「いいもん! 勝手に下の名前で呼ぶから!!」
「玲央」
「な、なに?!」
「呼んでみただけ」
「~~~っ、なにもぉっ!!」
名前を呼ばれ、胸の奥がじんわりとあたたかくなる。照れくささに負けて、俺は思わず勢いよく立ち上がった。
「えっと!! じゃあ、やろ!! 撮影!!」
篠原が、食べ終えたパンの袋を丁寧に畳みながら、小さくクスっと笑った。
「その前に、弁当を片付けないと」
「あっ、そっか!! はい!! 片付けた!! じゃあ、立って立って篠原~~!」
「テンション高すぎない?」
「アゲていかないと、緊張するんだよこっちは!! ……いいから、そこに立って!」
篠原をベンチの端に立たせ、カメラを構える。春の陽射しが、ちょうど篠原の髪を柔らかく縁取り、光に溶け込んでいくようだった。
「……下の名前は?」
「え?」
「篠原なんていうの?」
「……翠」
「綺麗な名前だね! 翠!」
その瞬間、翠はわずかに目線を逸らし、恥ずかしそうに眉を寄せた。ファインダー越しの俺しか知らない翠。その仕草を逃さずシャッターを切る。
こんな顔、教室ではきっと誰にも見せていない。
「笑って!」
「……笑ってるよ」
「それ、死んだ魚の目だよ!」
「……元からこういう目だって」
冗談みたいなやりとりの中で、確かに感じる。俺は今、本当に『翠だけ』を撮っている。
「う~~ん」
「僕にモデルは無理だよ」
「……翠は、読書が好きなの?」
「えっ?」
ファインダーの奥で、翠が少しだけ目を見開く。その顔を見ながら、俺は続けた。
「いつも休み時間、本読んでるからさ。好きなのかなって」
「……サッカーより、読書の方が好き」
「じゃあ、なんでサッカー部入ったし!!」
「……親の期待に応えるため」
ぱたり、と空気が静まった。軽い気持ちで聞いたつもりだったのに、返ってきた言葉は思ったよりもずっと重くて。翠がそっと顔を逸らし、まつ毛の下に影を落とした。
その姿が、なんとなく、昔の自分と重なる気がした。
「……そっか」
「僕って、頭も良いし、サッカーも上手いからね」
「それ、自分で言うかぁ??」
ふと、春風が吹いた。翠の前髪が揺れ、ほんの一瞬だけ、表情がやわらいだ。その一瞬を逃さず、シャッターを切る。
「今日はおしまいです!!!」
「もういいの?」
「うん。いいの撮れたから」
「……見せて?」
画面を操作し、撮った写真を翠に差し出す。翠はしばらく黙って画面を見つめ、ぽつりと呟いた。
「……変なの」
「え?」
「僕って、こんな顔してたんだ」
その口調はいつもと変わらないはずなのに、どこかほんの少し、照れているようにも見えた。
「俺だけが知ってる翠だよ」
「……恥ずかしげもなく言わないで」
翠がぷいっとそっぽを向く。翠の耳は、ほんのりと赤く染まっていた。俺はその背中に、そっと言葉を重ねる。
「これからも翠を撮らせてよ。もっと、俺だけしか知らない翠を見つけるんだ……!」
翠は何も言わなかった。だけど、その肩がふっと動いた。風が静かに通り抜けていくその中で、翠が、そっとこちらを見て、口を開いた。
「じゃあ、玲央と僕だけの秘密だね」
「ぇえ?!」
指先を口元にあてて、いたずらっぽく笑う翠の目元は少しだけ緩んでいて。さっきまでの曇りが嘘のように消えていたーー。
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屋上から戻った教室は、昼休みのざわめきに包まれていた。数人が笑いながら話し、廊下では誰かが騒がしく走っている。
いつもと同じ光景が、少しだけ遠く感じたのは、きっと、さっきの出来事が、まだ胸の奥にじんわりと残っていたからかもしれない。
あの声。あの視線。あの笑顔。そして、名前を呼び合っただけなのに、何かが変わった気がした。
『翠』と呼ぶたびに、少しずつ距離が縮まっているみたいで、嬉しかった。ふと視線を向けると、翠が席に戻っていた。机に鞄を置き、無言のまま椅子に腰かける。
ほんの一瞬だけ翠が俺の方を見て、すぐに目を逸らした。
(……変なやつ)
午後の授業が始まるチャイムが鳴る。先生が教卓に立ち、教室の空気が切り替わった。
「はい、静かにー。……来週の金曜日、校外ウォーキングがあります。お弁当忘れないように」
「えー、歩くだけ?」
「マジだるっ」
「遠足って言えよ~~」
教室が一気にざわついた。けれど、俺の中では、別の音が鳴り響いていた。
(えっ!! こ、これは!!! 野外ロケ?! 自然光?! 背景の広がり?!)
(翠 in 河川敷?! 桜並木?! 逆光も使えるじゃん!!)
「……やっっっっば!! カメラ持って行かなきゃ!!!」
思わず声に出していた。何人かが「は?」という顔を向けてきたけど、そんなのどうでもいい!! 校外学習ーーつまり、翠の新たな顔が撮れるビッグチャンス!!
俺の脳内にはもう、既に構図とレンズと自然光がぐるぐる回っていた。
(やばい、構図考えとこ……! 河川敷とか背景にして、逆光も使えるし! ぁああぁあ!! 最高……!!)
放課後の帰り道、俺のテンションはひとりで勝手に急上昇していた。
