いつもと同じ朝のはずなのに、駅前には、少し特別な雰囲気があった。制服姿のまま、大きなスーツケースやリュックを抱えて、にぎやかに生徒たちが集まる。
男子も女子も、いつもよりちょっとだけ浮かれていて。笑い声がそこら中に弾けていた。その輪の少し外で、俺は小さなあくびをしながら、集合場所の駅前ロータリーへ向かった。
「……ふぁあぁ」
でもどこか、気持ちは軽い。テストが終わり、赤点もギリギリ回避した。何より、あの話をしてから、翠との空気がちゃんと『元に戻った』。それが一番大きかった。
遠くから、こっちに向かってくる翠の姿が見える。
髪が朝の風に揺れて、リュックを片方の肩に引っかけたまま、ちょっと眠そうな顔をしている。でも、すれ違い続けた数日間が嘘みたいに、目が合った瞬間、ふっと、翠が笑った。
「……おはよ」
それだけの言葉が、なんだか嬉しかった。
「おはよ。眠そうだね!」
「ん、大丈夫。玲央のほうが眠そうだけどね」
「あはは、バレたかぁ~~」
思わず苦笑いすると、翠の指がひょいっと俺の髪を整えるように掬った。
「……寝ぐせ、ついてる」
「えっ?!」
何気ない動作なのに、恥ずかしくて、頬が染まる。すっかり、もう『そういうの』に敏感になっている自分がいた。
「集合~~! 全員そろったかー! 空港向かうぞー!」
教師の声に、クラスメイトたちがぞろぞろと集合を始める。点呼を終えた俺たちは、貸切のバスに乗り込んで空港へと出発した。
移動中の車内、隣に座った翠の肩と、自分の肩がたまにふわりと触れる。それだけで妙にドキドキした。
空港に着くと、生徒たちのテンションはさらに高まって。チェックインして搭乗ゲートへ向かう間にも、あちこちで笑い声が飛び交っていた。
飛行機に乗り込んで、俺はまた、翠の隣の席に座る。窓の外を見つめていると、見慣れた街並みが、どんどん小さくなっていった。
「……なんか、楽しみだな」
ぽつりと呟いた俺に、翠が読んでいる本から顔を上げ、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべた。
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長時間の移動を経て、ついに着いたのは、海の見える落ち着いた雰囲気のある旅館だった。木造の建物に立派な暖簾、そして玄関で出迎えてくれたスタッフの笑顔に、クラスの女子のはしゃぐ声が響く。
夕食のバイキングと大浴場を満喫したあと、俺たちは部屋へ戻った。窓の外には海の気配が漂い、畳の匂いがどこか懐かしい。
広くて清潔な四人部屋には、すでに布団が敷かれていて。全員浴衣に着替え、あとは寝るだけという空気の中、自然な笑い声が溶けていた。
メンバーは、翠と、部活の同級生の田中、そしてーー真鍋。しおりに書いてあった通りの顔ぶれだ。
俺は布団に腰を下ろしながら、ずれた浴衣の襟元をそっと直す。薄い布の感触が、どうしても落ち着かなくて。ほんの少し、はだけるだけで、自分の身体をやたら意識してしまう。
そこへ、隣から真鍋が迫ってきた。
「……なぁ玲央。お前、旅館の浴衣似合うよな~~」
「え、ああ、ありがと……?」
「いや、マジで細くね? さっき風呂で思ったけど、なんかこう……女の子みたいっていうかさ」
嫌な予感がした。軽く笑って受け流そうとした俺の反応を、真鍋はむしろ『その気』とでも思ったのか、にやつきながら距離を詰めてくる。
「ちょっと触っていい? 腹とか」
「え、ちょ……」
不意に指先が腹のあたりに伸びてきて、背筋がぞわっと鳥肌が立つ。真鍋は笑いながら、俺の帯を掴んだ。
「つーかさ、俺が女かどうか確かめてやろうか~~?」
「は?! な、やめっっ……!」
腰が引き寄せられると、帯がぐっと引っ張られた。浴衣がふわりと乱れて、胸元がはだける。冷たい空気に晒された肌に、じろじろと視線が注がれ、恥ずかしさと恐怖で、喉の奥が焼けるように熱くなった。
「おーーい、見えねぇじゃん。つーか、玲央、顔赤くなってるしぃ」
そのときだった。ニヤニヤとこちらを見る真鍋の顔が引きつり、空気が凍りついた。
「……僕、前も言ったよね」
低くて静かな声が空気を裂く。本を閉じ、布団から立ち上がった翠の目は、いつもよりずっと冷たかった。
「了承を取らないで触るのは、セクハラ。……前に、そう言ったはずだけど?」
「え、いやいやいや、ふざけてるだけじゃん?」
「『ふざけてる』って言えば、玲央に何しても許されると思ってるの?」
「……っいや、別に……。ただのノリだろ?」
真鍋がヘラッと笑いながら、俺から手を離す。けれどその目は、どこか薄らとした悪意を感じた。
「ノリって。玲央が嫌がってるの、見てわからないの? ……真鍋、それ加害者だよ」
「……は? なんでそんな本気で怒ってんの? てか、お前も玲央のカラダ、見たかっただけじゃね?」
その言葉に、翠の表情がピクリと動いた。
「僕は……玲央を守りたいって思ってるだけだよ」
「『守りたい』って。なんだそれ」
「真鍋。次、同じことしたら、教師に言う。委員長としてじゃない。これは個人として、絶対に許さない」
「……めんどくせぇ……。女みてぇな体して誘ってんの、どっちだよ」
真鍋は舌打ちしながら、布団へ潜り込んだ。呟くように吐いた最後の言葉は、小さくても耳を刺した。
なにも言い返せず、守られてばかりの自分が悔しくて、胸が痛くなる。でも何も言葉を口に出来ないまま、俺はぎゅっと乱れた浴衣を握りしめた。
そんな俺の前に、翠がそっと膝をついた。
「……玲央、大丈夫?」
「……うん。何も、されてないし……」
「『何もされてない』は嘘でしょ。帯、緩んでる」
翠は、俺の気持ちをすべて見透かしたように、小さく息を吐くと、そっと両手で浴衣の胸元を整えながら、手際よく結び直した。
その仕草はどこまでも丁寧で、触れる指先は、真鍋と違ってあたたかかった。
触れているのに、怖くない。むしろ、安心する。これは翠だから? そう思った瞬間、顔が熱くなった。顔を上げて翠を見つめる。目が合うと、翠の頬が、ほんのり赤く染まった。
どきん、と胸が跳ねる。互いの手が触れ合って、また火がついたように鼓動が早まった。言葉にならないまま、俺は、ぎゅっと息を呑む。
「……ありがとう、翠」
やっとの思いで絞り出した一言に、翠は、目を細めて、そっと微笑んだ。そして、それ以上は何も言わずにーーただ、俺を見ていた。
緩んだ浴衣の裾に、まだ少し熱が残っていて。翠の指が触れた場所が、まるでそこだけ時間が止まったみたいに、じんわりと火照っていた。
目が合うのは、恥ずかしい。
だけど、逸らせなくて。
俺たちは、何も言わず、ただ静かに、互いを見つめ合っていた。
