カーテンの布を、そっと指先で押し分ける。少しだけ顔を覗かせると、すぐに誰かの視線とぶつかって、肩がびくりと跳ねた。
自分が今、どう見られているのかを想像してしまい、息が詰まりそうになる。足がすくみながらも、それでも、どうにか一歩ずつ前へ出た。
真っ白なブラウス、やわらかなピンクのカーディガン。胸元には、小さなリボン。タイツ越しの脚線が晒されているのが分かって、体がむずがゆい。
(……これ、本当に……似合ってるのかな)
不安が胸を締めつける。だけどその奥に、ほんのわずかに期待もあって。それを誤魔化すように、無意識に唇を噛んでいた。
「……わ……」
「えっ、めっちゃ可愛い~~!!」
「玲央ちゃん、いけるじゃーん!!」
「なにこれ反則!! 看板娘だな~~!」
声が、わっと広がった。からかわれてるのかもしれない。でも、笑ってる声の響きが、どこか本気みたいに思えた。
「ちょっと、やめてよ……」
そう呟きながら、自然と頬が熱を帯びていく。困ったように笑ってしまうのは、たぶん、嬉しかったからだ。
ふと、翠の方を見る。少し離れた場所で、無言のままこちらを見ているのが分かった。翠は笑ってはいなくて。その表情の意味が、わからなかった。
(怒ってる? 引いてる? 嫌われたくないのに……)
胸の奥にじくりとした痛みが広がった、そのとき。あの声が聞こえた。
「おー、いいじゃん玲央。なんか、ほんとに『女子』って感じで」
真鍋の軽い一言に、背筋がすっと冷たくなる。
「つーかさ、お前、そういう路線でいけば? 『写真部』より向いてんじゃね?」
「……え?」
耳が、熱いのか冷たいのか分からなくなる。言葉を処理する前に、次の言葉が、さらに胸を抉った。
「ほら、俺、この前も言ったじゃん。なんか、玲央の写真ってさ……どれも綺麗だけど、ぜんぶ『表面だけ』っていうか?」
教室の空気が、変わった気がした。笑ってた声が止まり、視線が逸れる。その変化だけで、すべてを悟った。
(……やめて)
「……真鍋」
翠の声が落ちる。けれど、それさえも遠くに感じた。
「え? 別に~~? ただ、写真部って感性勝負じゃん? なんかさ、玲央ってそういう『内側』を見せるタイプじゃないし、作品って感じしないっていうか~~」
笑ってる。でも、その笑みの裏にある『悪意』が、あまりにもはっきりと見えた。痛かった。胸が、指先が、喉の奥が、全部、ひりひりと痺れた。
カーディガンの袖をきゅっと握る。体の内側から、心がひっそりとしぼんでいくのがわかった。
見られること。受け止められること。
自分が撮ったものを『作品』として差し出すこと。
ーーずっと、怖かった。
「……俺、ちょっと……席、外す……」
それだけ言い残して、誰とも目を合わせずに視聴覚室を出た。ただ、逃げるように。今、誰かの顔を見たら、崩れてしまいそうだった。
「ちょっと待って、玲央っーー!」
翠の声が背中を追いかけてくる。でも、足は止まらなかった。
*
玲央が出て行った扉を、しばらく見つめていた。その場にいた全員が、空気の変化に気づいていたけれど、誰も何も言わなかった。
「……ちょっと、行ってくる」
そう、小さく呟いて、視聴覚室を出た。廊下を早足で歩きながら、ふと足を止めた。
(……カメラ)
教室のロッカーには、玲央がいつも使っているカメラバッグが入っている。玲央にとって、それは『目』であり『心』だ。
撮れなくなった、って言ってた。でも、だったら尚更、あれがなきゃ、何も始まらない。
教室のドアを開けて、誰もいない空間を横切る。ロッカーを開けると、丁寧に包まれた黒のカメラがそこにあった。
そっと持ち上げると、まるで、玲央の温度ごと、今ここにあるみたいに、重さが手に馴染んだ。
(……玲央)
ぎゅっとカメラバッグのストラップを強く握りしめ、そのまま廊下へ飛び出し、階段を駆け上がる。向かう先はーー屋上。
屋上の扉を開けた瞬間、風がふっと頬を撫でた。夕焼けに染まる空の下、校舎全体が赤く照らされていて、そのフェンスのそばに、玲央の姿が見えた。
「……玲央!」
声に反応して、玲央がゆっくりと振り返る。目の縁が、ほんのり赤くなっていた。
「……翠……」
泣いていたのか、玲央の声は掠れていて。けれど、それを責めるつもりなんて、なかった。
「なんで、逃げたの」
そっと問いかける。玲央は僕から視線を逸らして、俯いた。
「……だって……あんな風に言われたら……撮る資格なんて、ないって思っちゃって……」
言葉が遠い。まだ玲央は傷の中にいる。一歩ずつ、ゆっくり近づきながら、玲央の視線を遮るように真正面に立つ。そして、手に持っていたカメラを、そっと差し出した。
「これ、持ってきた」
「……え……?」
「『玲央の写真』が、誰かに何かを言われたくらいで止まるならーーその程度だったってことになる……でも僕は、そうじゃないって知ってる」
言葉に嘘はなかった。
玲央の写真を、ずっと見てきたから。ファインダー越しの優しさも、あたたかい眼差しも、全部、知っている。だからこそ、ここで、辞めて欲しくなかった。
「………っ」
「写真は、玲央が『見てる』ってことでしょ。僕が知らない、玲央の目線。それが、僕は、……好きなんだ」
玲央が、息を呑んだ。
「……でも……怖いよ。もしまた、誰かに……」
「それでも僕は、玲央に撮ってほしい」
玲央はしばらく黙ったまま、じっとカメラを見つめていた。そして、震える手で、ゆっくりと受け取った。
ストラップをかける指先は、まだ少しだけ不安定で。けれどその指先に、光がほんの少し、戻り始めていた。
*
カメラを受け取った瞬間、手のひらに伝わる重みが、どこか懐かしく感じた。ファインダーを覗くわけでもなく、ただ、その存在を確かめるように握りしめる。
そこには、確かに『自分』があった。忘れかけていた温度が、ゆっくりと蘇ってくる。
「……翠、ちょっと、立っててくれる?」
「え?」
「そこ……夕陽が綺麗だから。翠の後ろ姿、撮りたい」
自分の声が少しだけ震えた。でも、もう自分のやりたいことを誤魔化さない。この景色を、この瞬間の翠を、写真に残したい。その想いを胸に、ファインダーを構える。
カメラを向ける俺を見て、翠はやさしい笑みを溢して、その場所へ立った。
空は、深い茜に染まり、風が、ゆるやかに吹き抜ける。長く伸びる影の中で、翠が静かに佇む。
綺麗だと思った、その時には、指が自然に動いていた。
ーーカシャッ。
一枚目のシャッター音が響いた。逆光の中、光を纏ったような翠の背中が、ファインダー越しに浮かび上がる。
(……きれい)
袖の揺れ、細い首筋、ふと振り返ったときの横顔。どれもこれも、ただの『被写体』じゃない。『綺麗』とか、『可愛い』とか、そんな言葉じゃ、足りなかった。
(やっぱり、好きなんだ……)
シャッターを切るたびに、胸から溢れてくる。
カメラを好きになった理由。
翠を好きになった理由。
そのどれもが、ひとつに重なっていく。
写真でしか、ちゃんと伝えられないこの想いをーー今、全部、ここに込めている。
「玲央」
翠の声が、レンズ越しに届く。
「ちゃんと、僕を見てる?」
「……見てるよ、ずっと前から。……だから、撮るんだ」
気持ちを零すと、少しだけ喉が熱くなった。風が言葉をやさしくさらっていく。でも、翠にはちゃんと届いた気がした。
もう一度、カメラを構える。光が、翠を完璧に照らした。その一瞬を逃さずにシャッターを切る。
ーーカシャッ。
この一枚が、文化祭で注目されることになるなんて、このときの俺は、まだ知らなかった。
