被写体は、きみひとり



 気まずい空気が、部屋の隅にじっとりと残っていた。でも、電気を落とせばすぐに、誰かの寝息が聞こえてきて。


 部屋は静かで、真っ暗で。何も動いていないように見えるのに、俺と翠だけが、まだ目を閉じられずにいた。


 並べられた布団の間には、腕一本ぶんの距離があって。けれど今はそれが、やけに遠くて、近すぎて、苦しかった。


 浴衣の袖が、かすかに触れ合う。ただ、それだけなのに、跳ねた心臓の音が、夜の部屋に響き渡りそうで、息を呑んだ。


(……だめだ、こんなの、眠れるわけがない……!)


 息をひそめて、視線を横に向ける。翠もまた、天井を見たまま、じっと目を開けていた。


「……玲央」


 囁くような声が、夜の静けさを破る。声というより、吐息に近くて。けれど、その名を呼ばれただけで、胸の奥がざわついた。


「さっきは、ごめん。……感情的になってた。ちょっと……変だったよね」
「……ううん」


 咄嗟に首を振った。違うって、ちゃんと伝えたかった。


 あのときの翠の声も、目の色も、全部が俺のためだったってこと、ちゃんと分かっている。なのに、それをうまく言葉にできなくて、胸がきゅっとなる。


「嬉しかった。翠が助けてくれて……ほんとに、嬉しかった」


 月明かりが、障子の隙間から差し込み、その淡い光が、翠の横顔をほんのりと照らしていた。


「……あのとき、俺、動けなかった。声も出なかった。やだって、言えなかった。……でも、翠がいてくれて……」


 言葉にしていくうちに、胸が締めつけられる。情けなさと安堵が混じって、喉の奥がじんと熱くなる。


 そのとき、布団の中で、翠の手がゆっくりと動き、そっと、俺の方へ伸びてきた。


「……手、握ってもいい?」


 その一言が、耳のすぐ近くで、やわらかく溶ける。気づけば、肩が触れる距離に翠がいて。心が揺れた。


 俺は黙って、手を差し出した。触れた指先が、躊躇いがちに絡まって、ぎゅっと、確かに握られる。手のひらが熱くて。伝わる体温が、まっすぐ心臓に届いてくる。


(……ずるいよ、こんなの)


 繋がれた手から、心臓の音まで伝わりそうで、怖くなる。でも、触れているこの距離がどこか嬉しかった。


「……浴衣、ちょっと……襟、緩んでる」


 翠の方へ顔を向けた瞬間、目が合った。ドクン、と心臓が跳ねる。翠の視線が胸元に落ちているのに気づいて、はっとなった。


「……え、あっ、や、えと……っ」


 恥ずかしさで顔が一気に、かあっと熱くなる。けれど、視線を逸らしたらもっと恥ずかしくなりそうで、そのまま翠の目を見つめ返した。


「……今の玲央、色っぽかった」


 翠の声が低く落ちた。その言葉だけで、息が止まりそうになる。『色っぽい』なんて言葉が、こんなふうに胸に残るなんて思わなかった。


「……玲央」
「……な、に……?」
「ちょっとだけ……顔、近づけてもいい?」
「か、かおっ……?!」


 驚いたけど、拒めない。翠の声は、やさしくて、真っ直ぐで、ずるいくらい丁寧で。ちゃんと逃げ場をくれるのに、俺は動けなかった。


 翠の両手が、そっと俺の頬に触れる。その手のひらの温度が、ゆっくりと心を撫でているみたいだった。


「……やだ?」
「……や、じゃない」


 答えた瞬間、翠の顔が近づく。息が触れ合い、唇が重なりそうになる。鼻先が、ふわりと掠め、目を閉じようすると、甘い囁きが鼓膜のすぐそばに落ちた。


「……可愛い」


 その言葉が爆ぜるように、心臓の奥に響いて、息が詰まる。何も返せない。恥ずかしくて、瞼を閉じると、視界の代わりに鼓動が大きくなった。


(……このまま、キス……するの?)


 したい。いや、そう、思ってしまった。口付けを急かすかのように足先で、そっと翠の脚に触れたその時だった。

 
 ーーバサッ。


 突然、布団が大きく揺れる音がして、俺たちは同時に、ビクッと身体が跳ねた。隣の布団で、真鍋がもぞりと上半身を起こした。


「……お前ら、起きてんの?」
「寝てる!!! おやすみ!!」


 翠が飛び跳ねるように背を向けた。俺も、慌てて布団に顔を埋める。まだ手が、熱を帯びていて、さっきまで握っていた翠の手の温度が、手のひらに残って離れない。


「……あっそ。俺、トイレ……」


 寝ぼけた声と足音が遠ざかっていく。ドアが閉まり、足音が消えていく間、俺たちは黙り込んだままだった。


 だって、キスの直前だったから。あと、ほんの数センチ近かったら、触れ合っていた。でも、届かなかった。


 真鍋が戻ってきて、布団に潜る気配を感じた頃になって、ようやく少しだけ息を吐く。


 でもーー隣を見ることはできなかった。


 今、翠と目が合ったら、きっと、顔どころか心まで爆発する。言葉も交わせないまま、静かな夜が続いて。眠れないまま、再び目を閉じる。


 そんな状態のまま、朝を迎えた。