ーー数日後
朝の教室は、中間テストを終えたばかりの、どこか緩んだ空気が漂っていて。解放感に包まれ、誰もが少しだけ気を抜いているように見えた。
カーテン越しに透ける日差しは、まだ六月前だというのに、夏の真似事みたいに暑くて、じんわりと汗が滲む。
黒板の前で、担任が採点済みの答案を次々と返し始めた。名前を呼ばれるたびに、悲鳴や笑いが飛び交って、クラスメイトは小さなドラマの主役みたいに一喜一憂する。
「成瀬ーー」
呼ばれて立ち上がり、答案を受け取った。
「っっっしゃあぁあぁあ!!! 赤点セーーフ!!!」
勢いよく両手を突き上げて、思いっきりガッツポーズする。高校に入ってから初めての最高得点!! 感極まって泣きそうなくらい嬉しい!!!
「……あまりいい点とは言えないな。もう少し勉強しろ」
呆れたように、溜め息を吐く担任に背を向け、席へ戻る。前の席に座る翠に向かって、答案用紙を掲げて見せつけた。
「見て見て!!! 見てよ、翠! この、俺の最高得点を!!」
翠はゆっくりと振り返り、俺の点数を確認すると、白く濁った目で見つめてきた。
「……あんなに教えたのに、35点……」
「でっ、でも、数学は40点だったし!」
「……玲央。五十歩百歩、って言葉、知ってる?」
「ひ、ひどっ……!!」
翠が軽く目元を押さえ、溜め息を吐く。背中越しにちらりと答案用紙を覗き込むと、右上に『98点』の赤字が踊っていた。
「すご!!」
「見ないで。100点じゃないから」
「いや、ほぼ100点じゃん! 誇るべきだよ!!」
「そういう問題じゃない」
「でもでも、来週からは、ついに修学旅行~~!!」
カメラをぎゅっと胸に抱きしめる。沖縄の海、光と空。翠と一緒に、同じ景色を切り取れる。それだけで、胸が高鳴った。
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「……しおり、配るぞー」
帰りのHRで、担任がクラスに声をかけた。配られた修学旅行のしおりには、白地に青い海の写真が載っていて、教室のあちこちから、歓声が上がった。
「早く沖縄行きてぇ~~!!」
「シュノーケルできんの?!」
「班決めって、どうなってんだろ~~」
みんなが思い思いにしおりを開いて、日程表や部屋割りを確認する中、俺も急いでページをめくり、部屋割りの欄を探す。
田中暖、篠原翠、成瀬玲央、真鍋瑠偉。
(……よかった。翠と同じだ)
自然と笑みが溢れる。でも、最後の名前に視線が止まった。
ーー真鍋瑠偉。
チャラくて、いつも誰かに馴れ馴れしく絡んでいる。それは女子だけじゃなくて男子にも同じで。どこか人のパーソナルスペースに平気で入り込む、そんなタイプだった。
「玲央~~、同じグループだなぁ~~、よろしく~~」
明るく軽い声が、背後から伸びた。次の瞬間、真鍋の腕が肩に回され、重みがずしりとのしかかった。重っ。でも、それよりも距離が近すぎる……!
「……そうだね、真鍋。よろしく」
なんとか、いつも通りの声を出す。だけど、背中に沿って感じる真鍋の体温が、シャツ越しにじわじわと染み込んできて、背筋がじんわりと粟立った。
「マジ? お前、真鍋と一緒なの? 女子と回れるんじゃね?」
「玲央ってマジ、肌きれいだよな。てか、俺の妹より細くね?」
数人の男子が集まり、自然と俺の周りを囲む。笑いながら、誰かが俺の腕を掴んで、持ち上げた。
「うわ、細っ。骨こんな感じ? やば……女子だろ、これ」
腕を撫でる指が、無遠慮に袖口からするりと滑り込む。シャツの布がめくれ、指先が直接、肌を撫でた。
「玲央~、ちょっと胸元のとこ、開きすぎじゃね? これ、透けて見えてるし~~」
笑い声に混じって、シャツの襟に手が伸びてくる。思わず肩を引くと、それさえも笑いのネタになった。
ーー怖いわけじゃない。
『笑って流せばいい』。頭では分かっている。なのに、身体は強ばり、言葉が喉元で引っかかって、出てこない。
その時だった。
パタン、と、机の上で教科書が閉じられる音が、教室の空気を切り裂いた。
「……ふざけてるなら、やめたら?」
低くて、静かな声が響く。けれど、そこに込められていたのは明らかな怒気だった。
(あれ……翠、怒ってる……?)
一瞬、戸惑う。声を荒げたわけじゃないのに、教室の空気がひやりと冷えていくのを、肌で感じる。
「いやいや、そんな本気で怒んなくても……俺ら、ちょっと……」
「玲央が、嫌がってるの見えないわけ?」
翠は、俺に一度も視線を向けなかった。ただ鞄に教科書を仕舞いながら、静かに言葉を放った。
「触るんなら、ちゃんと本人に了承取ってからにして。そうじゃなきゃ、セクハラと同じだよ」
その言葉は、誰よりも冷たくて、よく研がれた刃みたいだった。
「はいはい、委員長サンは真面目だねぇ。……じゃ、玲央。またな~~」
真鍋はヘラヘラと笑いながら、何事もなかったかのように俺から離れていった。その背を見送りながら、俺は、小さな声で呟いた。
「……ありがとう」
たったそれだけの言葉なのに、喉がひどく乾いていて。ようやく声にできた瞬間、胸の奥がふわりとほどけた。でも、翠は顔を上げず、そっぽを向いたままだった。
「……別に」
そっけない返事だけど、不思議と鼓動が早まる。思わず、翠の横顔を盗み見ると、頬が、ほんの少しだけ、赤く染まっていた気がした。
(あ……)
見間違いかもしれない。でも、そうだったらいいのにと思ってしまうくらいには、俺は今、翠のことだけを考えていた。
