蝉の声が、じりじりと空を焼いていた。夏の終わりを惜しむように鳴くその音が、夕暮れの駅前を、うっすらとオレンジに染めていく。
ロータリーには、浴衣姿の人々がぽつぽつと集まりはじめていて。団扇をあおぐ手や、結い上げられた髪、カランコロンと鳴る下駄の音。
まるで別世界に放り込まれたような、ふわふわした感覚に、俺は落ち着かず、周囲を見渡した。
(……うぅ、浴衣ってこんなに視線集めるものだっけ……)
知らない誰かの視線が、肌の上を撫でていく。浴衣の襟元を指で引き、少しだけ空気を入れる。帯が思ったより締まっていて、苦しい。
紺地に淡い向日葵が散る浴衣は、派手すぎず、でも決して地味ではない柄だ。なんで、向日葵柄なのか!! 恥ずかしい!!
(無地が良かった……!)
待ち合わせの時間には、まだ少し早くて。すでにドキドキしすぎて、足元の下駄が妙にぎこちなく感じたそのときだった。
「……玲央?」
耳に届いた声に、心臓がどきりと跳ねる。振り返ると、白いオーバーサイズのTシャツにデニムの、見慣れた姿がそこにあった。一瞬で俺の全身を見渡した翠の目が、ふと浴衣に止まる。
「……その浴衣」
「っ……あ、えっと……」
どうしよう。なんでこんなに恥ずかしいんだろう。視線を逸らしながら、小さな声で誤魔化す。
「……その……父が、強引に着せ………」
自分の言っていることに、自信がなくなり、最後がほとんど消えかける。恥ずかしくて、視線も定まらない。喉が乾いて仕方ない。だけど、翠は一歩、俺に近づいてきた。
すっと伸ばされた手が、俺の頬に触れる。指先が少しだけひんやりしていて、びくっと肩が震えた。
「……似合ってるよ」
まっすぐ、優しい目で、そんなふうに言われたら、顔なんて見ていられなくて。耳まで熱くなりながら、蚊の鳴くような声で答えて俯いた。
「……っっ……ありがと……」
「……行こっか。何から食べる?」
「えっとね~~~」
浴衣の裾が、夕暮れの風にふわりと揺れる。並んだ手と指先が、少しだけ絡まり、人混みの中、肩が触れそうな距離で、俺と翠は歩き出した。
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屋台の提灯が、通りを赤く照らしている。焼きそばの香り、りんご飴の甘さ、どこか懐かしいポップコーンの匂いが風に乗って漂い、夏の夜が、じっとりと熱をまとって、少しだけ浮ついていた。
浴衣姿の玲央は、どこかいつもより色っぽくて。修学旅行の温泉とは、まるで違った。
うなじのラインも、足首も、何もかもが『玲央』なのに、少しだけ大人びて見え、視線を合わせるのが怖かった。
「翠、これ食べない?」
玲央がチョコバナナの屋台で立ち止まった。派手な色のバナナが並んでいて、まるで見本のように可愛い。チョコの甘い匂いに、玲央が大きな瞳をきゅっと細める。それだけで、衝動的に財布を出していた。
「……これください、二本」
「はい! まいど!!」
思いつきだったけど、やってみたくなり、チョコバナナを持ち、玲央の前に差し出した。
「……あ~~ん」
「……っ?! な、なに言って?!」
顔を真っ赤に染めて、玲央が一瞬、固まる。でも、少しして、そっと唇を開けた。差し出したバナナの先端が、そっと舌に触れる。
それだけの光景なのに、妙にいやらしく感じて、頭の奥をじんわり熱くさせた。玲央の小さな口が、遠慮がちにチョコをかじる。唇の端に、チョコが少しだけついた。
「……んっ……」
「……口、汚れてる」
「えっ?」
指先で、そのチョコを拭う。濡れた口元が、触れた指の感触をやけに生々しくさせ、息をのんだ。玲央が頬を赤く染め、そっと目を伏せる。まつ毛を揺らしながら、小さな声で呟いた。
「……間接キスじゃん……」
「なにを今さら」
「う、うるさいな!! あっ……あれ、金魚すくい! やろう!!」
誤魔化すように、手をぐいっと引っ張られる。玲央の手は少しだけ汗ばんでいて、それがなんだか可愛かった。
金魚すくいの屋台は、水音が満ちていた。ざばざばと泳ぐ金魚は、赤、白、出目金と鮮やかで。水槽の中の命が、涼やかに揺れる。
「めっちゃ泳いでる……!!」
玲央が水槽の前でしゃがみ込む。浴衣の裾が、ふわりと膝から滑り落ちて、白い足首が覗いた。ドキッとして、思わず視線を逸らす。
「おにーさん、やってく? 一回三百円!」
「……じゃあ、一回だけ」
小銭を渡すと、紙のポイが手に渡された。真剣な目で水槽を覗き込む玲央の姿に、思わず口元が緩む。
「そっちの、大きいの狙うの?」
「うん! 大きい方がかっこいいから!!」
「……大きいと重くて破れちゃうと思うな~~」
「そんなことないって! 見てろって!」
玲央の視線が右へ左へと泳ぐ。ちょっと前のめりになってるせいで、襟元がわずかに開いて、そこから白い鎖骨が覗いていた。そんな姿勢ひとつで、胸がざわつく自分が怖い。
「う~~ん」
玲央が、水面すれすれにポイを滑らせる。だけど、金魚の動きは速くて、うまく狙えていない。
「あっ……やば! 紙、破れそう……っ」
「ほら、貸して」
玲央の手を、自分の手でそっと包み込む。びくっと玲央の肩が揺れた。
「ちょ、ちょっと!! こ、こういうのは、だめなんだって……っ」
「ほら、こうやってゆっくり……。金魚が止まったときを狙ってーー」
くすりと笑いながら、玲央の手ごとポイを動かす。水音の中、指先と指先が重なる感触が、胸の奥にじわりと染みていく。でも、金魚の方が一枚上手で。
ちゃぽん、と音がして、ポイが水中で破れた。
「……だめだった」
「翠がそっちに動かすからだろ~~」
「大きいのを狙いすぎなんだって」
「う、うるさいっ。でも……ありがと」
玲央が照れ隠しのように言って、横を向く。その頬にふっと風が当たって、うっすら汗ばんだ髪が揺れた。濡れた玲央の手を、自分のハンカチで包み込むように拭う。
「……冷たくなってる」
「そりゃ、だって水に触ってたから……」
「……嫌じゃない?」
「……へ?」
「こうして僕が触るの」
ふと聞いてしまった自分に驚く。でも、口にしてしまったものは戻らない。玲央は、一瞬きょとんとした後、視線を逸らした。
「……嫌じゃないけど……変な感じする、だけ」
それを聞いただけで、夏の夜が、急に静まり返ったように思えた。
