被写体は、きみひとり

 


 放課後のチャイムが鳴っても、昇降口には向かわず、僕たちは校舎の奥にある非常階段へと足を運んだ。夕日が斜めに差し込むその場所は、人通りもなく、静かに影と光が揺れていた。


 ふたりで並んで座るには少し狭くて、自然と肩が触れそうになる。それなのに、さっきまでの気まずさはどこかに消えていて、玲央が、ぽつりと口を開いた。


「……さっきの話、ちゃんと聞けてよかった。あのままだと、ほんとにダメになっていたと思うから」


 膝を抱えたまま、小さく頷く。


「……僕も。言えてよかった。……怖かったけど」


 それきり、言葉は続かなかった。けれど、沈黙が苦になることはなくて。呼吸がようやく落ち着いたみたいに、静けさが心へ沁みていった。


 ふと、玲央に視線を向ける。夕陽に照らされたその横顔は、どこか遠くを見ているようで。それでも、すぐ隣にいてくれることが、たまらなく愛おしく思えた。


 気づけば、言葉が零れていた。


「……ねえ、玲央」
「ん?」
「……少しだけ……触ってもいい?」


 玲央がぱちりと瞬く。一瞬の戸惑いのあとに、ふっと頬を緩め、小さく笑った。


「……うん。いいよ」


 そっと、指先を伸ばして、玲央の頬に触れる。思っていたよりもあたたかくて、柔らかくて、その瞬間、心臓が跳ねた。指先で頬を撫でると、玲央の肩がわずかに揺れた。


 ーー今、ビクッて、なった。


 たったそれだけの反応なのに、どうしようもなく心を掴まれる。まさか、こんなふうに感じてくれるなんて。触れた僕の方が、余裕をなくしていた。


 玲央が、視線を逸らしながら唇に指を当てた。頬はほんのり赤くて、睫毛が微かに震えていて。そのどれもがとても綺麗で、目が離せなかった。


「……翠?」
「……あ、いや。あったかいな、って思って」


 声が少し掠れて、震えていたのが自分でもわかる。それでも、玲央は僕の手を振り払わなかった。むしろ、その瞳は、まるで『もっと』を求めているようだった。


(……その目は、ずるい)


 胸がきゅっと締めつけられる。またあの『びくっ』が見たくなって、自然と指先が動いていた。頬から首筋へ、そっと指を滑らせると、玲央が目をきゅっと閉じて、小さな声を溢した。


「………っ、翠っ……」


 その声に、たまらず見惚れた。真っ赤に頬を染め、ぎゅっと僕のシャツを玲央が掴む。もう一度、今度はもっとゆっくり撫でてみると、玲央の肩がまた小さく跳ねた。


(……玲央が、ずるいくらい可愛い……)


 だけど、可愛い、だけじゃもう足りなくて。もっと、触れたい。もっと、知りたい。そんな欲望が、胸の奥から溢れ出す。すると、玲央が小さく呟いた。


「……翠、ちょっと……触りすぎじゃない?」


 その声に、拒絶の色はない。むしろ、照れたように頬を染めて、視線を僕から逸らした。


「いやじゃないけど……こういうの、慣れてないから……」


 その一言で、ますます触れたい気持ちが膨れ上がる。今、鎖骨のところまで指を伸ばしたら、玲央はどんな顔をするだろう。


 そう思った瞬間、自分でも驚くくらい心臓が跳ねた。


(……ダメだ、それは、やりすぎだ……)


 いやらしいと思われたらどうしよう。
 玲央を困らせたくない。
 でもーー指先は、まだ名残惜しくて。


 もっと見たい。見たことのない玲央の表情を、僕だけのものにしたい。そう思ってしまう自分が、少しだけ怖かった。


 その時、シャツをぐいっと強く引っ張られた。


「す、翠ってば!!!」
「あ……ごめん。玲央が可愛すぎて、ちょっと意地悪した」
「な、なにそれ!!」


 怒ったように顔を赤くするその姿すら、また可愛い。首筋から手を離し、今度は頬を指の背でそっと撫でる。


 玲央がふわっと目を細めて、少し安心したように笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥が、熱くなった。


「……玲央」
「なに?」


 『違うところも触ってみたい』


 言いかけた言葉が喉の奥で絡まる。こんなふうにふたりきりで、そっと触れて。その全部が嬉しくて、あたたかくて。


 でも、それ以上を望んでしまったら、この空気も、玲央の安心した笑顔も、全部、自分の欲で汚してしまうような気がした。


 『もっと、玲央に触れたい』


 なんて、言ってしまったら自分がどこまで欲を抑えられるのか、分からなかった。震える心を押し隠すように、唇の端を無理やり持ち上げる。


「……なんでもないよ」
「なんだよそれ~~」


 玲央が眉尻を下げて、笑う。その表情を見て、誰にも渡したくないと思った。けれど、僕たちの関係には、まだ名前がない。


 恋人とも、友達とも、たぶん違う。でも、もう、互いに触れて、想いを知ってしまったから、『ただのクラスメイト』には戻れない。


 どこか曖昧だった距離が、少しずつ、確かになっていく。それを、僕ははっきりと感じていた。


 非常階段に吹き抜ける風の音と、揺れる光と影の中で、僕たちの視線だけが、静かに、交差していたーー。