ーー次の日の朝
鏡の前で、カメラのストラップを首にかける。緊張を和らげるように、ひとつ深呼吸をした。
「……よし!! 今日は勝負だ!!」
制服の襟を直す手にも、自然と力が入る。篠原との『撮影』が、いよいよ始まる。思えば告白でも何でもない。写真を撮る、ただ、それだけなのに、こんなにも心臓がバクバクするのは、初めてだった。
通学路を歩く足取りは、いつもより軽くて重い。自転車のベルの音。風に揺れる制服の裾。誰かの笑い声。どれも普段と変わらないはずなのに、今日は全部が騒がしく感じてしまう。
自分の鼓動が、それに重なるように響いていた。
(やばい、落ち着け俺!! これはただの撮影!! ただの、撮影なんだから!!)
ストラップの位置を無意識に直しながら、下駄箱の前まで歩く。そこに立っていたのは、いつもと変わらない篠原で。何も変わらないはずなのに、目が離せなかった。
「篠原っ! おはよ!!」
「……おはよう、成瀬。朝から元気だね」
「今日は、撮影だから!!」
「ああ……」
そっけない返事の直後だった。篠原がふいに手を伸ばし、ポン、と俺の頭を軽く撫でる。何が起きたのか分からなくて、一瞬、思考が止まる。
「えっ、ちょ……な、何……?!」
問いかける間もなく、篠原はいつものクールな顔のまま、俺に背を向け、昇降口へ歩き出した。さっきの仕草が頬に熱を残す。
「えっ、ぇえぇぇえ!!! それだけ?! 意味分かんないんだけど!! ちょっと待ってよ!!」
気づけば、スタスタと先を行く篠原の背中を追いかけていた。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
午前中の授業は、まるで耳に入ってこなかった。ノートに残ったのは、数式でも歴史の年号でもない。
篠原の立ち位置、光の入り方、どの角度が一番自然な表情を引き出せるか、など、ページの端に、写真の構図がいくつも並んでいく。
(ふふふ……脳内シミュレーション完璧!!!)
昼休みまで、あと五分。
教科書のページをめくるふりをしながら、そっと篠原の方に視線を向ける。彼はいつも通り、無言で黒板を見つめていた。
(ほんとに……昼、付き合ってくれるんだよね……?)
期待と不安が綯い交ぜになって、落ち着かない。机の下で指を組みかえたり、膝をトントンと揺らしたり。チャイムの音が、いつもよりずっと遅く感じた。
ーーキーンコーンカーンコーン
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、俺は勢いよく立ち上がった。
「昼休みだぁあぁああ!!!」
ガタッと椅子が鳴り、カメラのストラップがシャラリと揺れる。篠原の机の前に立ち、目を輝かせて声をかけた。
「行こっか!!」
勢いに押されたみたいに篠原が顔を上げる。ノートの最後の一行を書き終えてから、静かに言った。
「その前に、お昼食べない? 僕、お腹空いたんだけど」
「……あ、そっか!! そうだった!!」
ちょっと恥ずかしくなって、照れ笑いで誤魔化す。篠原が立ち上がり、鞄からコンビニの袋を取り出した。
「今日、天気いいね?」
「うん! 空が綺麗に撮れそう!!」
弁当とカメラを抱えて、屋上へと向かう。何でもない会話のはずなのに、篠原の隣を歩くだけで、胸がくすぐったくなった。
ーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーー
ーーーー
*
屋上のベンチに並んで座った。春の風が、僕たちの髪をやわらかく揺らしていく。昼の光は眩しすぎず、ただ静かに、空気をあたためていた。
視線の先にあった成瀬の弁当は、手早く詰めたような不格好な形をしていて。けれど、どこか懐かしく、あたたかみがあった。
「……手作り?」
「あ、うん。毎朝、適当に詰めてるだけだけど」
「自分で作ってるの?」
「え? う、うん。……誰も作ってくれないから」
言葉の温度が、ふっと変わった気がした。軽い会話のつもりだった。でも、その声の奥には、触れたことのない冷たい水面が、静かに揺れていた。
パンの袋を開ける手を止め、そっと成瀬の横顔を盗み見る。伏せたまつげの下で、卵焼きが静かに口へ運ばれた。
かすかに動いた唇は、笑っているようで、何かを飲み込んでいるようにも見えた。
「……俺、親が再婚なんだ。父親の連れ子でさ、今の母親にはあんまり好かれてなくて」
ぽつぽつと、成瀬から言葉が零れる。誰かに話し慣れている感じではなくて。ずっと、心にしまってきたことなんだと思った。
「だから、何もしてもらえないんだ。ごはんも、弁当も、自分でやらなきゃでさ」
「兄弟は?」
「妹がいるよ。まだ小さいけど。父さんと今の母さんの子で……ちゃんと、可愛がられてる」
話すたびに、成瀬の声が少しずつ小さくなっていく。口元には笑みが浮かんでいるのに、その奥にあるものが、なぜだか胸に刺さった。
でも、言葉では返せなくて。だから代わりに、成瀬の頭にそっと手を置いた。
「なに」
「別に」
手のひらに伝わる体温が、思っていたよりずっと、柔らかかった。
「俺さ、写真って『証』だと思ってるんだ」
「証?」
「うん。『自分がここにいた』っていう証拠。……誰にも記録してもらえないなら、自分で残すしかないじゃん?」
成瀬が箸を置き、カメラを取り出す。構えたその動作は慣れていて。でもどこか、祈るみたいな真剣さを帯びていた。
カシャ。
静かなシャッター音が響く。ファインダー越しの僕を見つめる成瀬は、曇りのない笑顔を見せた。
「今まで撮った写真、誰にも見せるつもりはなかったけど……篠原になら、見せてもいいかなって、最近は、思ってるよ」
胸の奥が、かすかに鳴った。それが何の音かは、まだよくわからなくて。風が通り抜け、日常の音に紛れるように、小さな言葉が口をついて出た。
「……成瀬じゃなくて下の名前……玲央って呼んでいい?」
「えっ?」
成瀬が、驚いたように目を瞬かせる。それから、花が咲くみたいに、笑顔が広がった。
「うん、いいよ!」
「よろしく、玲央」
「俺も篠原のこと下の名前で呼んでいい?!」
「ダメ」
「なんで~~っ?!」
その笑顔は、さっきまでの曇りを一瞬で吹き飛ばすような、眩しい笑顔で。
春の光が、玲央の向日葵みたいな笑顔を、やさしく包み込んでいたーー。
