠の背中を見つめた。
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ーー昼休み
チャイムが鳴った瞬間、俺は迷いなく立ち上がった。
「翠っ! 屋上行こ! 今日こそ、笑顔の翠を撮る!!」
翠が無言で立ち上がり、鞄からパンを取り出す。表情は相変わらずクールだけど、口元が、ほんの少しだけ緩んで見えた気がした。
屋上で昼食を済ませて、昨日と同じように並んでベンチの端に立つ。春の陽射しが、翠の髪を淡く縁取り、背景の白い壁に柔らかく溶け込んでいく。
「そこ、ちょっと斜め向いて! うん、その目線、いい!!」
夢中でシャッターを切りながら、ふと朝のことを思い出す。カメラを構えたまま、問いかけた。
「……なんでクラス委員、立候補したの?」
ファインダー越しに、翠がわずかに瞬きをした。
「俺がやらされそうだったの、助けてくれたの?」
「……さぁ?」
淡々とした返事に、シャッターを切る手が止まる。少しだけカメラを下ろすと、翠は空を見上げて、ぽつりと言った。
「……玲央が、嫌がってたから」
「え……」
鼓動が跳ねた。俺を見る翠の目が、ふわりと細められて、思わず手が止まり、シャッターを押せなかった。
「……ねぇ、今の撮った?」
「えっ?!」
「僕、笑ってなかった?」
「あっ、あぁああぁあ!!! もう一回お願いします!!!」
「やだよ」
カメラを構え直そうとした俺に、翠はぷいっとそっぽを向いた。
「まぁ、クラス委員はやれば内申も上がるし、ちょうど良かった」
「……でも、みんな意外そうな顔してた」
「……僕は大人しいからね」
「翠ってさ、クールに見えるけど、なんか少し変っていうか……」
「変って何?」
俺の言葉に少し眉を顰める翠の顔を、カメラに収める。
「今のは撮ったでしょ。削除してよ」
「いやいや、翠は怒り顔も最高だって!! はい、もう一枚!」
「撮るなって!」
「おいっ、引っ張んなって!!」
じゃれ合うみたいなやり取りに、シャッター音が重なっていく。ファインダーの向こうで変化していく翠の顔は、少しずつ、『俺だけにしか』見せないものになっていた。
