被写体は、きみひとり



 日が暮れ、長かった観光がようやく終わった。旅館に戻ると、皆でわいわいと夕食を囲み、そのあとは順番にお風呂へ入った。


 ざわめきも湯気もひと段落ついた今は、就寝前のほんの短い自由時間。


 部屋の明かりを落とすには、まだ少し早くて。けれど、どこか静かに沈んだ夜の空気に誘われて、俺は廊下の灯りをすり抜けるようにして歩き出した。


 すれ違った先生の視線を、少しだけ避ける。向かったのは、旅館の裏手にある、小さな庭園。


 空には薄い雲がかかっていて、月がぼんやりと滲んでいた。昼間の暑さはすっかり落ち着いて、涼しい風がそっと吹き抜ける。


「誘ったのに、遅くなっちゃった」
「ううん、僕も今来たところ」


 そう言って笑った翠の横顔が、庭の淡い灯りに照らされていた。優しい光が頬に落ちて、まるで月の一部みたいに儚くて。それが、すごく綺麗で、目が離せなかった。


「……そこ、いい。動かないで」


 思わずカメラを構える。ファインダー越しに捉えた翠は、静かで、美しかった。レンズの向こうなのに、どんどん惹き込まれていく。気づけば、夢中でシャッターを切っていた。


 何枚か撮ったあと、カメラを下ろすと、翠がふいに、こちらを振り返った。


「……撮れた?」
「うん! すごく、いいのが」


 その瞬間、翠が距離を詰めてきた。伸ばされた指先が、そっと髪に触れる。やわらかく撫でられ、体の奥がじんわり熱くなる。


「玲央」


 いつもより、低く、甘く名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。


「……なっ、なに……?」
「……『友達じゃできないこと』、してもいい?」


 耳元で囁かれるその響きが、直接胸の奥に届いて、頬が赤く染まる。


「えっ、な、なにを?! っていうか、それまだ引っ張るの?!」


 慌てて返すと、翠の目がふっと細められた。その眼差しは、まっすぐで、まるで冗談じゃないみたいだった。


「うん。だって僕、まだ全然足りてないし」


 そう言って手を引かれ、そのまま人目のつかない庭園の奥の木陰へと連れ込まれる。背中が木に当たって、逃げ場はなくて、手首がそっと掴まれた。


(……ま、待って、これって……えっと……!!)


 翠の手が、ゆっくりと俺の浴衣に伸びてくる。合わせ目の隙間から、少しだけはだけた胸元に、指先がそっと触れた。


「……んっ…」


 びくりと、身体が跳ねる。あたたかくて、けれど、くすぐったいような、少しゾクッとする感覚が一瞬で広がる。翠の指が、鎖骨のあたりを、確かめるようになぞった。


「……今日は、もっと仲良くなりたいな」
「な、なかよく……?!」


 少しずつ息が乱れていく。翠の手は優しいのに、全身の感覚が逆に鋭くなる。心臓の音が、自分でもうるさいほどに響いていた。


 翠は俺の動揺に気づいてるのか、それとも、わかっていて、やってるのか。顔は真っ赤に染まり、全身へ熱が疼く。


「……す、翠っ……もう無理っ……」
「本当に? ……じゃあ、『どう無理』なのか、ちゃんと教えて?」
「~~~~っ……!」


 顔が熱い。言葉が出ない。翠がそんな俺を見て、少しだけ意地悪く笑う。頬に口付けが落ちると、翠の指が、俺の胸元からふっと離れた。その瞬間、残念だと思ってしまった自分が恥ずかしい。


「……僕は委員長だからね。風紀は乱さないよ」
「……十分乱してると思います」
「はい、ありがとう」


 掴んでいた手首が離されて、はだけた胸元をそっと直してくれる。その仕草が、なんだか余計にずるくて。またあの手に触れてほしいなんて思ってる自分が、もっとずるい。


「……帰ろっか」 


 翠が手を引く。すっかり夜風は涼しくて、でも、触れられた熱は消えなかった。翠の横顔は、何事もなかったように穏やかで。その落ち着きが、悔しい。


 旅館に戻ると、自分たちの部屋の前で翠が立ち止まった。少しだけこちらを振り返り、俺の顔を見た。


「……寝るとき、また隣でいい?」
「……う、うん……」


 声が裏返りそうになって、慌てて誤魔化す。翠がくすりと笑って襖を開けた。でも、部屋の中は誰もいなくて。どうやら、まだ隣の部屋で盛り上がっているらしい。


 二人きりの夜の部屋。


 並んだ布団を見て、さっきの木陰が頭をよぎる。俺は思わず、頭を抱えた。


(……これ、絶対寝れない!)


 消灯時間になり、それぞれ布団に入る。寝息が聞こえ始めたけれど、俺の心臓は落ち着く気配がなかった。


(無理無理……! あんなことされた後で、こんな近くで寝るとか!)


 布団の中でひとり、天井を見つめて平常心を保とうとする。そのときだった。布団が、微かに揺れ、すぐ近くで、翠の声が落ちた。


「……修学旅行も、明日で終わりだね」


 そっと視線を向けると、暗がりの中、翠もこちらを見ていた。


「こんな風に、一緒に寝たりできるのって……次は、いつになるのかな」


 ふっと、小さく笑って言うその声には、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。その気配に何も言えずにいると、翠の身体がするりと動いた。


「………っ!」


 次の瞬間、腰に優しく腕が回される。翠が、何の迷いもなく俺の身体を引き寄せた。


「ちょ……っ、す、翠……!」
「……キスしていい?」


 耳元で囁かれる声に、全身が一瞬で固まる。至近距離すぎて、目を逸らすこともできなくて。翠のまつ毛や熱を含んだ吐息、そのすべてに心臓が軋む。


「……み、みんないるから、だめ……だと思います……」
「……そっか。ダメかぁ~~」


 くすくすと笑いながら、けれどそのまま、顔はゆっくりと近づいてくる。腰に回された手の力は緩まることはなく、俺は逃げられなかった。


「……でも、玲央が『ダメ』って言うときの顔、……可愛くて好き」
「っ……ば、かっ……!!」


 口付けで唇を塞がれる。声も、呼吸も、すべてが翠に飲み込まれていく。柔らかくて、熱くて、甘くて。触れ合う口唇に思考が溶けそうになる。


 唇を離しても、すぐに顔を離さず、翠がじっと俺を見つめてくる。


「な、なに?!」
「……玲央、顔、真っ赤。……可愛い」
「~~~っ、もぉっ……!」


 視線を逸そうとしても、翠の手がそれを許してくれなくて。頬に指先がそっと添えられ、まるで熱を確かめるみたいに撫でた。


「……もっと触れたら、玲央はどんな顔するんだろうって、……つい考えちゃう」
「だめっ! だめだってば……!」


 胸の中は熱く、恥ずかしさで、息もできない。それでも翠はやさしく笑って、触れる寸前まで、もう一度唇を近づけてきた。


「……おやすみ、玲央。……夢の中では、ダメって言わないでね?」


 囁くような声に背筋がぞくっとして、心臓がバカみたいに跳ねる。翠の腕がほどけ、身体が自由になっても、腕のぬくもりも、唇の感触も、肌に残っていて。


 その全部が火種みたいに、浴衣の下でじんわりと熱を育てていた。


(……こんなの、眠れるわけないってぇ……)


 隣で平然と寝息を立て始める翠と、爆発寸前の自分の鼓動。この夜は、きっと朝まで終わらないーー。