被写体は、きみひとり



 新学期の教室には、夏の名残と、新しい始まりの匂いが入り混じっていた。窓から吹き込む風は、まだ湿気を含んでいて、しつこく鳴く蝉の声が、遠くで夏を引き止めている。


 けれど、机を引く音も、笑い声も、どこか軽やかだった。久々に顔を合わせたクラスメイトたちの会話は、ほんの少し浮ついていて。それがまた、季節の切れ目を教えてくれていた。


「玲央~~、プリント取っといたよ。来週から文化祭準備だってさ」
「ありがとう!!」


 自分の席に腰を下ろすと、机の上には数枚のプリントが並んでいた。文化祭の出し物について書かれた案内だ。


 ちらりと前の席を見ると、翠がノートを開いていた。気配に気づいたのか、振り返って、ふっと目を細めて笑った。


 その顔を見ると、胸が、少しくすぐったくなる。夏休みにあんなことがあったせいか、目が合うだけで妙に照れくさい。


「おーーい、玲央!」


 ガタリと椅子を引く音がして、背後から馴れ馴れしい声が響いた。


「あ……真鍋……」
「夏休み、写真めっちゃ撮ったっしょ? 成瀬リトのSNS見たよ、帰ってきてんじゃん。見せてよ、いいやつ撮れたんだろ?」
「えっ……いや、それは……」


 言いかけた言葉が滲んで、自然と視線が泳いだ。真鍋の笑顔はあまりにも無邪気で。だからこそ怖くて。悪気がないと分かっているからこそ、何も言えなかった。


「え、なに? やましいのでも撮ってた? ぼかし入れたエロいやつとかさ~~?」


 クラスの何人かが笑うのが聞こえた。手を伸ばしかけた鞄に、真鍋の手が先に届いた。


「見せろって。文化祭の展示候補とか、ちょうど選ぶタイミングだろ? 玲央のセンスで撮ったやつ、見てみようぜ」
「や、やめてよ、勝手に……!」


 スマホが奪われ、画面を指で滑らせながら、真鍋がまた無神経に笑った。


「あーー、やっぱこういうのね。光の入り方とか構図とか、めっちゃ意識してるやつ。でもさ、なんか『綺麗なだけ』って感じ? 面白味がないっていうか」


(……『綺麗なだけ』?)


 言葉の一つひとつが、まるで冷水みたいに心へ降ってきて、頭が真っ白になる。真鍋の言葉に喉の奥が詰まって、口がうまく動かなかった。


「やっぱ成瀬リトには及ばない、みたいな? 親がすごいからって、息子もってわけじゃないよなぁ。まあ、才能って遺伝しないって言うし?」


 真鍋がスクロールしていたのは、修学旅行で撮った写真だった。月明かりに照らされた横顔、誰もいない庭に灯る小さな光。そっと笑った一瞬の表情。


 その全てをファインダー越しに捉え、大切に、丁寧に、シャッターを切ったもので、誰にも見せたくなかった、一番大事なものだった。


 ーーなのに。


「……やめてっ!!」


 震える手でスマホを奪い返す。胸に抱きしめ、鞄を掴み、立ち上がる。教室中の視線が突き刺さったけれど、もう気にする余裕なんてなかった。


 廊下を飛び出し、角を曲がり、階段の踊り場まで走って、ようやく足が止まる。肩で息をしながら、胸の奥がぎゅうっと締めつけられた。


 ーーもう、写真なんて……撮れない。


 鞄の奥にしまったカメラが、やけに重たく感じた。


 *


 扉が閉まる音がして、教室に一瞬の静寂が落ちた。その直前まで響いていた笑い声も、椅子の軋む音も、何かを察したように止まった。


 視線を上げると、真鍋がまだ笑ったままでいて。まるで何もなかったようなその顔が、逆に痛かった。


 ーーああ、この人は、何が起きたのか、きっとわかっていない。


 写真をバカにするつもりはなかった。たぶん、真鍋自身は本当にそう思っている。だからこそ、どうしようもなく、腹が立った。


 何も知らないくせに。無神経な一言で、誰かの宝物を壊してしまうことが、どれだけ残酷なことか、わかってない……!


「……それ、最低だよ」


 自分でも驚くほど、冷静な声が口から出た。空気が、ぴんと張り詰め、教室の空気が、音もなく揺れる。ゆっくりと立ち上がり、ノートを閉じた。


 真鍋を見下ろす視線が、自分の中でどこか冷えていくのを感じる。


「勝手に見て、勝手に評価して……あんなふうに言うなんてさ。玲央がどれだけ真剣に、写真と向き合ってたか……知らないくせに」
「は? 見せてって言っただけじゃん」


 悪びれもせず言い返すその態度に、胸の奥がざわっと波打つ。気づいたときには、手が机を叩いていた。鈍い音が響き、教室中の空気がひやりと凍りつく。


「『綺麗なだけ』とか、『面白くない』とか……そういう言葉が、いちばん傷つくんだよ!!」


 誰よりも玲央の目を見て、シャッターを切る姿を見てきたから、あの写真がどれほど大事だったか、知っている。


 だからこそ、悔しかった。


 ただ、悔しかった。


「……わかったって。ごめんごめん、そんな怒んなよ。ちょっと言いすぎただけだって」
「それ、僕じゃなくて玲央に言ってよ」


 掠れた声でそう言って、鞄を掴む。足が自然と教室の出口に向かった。後ろから聞こえるざわめきにも、追いかけるような視線にも、何も返さなかった。


 その言葉を最後に、教室を出る。残った教室には、気まずさと後悔と、夏の終わりの空気だけが、じわじわと沈んだ。


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 それから、玲央は写真を撮らなくなった。


 いつも鞄に入れていたカメラは、教室に持って来ることもなくなり、スマホのシャッターも、いつしか鳴らなくなった。


 昼休みに屋上へ来ても、玲央はただ黙って、空を見ているだけで。文化祭の展示案に名前は載っているのに、何かを諦めたように「俺には無理」と呟いて、それきりだった。


「玲央……」


 隣に腰を下ろすと、玲央は少しだけ、笑ってくれる。でもその笑顔は、夏の夜に見たあの、蕩けるような顔じゃなかった。何かをぎゅっと堪えるような、形だけの笑顔だった。


「俺……やっぱり、自信なかったんだと思う」


 ぽつりと零れた声が、風に紛れて消えそうになる。玲央の声は掠れていて、手元は落ち着かず、指先が膝の上でそわそわと動いていた。


「人に自分の写真見せるの、ほんとは怖かった。綺麗に撮れてるって思ってたけど……『面白くない』って言われたとき……ああ、やっぱりそうなんだって、思っちゃった」


 ーーやめて。


 その言葉だけが、胸の奥で何度も繰り返される。玲央が、自分の手で大切にしてきたものを、『やっぱり』って諦めてしまうのが、辛くて堪らなかった。


 僕には、玲央の写真がどれほど綺麗で、どれほどやさしいものか、わかっているのに。


 拳をぎゅっと握る。
 

 真鍋のことは、やっぱり許せない。でも、それ以上に、玲央の笑顔を、取り戻したい。
 

 あの夜、光の中で見た笑顔を、もう一度この目で見たい。


 それができるのは、きっと、僕だけーー。