ーー卒業式の朝
窓の外にはまだ冬の名残が漂っていたけれど、差し込む光だけはやけに眩しくて。制服の胸元を整え、いつものようにカメラのストラップを首にかけた。
毎日繰り返してきた動作なのに、今日はどこか、ほんの少しだけ、特別に思えた。
(……これで、最後の登校か)
最寄り駅の改札。
登校の坂道。
校門をくぐると、式典用の花が風に揺れていた。友達の顔、先生の声、笑い声。そのすべてが、どこか遠ざかっていく気がして。全てをシャッターに焼きつけるように、カメラを構えた。
ーーこの瞬間を、残しておきたい。
その一枚一枚が、きっともう二度と見られない景色だと知っているから。目の前に広がる、何気ない風景が、胸の奥にひっそりと染み込んでいく。
風景を切り取るように夢中でシャッターを切るうちに、気づけば時間は流れていて。足は自然と、式の始まる体育館へと向かっていた。
体育館には、空気さえ張りつめたような静けさを強く感じた。誰かの名前が呼ばれるたび、椅子の引かれる音や、歩き出す足音が、やけに鮮明に響く。
前を歩いていく友達の背中を見送るだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。まだ実感なんて湧かないと思っていたのに、何かが、少しずつ、終わっていく気がして、うまく呼吸ができなくなる。
ふと隣を見ると、いつもは笑ってばかりのクラスメイトが、目を真っ赤にしていた。言葉はなくても、その涙だけで、全部が伝わってくる。
「……本当に、終わっちゃうんだな」
そう、小さく呟いた瞬間、ようやく、自分の卒業が現実として輪郭を帯びてきた。
ーー俺には、目で見て、残しておきたい景色が、まだある。
教室で集合写真を撮り、笑い合い、花束を抱えて。ふと、視線が宙を彷徨った。いつか終わりが来るなら、最後の一枚は、君と撮りたい。自然と、ある場所が思い浮かぶ。
ーー屋上。
校舎の最上階、俺が何度もシャッターを切って、何度も想いを重ねた、翠とふたりだけの秘密の場所。
最後の一枚は、あそこで撮りたい。
扉を開けると、冬の空がぱあっと広がった。遠くの誰かの笑い声が霞んで、ここだけが静かな世界のようだった。
「来ると思ってたよ」
柵のそばに立つ翠が、笑っていた。制服姿が、今日はやけに凛々しく見える。俺はそっとカメラに触れた。
「……翠、最後に一枚、撮らせて」
「もちろん」
ボタンを整え、髪を撫でて、俺の方へ翠が向き直る。ファインダー越しのその姿は、いつもと変わらないようで、でもどこか違って見えた。
優しくて、強くて、ほんの少しだけ寂しげで。だから、俺は、最高の笑顔を撮りたいと思った。
「じゃあ、俺から翠に質問です!」
「ん?」
「人間の体って、何でできているでしょう?!」
「え……水分?」
「ぶっぶー! 正解は、大豆でした!! だってさ、醤油使うし、味噌汁飲むし、納豆食べるし、豆腐食べるし!」
「あははっ、なにそれっ」
翠が笑った。その笑顔が、あまりに綺麗で。反射的に、シャッターを切った。カシャッという音が、澄んだ空に吸い込まれていく。
「……撮れた?」
「うん。最高の一枚だよ」
「じゃあ、次は僕の番」
ふいに翠が俺の胸元からカメラを奪い、その手を引いて壁際へと寄せた。風が吹いて、髪が揺れる。
「……玲央の『最後の高校生姿』、目に焼き付けたい」
手に持っていたカメラが、床にそっと置かれた。頬に翠の指が触れ、口唇が近づいてくる。
「ちょ、え、な、なに……っ」
「……好きだよ、玲央」
言葉が重なり、唇が触れ合う。逃げようとするようで、拒めない俺を、翠がそっと抱きしめた。
「……玲央で、いっぱいだった。高校生活、全部」
翠の手が俺のネクタイに触れ、しゅるりとほどかれる。制服の襟元が緩んだ。
「ちょっ……え、な、なに、なんで……っ?」
驚きと、戸惑いと、熱のようなものが同時に押し寄せ、心臓が跳ねる。思わず顔を背けようとすると、翠の指がそっと顎を引いた。
「見せて、玲央。……僕だけに」
制服の第一ボタンに触れた指先が、するりと素肌へ忍ぶ。その動きに、びくりと肩が震えた。
「や、やだ、見ないで……っ」
「玲央は全部、可愛いよ」
囁きが耳元に落ちる。その声の熱が、じわじわと内側に沁みていく。
「……っ、ばかぁ……う~~っ」
唇を噛んで耐えても、視線を逸らしても、翠の手は優しくて、逃がしてくれなくて。制服の布越しにそっと撫でられた肌が、じんわりと熱を帯びた。
そのぬくもりに触れられるたび、身体の奥がきゅうっと疼き、どこかがくすぐったくなる。
「ちょっ、あっ、な、何して……っ」
「……もっと、僕だけに見せて。玲央の『可愛いとこ』」
低く囁く声に背筋が震える。スラックスを握る手に、思わず力がこもった。
「っ……ぁ、だ、だめっ、そこっ、やっ……!」
「……こんな風になって、ほんと可愛い。……声、もっと聞かせて?」
「~~~っ……ばかばかばか!!!」
その声も、瞳も、揺れる息も。お互いにしか見せないものばかりで。その全てが、胸の奥で、ほどけるように、幸せだと思った。
ふと、床に置かれたカメラが視界に入る。
何枚撮っても、何度撮っても、
ファインダーの中にいたのは、翠だった。
笑っている顔も、怒ってる顔も、真剣な横顔も。
そして今、目の前で俺だけをまっすぐ見つめる、誰にも見せたことのない、この甘い顔も。
それが、俺だけの『特別』なんだと、やっと気づいた。
ーー被写体は、きみひとり。
fin.
