空の旅が終わり、空港に降り立つと、機内の静けさが嘘だったかのように、ざわめきが耳を刺した。目に映る看板やアナウンスが、少しずつ『非日常』を終わらせにかかる。
クラスごとに点呼が取られ、ロビーは家族の迎えでごった返していた。まだ余韻の残るクラスメイトたちが写真を撮ったり、お土産を見せ合ったり、ざっくばらんな声が飛び交っている。
その中で俺は、気づかないうちに、翠と少し距離を取っていた。誰も気にしていないはずなのに、『いつも通り』を装ってしまう自分がいる。
だって、短い時間だったけど、肩を貸してもらっていたあのぬくもりは、優しすぎて、甘すぎて、まるで夢みたいだったから。
(……思わず甘えちゃった)
ほんの数分でも、翠と離れると、胸の奥にぽっかりと穴が空いたみたいに感じる。その寂しさに気づいた瞬間、無意識に視線で翠を探していた。
人の流れから少し外れたロビーの隅に立つ翠を見つけて、思わず名前を呼んだ。その一声で、抑えていた気持ちが、胸の奥から一気に溢れた。
「……翠っ!」
振り返った翠は、いつものクラスで見せる真面目な顔で。でも、ほんの一瞬、ほっとしたように目が細まった。
「……やっと、来た」
「だって、先生に呼ばれたり、点呼とかで忙しそうだったし……」
「クラス委員だからね」
「……あと、あんまり近くにいると、バレるかなって」
「まあ、そうだね。けどさーー」
翠が少し目を伏せて、ほんの数秒、躊躇うような間を置いて、ぽつりと呟いた。
「……昨日、あんなに甘い声だしてたくせに」
制服の胸元に、そっと人差し指が伸びてきて、ボタンのあたりを軽くなぞる。胸の中心を軽く押され、意味がわからなくて、目を見返す。
翠の視線は、指先より少し上ーー俺の顔へ静かに向けられていた。
「……あんまり、ここ、開けすぎないで」
「えっ、なんで?! 校則違反?!」
「風紀、かな」
「なにその線引き!!」
笑いかけたけど、翠の目は、さっきよりずっと真剣で。指先が、つうっと滑って、鎖骨の中心に触れる。その一瞬だけで、呼吸が浅くなる。
「……バスの中で、見えてたから」
「……っ……なっ」
言葉の意味がわかるより先に、全身へじわりと熱が広がっていく。視線を逸らすこともできず、思わずその場で固まった。
「見えてた、って……なにが?!」
「鎖骨のとこ。あと、ちょっと下も」
「っ~~~~~~!! ちょ、ちょっと下って、な、なにを見たの?!」
息をのんで見上げると、翠は落ち着きを払った声で、目を逸らさずに言った。
「……さあ? でも、無防備な玲央が悪いと思うな」
「お、俺っ?!」
余裕のある声の低さが、すっと肌の奥まで染み込んでくる。指が離れたのに、胸元に残った感触だけが、熱を帯びていた。
(……なんで、制服のボタンひとつで……)
自分でも知らなかった。こんなふうに、翠の手ひとつで、身体が勝手に反応してしまうなんて。羞恥と一緒に、どこかくすぐったい熱が、喉の奥までせり上がる。
「じゃあ、またね。期末テスト……覚悟しといて」
そう言って、翠は荷物を持ち直すと、俺の耳元に唇を寄せて、甘く囁いた。
「……次は、そのシャツ、脱がすから」
「ーーーーーーっ!!」
かあっと頬が赤く染まる。そんな俺を見て翠はにっこりと微笑むと、振り返ることもなく歩き出した。
その背中を追いかけたいのに、身体が動かなかくて。なにか熱いものだけが、心臓から足元まで突き抜けていく。
残された俺は、ただ立ち尽くすことしかできず、顔だけが、どうしようもなく真っ赤になっていた。
胸の真ん中の押された場所が、まだじんじんと熱くて。まるで、『そのとき』を待っているみたいに、身体の奥がずっと疼いていた。
