被写体は、きみひとり



 文化祭の熱気は、夕方になってもまだ冷めなくて。校舎の入り口付近には、訪れた家族連れや卒業生たちが、記念写真を撮る姿もちらほらと見えた。


 そんな賑わいの中、一枚の写真が、静かに人目を集めていた。A3サイズのパネルに額装されたその写真は、展示スペースの中央に飾られていた。


 茜色に染まった空の下。逆光の中で校舎の屋上に立つひとりの少年が、カメラの方へ目を向けている。制服の袖が風に揺れ、髪が淡く光を透かす。


 柔らかな表情には、どこか揺るがない芯の強さが秘められていた。そして、目にした者の胸を、ふと、掴むような力があった。


 それが、玲央の撮ったーー翠の写真だった。


「……これ、すごく綺麗。誰が撮ったの?」
「玲央って子らしいよ。写真部なんだって」
「写真、売ってないのかな……ポストカードとかあったら買うのに」


 ぽつりぽつりと溢れる感嘆の声と生徒たちに混じり、ひとりのスーツ姿の中年男性が足を止めた。手には、出版社の名が入った資料ファイルを持ち、彼の目が、写真に釘付けになる。


「……名前、どこだ……?」


 視線を下ろすと、額の下部に小さく刻まれた文字が目に入った。


 『撮影:成瀬玲央(写真部)』


 その瞬間、男の手がスッとメモ帳を取り出す。


「成瀬玲央……成瀬って、まさかあの……?」


 ーーたった一枚の写真が、誰かの心をゆっくりと動かしていた。


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 校舎裏のベンチで、文化祭の人混みを避けるようにして、俺と翠は並んで座っていた。沈みかけた夕陽が、地面に長い影を落としている。翠がそっと、問いかけてきた。


「……疲れた?」
「ちょっとだけ。でも……すごく楽しかった」


 自然と笑みが溢れる。笑い合った時間も、写真が飾られていることも、全部が嬉しくて、胸がふわふわする。そんな俺の答えを聞くと、翠は微笑みながら、ほんの少しだけ視線を落とした。


「……玲央の写真、飾られてたね。あの、屋上のやつ」
「あ……うん。先生が『これがいい』って言ってくれて」


 照れくさくて、自然と目を逸らしてしまう。それでも、作品をちゃんと見てくれていたことが嬉しかった。


「いっぱい褒められてたよ。僕が映ってるだけなのに……なんだか誇らしくなった」
「違うよ。あれは、翠だったから撮れたんだ」


 言葉にして初めて、自分の気持ちが浮かび上がった気がした。あの写真はただ綺麗なだけじゃない。レンズ越しに映した、翠の一瞬の『本当』が、ちゃんと写っていた。


「俺のレンズで見る翠じゃなきゃ、あの一枚は撮れなかった」


 俺がそう言うと、翠は少し驚いたように目を見開いて、それから静かに頷いた。


「……玲央の写真、すごいよ。もっと、いろんな人に見てほしい」


 翠の言葉に、嬉しさがこみ上げる。けれど、その言葉へ続くように、もうひとつの気持ちが口をついて出た。


「……でも、『俺だけの翠』も、撮りたい」


 ぽつりと漏れた本音だった。胸の内をさらけ出すようで、怖くて、でもどうしても言いたくて。


 誰かに見られるのは誇らしい。でも、全部を共有したくはない。自分だけが知っている『翠』が、きっとまだ、ある気がする。


 翠は、そんな俺の言葉を受けて、首を傾けたまま、そっと俺の頬に触れた。その指先が、優しかった。


「……『俺だけの翠』って、どんな?」
「えっ……?! えっと……その……俺にしか見せない表情とか、なんか、そういう……!」
「ふふっ、なんか照れてる?」
「笑うな!!!」
「別に笑ってるわけじゃ!」


 笑われた。でも、不思議と嫌じゃなくて。それどころか、俺の頬に触れていた翠の手が、大事に思えた。


「……いっぱい撮ってよ、僕のこと」
「……う、うん! じゃあ、撮る! これからも、ずっと!」


 言い切ったその瞬間、自分の中で、はっきりとした決意が固まった。この気持ちは、もう簡単には揺るがない。


 そして、この約束が、ふたりの未来へと繋がっていくのを、心のどこかで感じた。


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 文化祭の終わりが近づき、校内には片付けの気配が広がっていた。ガムテープの音や、教室から運び出される机の軋む音が、夕焼けに染まる空の下にぼんやりと響く。


 俺は校舎の裏でひとり、風にあたっていた。熱のこもったシャツの襟元を緩め、制服の第一ボタンを外す。指先で額の前髪をかき上げながら、ふぅと息を吐いた。


 身体は疲れているはずなのに、不思議と心は浮ついていて。あの写真が、たくさんの人の目に触れ、名前を知らない誰かが、それを見て、立ち止まってくれた。


 ただ、それだけで、胸があたたかかった。その時、後ろから不意に声をかけられた。


「いたいた、玲央くん!」


 振り返ると、見知らぬスーツ姿の男性がパンフレットを手に立っていた。歳は父と同じくらいだろうか。落ち着いた雰囲気に、どこか業界人らしさが滲んでいる。


「この写真、君が撮ったんだよね?」


 見せられたスマホの画面には、文化祭で掲示されている俺の写真をカメラで撮ったものが写っていた。


「あっ……はい」
「やっぱり。すごくいい写真だ。構図も光の使い方も見事だし、なにより、感情がちゃんと写っている。君、センスあるよ」


 そう言って、彼は笑いながら名刺を差し出してきた。


「うちは出版社なんだけど、もし興味があるなら、一度ポートフォリオを持って遊びに来てくれないかな。進路、まだ決まってないんでしょ?」
「え……」
「焦らなくていい。プロとしてちゃんと話がしたいんだ。才能が埋もれるのは、もったいないからね」


 俺は、名刺を受け取ったまま、しばらく言葉を失っていた。


 『プロとして話がしたい』ーーその響きに、胸が大きく跳ねた。写真が、認められた。ちゃんと、誰かの目に届いた。嬉しい。こんなにも嬉しいんだ。


 けれど、その瞬間、別の記憶が頭をよぎる。


 ーー『これがゴールじゃない』


 ふと、思い出す、父の背中。カメラ片手に世界を旅しながら、どこか自由で、いつも楽しそうにシャッターを切り続けるあの人。プロじゃなくても、写真を愛し続けている。


 俺も、もっと見てみたい。


 知っているようで、まだ知らない景色を。
 自分の目で、自分のシャッターで。


 まだ何かを見つけたい。見てみたい世界が、ある気がする。


 俺は、差し出された名刺をそっと胸ポケットにしまった。


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 校門を出ると、夕陽に照らされた歩道の向こうで翠が待っていた。翠は俺を見つけると、ふっと目を細めた。


「玲央、出版社の人に話しかけられてたね」
「……うん。でも、断ったよ」
「え?」


 翠の眉がわずかに動く。驚いたような、心配するような、その複雑な眼差しに、俺は迷わず言った。


「俺、卒業したら父さんと一緒に海外へ行く」


 制服のポケットから、あの名刺を取り出すと、少しだけ指先が震えた。けれど、それを悟られないように、光に透かして見つめた。


「プロになるのが嫌ってわけじゃない。今日、声をかけてもらえて……ほんとに嬉しかった。でも、今は、もっと世界を見てみたい。知らない場所、知らない景色、それを自分のカメラで撮りたい。今じゃなきゃ、逃してしまう気がするから……!」


 翠はしばらく黙っていたけれど、小さく笑った。でもそれは、ほんの少し、切なげな笑みだった。


「それって……すごく玲央らしいね。でも、寂しくなるよ」
「俺は……離れていても、翠のことだけは、絶対忘れない」
「うん」
「……それに、長くても一ヶ月くらいだよ。たぶん!」
「十分長いよ」
「じゃあ、いっぱい写真送る! ビデオ通話で毎日、顔見せてあげる!」
「うん。楽しみにしてる」


 翠が差し出した手を、ぎゅっと握る。その温度が、胸の奥にじんわりと染み込んだ。


(……次は、『触れる』だけじゃ、きっと終わらない)


 そう心の中で呟きながら、空を見上げる。茜色の雲が、まるで未来のフィルムのように、静かに流れていた。