朝の旅館の広間で、眠そうな顔をしたクラスメイトたちが、湯気の立つ味噌汁をすすっていて。そんな中、俺と翠はどこかぎこちなく、距離をとるようにご飯を食べていた。
視線がふと交わるだけで、顔がかあっと熱くなる。箸を持つ手が、わずかに力が入った。
(あの距離、あの空気、あの言葉……!)
何もなかったはずなのに、身体の奥では『何かがあった』感触だけが、じんと残っていた。でもそれは、きっと、翠も同じで。
視線を感じてちらりと目を向けると、翠がほんの少しだけ眉を寄せ、それから、低い声で呟いた。
「……やっぱ昨日、……キス……しなくてよかったかも」
「……ふぇっ?!」
言葉に詰まり、間の抜けた声が漏れる。翠はそんな俺を見て、小さく笑って、照れくさそうに、少し目を逸らしながら続けた。
「だってさ……たぶんキスしちゃったら、僕……止まれなかったと思うから」
「な……っ、ど、どういうこと? えっ、な、なにを、どこまで……?!」
「さあ? 僕もよく分からないなぁ」
とぼけるように言って、翠が茶碗を口元に寄せる。くすっと笑うその目は、いつもよりほんの少しだけ細くて。いたずらっぽさに混ざる艶っぽさが、ずるいと思った。
「そんなこと言うなら、卵焼きもらうから!!」
「あっ、ダメっ、それ僕の!」
翠の御膳から卵焼きを摘んで、口に放り込む。塩気と甘さがじんわりと広がって、さっきまでの気まずさも少しずつ溶けていった。
翠の気持ちも、自分の気持ちも、もう、分かっている。分かってしまったからこそ、戻れない。
あとは、自分が、翠とどうなりたいか。それだけが、まだ、はっきり言葉にできないでいる。何もなかったふりをして、友達のまま笑って過ごすなんて、きっともう無理だ。
この気持ちを抱えたまま、修学旅行の終わりまで、友達の顔をしてやり過ごすなんて、俺には出来ないーー。
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観光二日目の空は、ほんの少しだけ曇っていて。でも、生徒たちの足取りは軽く、宿を出た瞬間から、あちこちに笑い声が広がっていた。
今日は、班別の自由行動。事前に決めていたグループごとに、地図としおりを片手に街を巡る日だ。
僕たちの班は、僕、玲央、田中、真鍋の四人。目指すのは、古い商店街が残るエリア。先頭を歩く田中が、手にした地図をくるくる回しながら、楽しげに声を上げた。
「このあたり、ガイドブックにも載ってたね! かき氷の店、行かない?!」
「それ、俺も行きたかった!! 琉球ガラスの工房も近くにあるし! 写真撮りたいなぁ!」
「お、じゃあ、そこも行こう!!」
僕は、楽しそうにみんなと会話をしている玲央を横目に、少しだけ歩調を遅らせた。玲央は、いつも通りに笑っていて。何事もなかったみたいな顔で、自然に振る舞っていた。
だけど、僕の中では、まだ昨夜の余韻が消えてはいなかった。
赤く染まった頬も、襟元からちらりと覗いた肌も、そっと繋がれた指先も。どれも熱を帯びたまま、胸の奥に焼きついている。
忘れようとしても、ふいに思い出しては、身体のどこかがじんと疼く。そんなふうに僕ばかりが、引きずっているのかと思うと、少しだけ、悔しかった。
(……玲央は、僕とどうなりたいのかな)
玲央と一緒にいる時間が増えるたび、自分の気持ちは、もう引き返せないところまで来ている気がしていた。
もっと一緒にいたい。
友達じゃできないことも、したい。
ーー名前のない関係じゃなくて、『恋人』として並びたい。
「翠、寝不足? さっきからずっと黙ってるけど」
考え込んでいると、玲央が声をかけてきた。反射的に肩がびくっと上がる。
「えっ……あぁ、ごめん。ちょっと、ボーッとしてた」
「そう? 無理するなよ」
それだけの言葉なのに、玲央はそっと歩調を僕に合わせてくれる。その優しさが、嬉しいのに、胸に引っかかった。
優しくて、まっすぐで、時々ずるいくらい無自覚で。それに、僕はいつだって、振り回されてしまう。そんな時、後ろから真鍋の声が飛んできた。
「お前らさ、付き合ってんの?」
唐突なその言葉に、思わず足が止まった。田中も「お、おい」と苦笑交じりに止めようとするけれど、真鍋は悪びれもせずに続けた。
「だって昨日、布団のときとか、妙に空気怪しかったし? ……なんか、シてた?」
「な、何言ってんの!! 付き合ってないし!! 何もしてないし!!」
玲央が、一拍も置かずに否定する。まるで、そんなふうに思われること自体、迷惑だとでも言うみたいに。その瞬間、胸の奥で、何かが静かに冷めていく音がした。
(……うん。そうだよね。僕と、そんなふうに見られたら困るか)
言っていることは正しいのに、言い方ひとつで、なんで、こんなにも心が削られるのだろう。納得できるはずなのに、胸が痛い。
玲央をじとりと見つめる。けれど言いたい言葉は飲み込み、そのまま黙って、足を前に出した。
「……す、翠?」
「ほら、急がないと、自由時間なくなるよ」
自分でもわかるくらい、冷たい声になっていた。嫌な自分だ。でも止められなかった。どうして、こうなってしまうのだろう。さっきまで、あんなに楽しく笑い合っていたのに。
田中が気まずさを払うように、「こっちに有名な豆乳ドーナツの店あるってさ」と話を振ってくれて、僕たちはなんとなく小道を歩き始めた。
そしてそのときだった。
「……あのね……ママが……いないの……」
制服の裾が、きゅうっと引っ張られた。振り向くと、麦わら帽子をかぶった、小さな女の子が泣きそうな顔で立っていた。
「えっ……?」
「ママが……いないの……うわぁあん!!」
「ちょっ、待っ……」
戸惑っていると、玲央がすぐに女の子のそばにしゃがみこんで、にかっと笑った。
「大丈夫! 俺がママを見つけてあげよう!! 名前、教えてくれる?」
「……つむぎ」
「つむぎちゃんか、可愛い名前だね! きっとママもすぐ見つかるよ! 一緒に探そっか!」
「……うん」
その姿を見て、思った。やっぱり、玲央は優しい。そういうところが、好きだ。でも今は、その優しさが、ちょっとだけ苦しかった。
玲央はずっと、つむぎちゃんばかり見ていて、僕の方を見てくれない。隣にいるのに、遠い。
「……ねぇ、さっきのことなんだけど……」
玲央が、唐突に口を開いた。けれど、それを待たずに、僕の口が勝手に動く。
「玲央はさ……『付き合ってない』って、そんなに即答するくらい、僕といるのは……見られたら困ること?」
しまった、と思った時にはもう遅くて。心に澱のように溜まっていたものが、溢れた後だった。
「……え?」
玲央が驚いた声を出すのがわかった。けれど、もう顔を見ていられなかった。胸がぎゅっと締めつけられて、俯いたまま額に手をあてる。
「ごめん。忘れて。僕、先に行くね。あの子のママ、向こうにいるかもしれないから」
これ以上ここにいたら、また何かを零してしまいそうで。僕はその場を離れるように足を速めた。
「……あっ……待って!! 翠!! 俺も……!」
名前を呼ばれても、振り返ることも出来ず、人混みの中へ紛れた。
玲央が呼んでくれた声だけが、背中に残る。でも、振り返ることはできなくて。人混みの中に紛れながら、ぎゅっと唇を噛みしめた。
