修学旅行から帰ってきた翌週。教室の空気はすっかり『現実』に戻っていた。
黒板には大きく『テスト一週間前』の文字があって。誰もが焦りを滲ませながらも、どこかまだ旅の余韻を引きずっていた。
その中で、俺だけはずっと、翠の『あの一言』が頭から離れなかった。
『……次は、そのシャツ、脱がすから』
(……あれ、ほんと、何だったんだ……っ)
それ以来、崩していた制服の第二ボタンが妙に気になって、気づけば第一ボタンまでしか開けられなくなっていた。
翠はクラス委員に部活に忙しくて、なかなかふたりで会えない日が続いた。寂しい……って言うのは、ちょっと恥ずかしいけれど。
でもやっぱり、会えないと、どこか心にぽっかり穴が空いたような気がしてしまう。でも、今日は、付き合ってから初めての放課後デート。
俺は、こっそりドキドキしながら、図書室へ向かった。
誰もいない静かな図書室。窓際の席に座って、ノートと教科書を開く。ページをめくっても、翠のことが気になって、全く頭に入ってこなかった。
*
図書室の扉を開けると、光の先に玲央の背中が見えた。窓際の席に頬杖をついて、机の上のノートを見つめているーーように見えて、ページはまったく進んでいない。
(……可愛い)
その言葉が、無意識に胸の内に浮かぶ。素直で、ちょっと抜けてて、でも一生懸命で。あんな風に首を傾げているだけで、触れたくなる。
静かに歩み寄り、隣に座ると、玲央がぱっと顔を上げ、目が合った。
「遅くなって、ごめん」
その瞬間、玲央の顔がぱっと明るくなる。その変化が、ただ嬉しかった。
「……勉強、してた?」
「う、うん。してたよ」
嘘だって、すぐわかる。机の上のノートは白いし、手の動きも不自然だ。
「ふーん、じゃあ見せて。どこまでやったの?」
「え? えっと……」
「してないじゃん」
くすっと笑いながら、玲央のノートに手を伸ばす。ふと、指先が玲央の小指に触れ、ぴくりと玲央が肩を揺らす。その反応がたまらなく愛しい。
顔を覗き込むように近づくと、玲央がじっとこちらを見つめた。その目は、ほんの少し、潤んでいる気がした。
玲央を手放したくない。誰にも、触れさせたくない。そんな独り占めしたい気持ちが、胸の奥からせり上がる。
……でも、今は。
視線をふとノートに落とし、感情を抑えるように息を吐く。手元にあるのは教科書で。ここは図書室。ふたりの勉強の時間だ。そう自分に言い聞かせる。
「……この問題」
自然を装い、囁くように言葉を落とすと、玲央がわずかに息を呑んだのが分かった。髪が頬に触れたのか、玲央の呼吸が浅くなる気配が伝わってくる。
「……分かんない?」
「……わ、分かるし。たぶん、分かる」
「じゃあ、ちゃんと口で説明して」
「えっと……」
焦る玲央の声が可愛くて、少しだけ顔を寄せると、真っ赤な頬が視界に入った。その赤さが、もっと見たくて、玲央の襟元に視線を落とすと、ボタンは第二までしっかり留まっていた。
(……可愛い。ちゃんと、守ってる)
それが嬉しくて。同時に、僕のために『閉じた』という事実が愛おしかった。指先で、そっとボタンに触れる。
「……今日は閉まってるんだね」
「……だって、あんまり開けないでって言ったから」
「でも、僕は見たいな」
「…………っっ?!?!」
玲央の瞳が驚きで揺れた。抗議の声を上げようとするよりも早く、もうひとつのボタンを外す。シャツがふわりと開いて、白い肌が見えた。
(……やっぱり、無防備すぎる)
ふいに、欲が滲む。
ぐっと玲央の腰を引き寄せ、膝の間に収めると、玲央があたふたと手をばたつかせた。
「うわぁああっ!!!」
「最近、屋上の撮影も付き合えなかったし、部活で一緒にも帰れなくて、寂しかった」
言葉にしてしまえば、少しだけ気恥ずかしくて。でも、こうやって抱きしめてしまえば、僕の想いもきっと伝わる。
玲央の耳を見ると、真っ赤に染まっていた。それが可愛くて、ノートを開いたまま、僕は玲央の肩に軽く額を寄せた。すぐそばで聞こえる、玲央の不規則な浅い呼吸に、鼓動が早くなる。
「せっかくだから、こうやって勉強しよ?」
「……そ、そんなの、頭に入らないし!!」
(……ほんとに、可愛い)
玲央の背中から、高くなった体温が伝わる。ページをめくる指が重なっても、玲央は、手を引こうとしなかった。
「……玲央」
「ん?」
「僕、夏休みは塾と部活で全然会えないんだけどさ……」
「……えっ」
「……お祭りは一緒に行こうね」
僕の誘いを聞いて、嬉しそうにする玲央の顔に、僕の中でなにかが、優しくほどけた。
「あ、玲央がテスト頑張ったらね」
「ぇええぇえ!!!」
少しからかうように笑って、手を繋いだまま、玲央を見つめる。
「ほんとに頑張る?」
「40点以上とる!! ……で、がんばったら、その、えっと……」
「……『脱がして』ほしい?」
「なっ……!!!! 何言って!!!」
反応は、期待以上で。真っ赤になって、唇を小刻みに震わせている。思わず、首筋へ口付けた。
「あっ、だ、だめっ……翠っ、人、来るっ……」
(……やば)
甘く濡れた声を出し、息を混じらせ玲央の肩が上がる。自分を拒む言葉のはずなのに、その声に、ぞくりと背筋が痺れる。
口付けを落とすたびに、目の前の玲央が、顔を真っ赤にして、びくりと震えた。その表情があまりに無防備で、たまらなかった。
「っや……っあ、す、翠っ、だめだってばっ」
「玲央が静かにしていれば大丈夫じゃない?」
「~~~っ?! これ以上は風紀が乱れるってばっ!!!」
そっと玲央の唇に指先で触れ、静かに耳元で囁いた。
「しーー。図書室だよ、静かに」
「~~~っ!」
その声すら、可愛いくて、全部、抱きしめたくなる。もうちょっとだけ、いじわるしたい。
でも、気づけば図書室の時計は、下校時刻を指していて。チャイムが静かに鳴り、僕たちは教科書を閉じた。
「……帰ろっか」
「……う、うん」
立ち上がると、自然と指先が絡まる。玲央が繋いできたのか、僕が繋いだのかは分からない。でも、もうその区別はどうでもよかった。
今、こうして隣にいて、触れられていることが、僕にとってはすべてで。放課後の廊下は、すでに誰もいない。窓から差す陽射しが床を切り取った。
その光の中を、ふたり並んで歩いていく。
「……帰り道も、ずっとこうしていたいな」
思わず溢れた言葉に、玲央が少しだけ指をきゅっと握ってきた。そんなささやかな返事が、どんな言葉より、心に響いた。
