柵にもたれて空を見上げながら、俺はまた、溜め息を吐いた。今日こそは話せると思っていたのにーー翠は来なかった。
ずっと何も言わずに待っていた。触れたことも、避けられたことも、全部。それでも、まだ話せるって、信じてた。
……でも、もう限界だった。
(……俺、なんかした?)
本当は、それだけ聞けたらよかった。だけど、そんな簡単な言葉が、どうしても言えなくて。ただ、胸の奥がじわじわと痛くなるだけだった。
屋上を出て、階段を降りていく。そして偶然、教室の前で、翠と、すれ違った。
ほんの一瞬、目が合いそうになって、でも翠はすぐに目を逸らした。まるで、俺がそこにいなかったみたいに。
「……待ってたんだけど」
思わず口から零れた言葉は想像していたより、ずっと低くて冷えた声で。抑えていたはずの苛立ちが滲み出る。翠の足が、ぴたりと止まった。
「……なんで避けるの?」
真正面からぶつけた声は、自分でもびっくりするくらい鋭かった。でも、もう我慢できなかったし、止められなかった。
寂しいとか、悲しいとか、そんな感情はとうに越えていて。ただ、苦しかった。
「俺……なんかした?」
翠の睫毛が、微かに震える。でも、何も言わないまま、翠は黙っていた。
「もう無理なの? 俺と一緒にいるの、イヤ?」
問いかけた声が、思った以上に響く。廊下のざわめきの中で、俺の声だけがやけに浮いていて。それでも、返事が返ってくる気配はなかった。
沈黙が、こんなにも残酷だとは知らなかった。
「……ならさ」
これ以上は耐えられなかった。
「もう、やめた方がいいんじゃないの」
自分で言っておきながら、喉の奥がきゅっと痛んだ。これは俺なりの最後の防衛線。でも、言った瞬間、心の中で何かがぼろっと崩れ落ちるように、後悔した。
*
『もう、やめた方がいいんじゃないの』
玲央が口にしたその言葉が、鋭く胸を裂いた。頭が真っ白になって、なのに、心のどこかで、何かが『ぶちっ』と切れた音がした。
「……やめたいわけないだろ!!」
気づいたときには、叫んでいた。自分の声の大きさに驚く。廊下が静まり返っても、止まらなかった。いや、止められなかった。
「僕だって……行きたかったよ、屋上。……でも行ったら、玲央とちゃんと話したら……また僕は……変になりそうで……!」
心臓がどくどくと煩く鳴る。言葉が堰を切ったように溢れていく。
「『触れられる』だけで、息すらできなくなるんだ! ……僕はあの手のことが、ずっと忘れられなくて……!」
玲央の瞳が、微かに見開かれ、僕を見つめる。それでも、僕は止まらなかった。
「玲央は、普通に笑って、何もなかったみたいにしてるけど、……こっちは毎日、頭の中めちゃくちゃで……! 怖くて、苦しくて、それで……」
喉が詰まる。でも、言わなきゃいけないと思った。このままだと、本当に何もかもが壊れてしまう気がした。
「……でも、本当は、僕……」
唇が震え、視線が揺れる。
「……玲央のこと、ずっと気になってて……変になってるのは、僕の方で……好きとか、そういうのまだちゃんとは分かんないけど……でも、逃げたくなんか、なかった……!」
言い切った瞬間、足元がふわりと揺れる感覚がした。胸の奥に張り詰めていたものが、音もなくほどけていく。
心がようやく、自分の言葉に追いついた。その途端、目元がじわりと熱くなる。顔を上げると、玲央が、そっと目を細めていた。
その視線に、静かで真っ直ぐな熱が宿っているのを感じた。
*
気づけば、手が勝手に動いていて。翠の手首を、ぎゅっと掴んでいた。もう、逃したくなかった。
「……翠って、頭良いのに……バカだな」
喉の奥から、ふっと笑いが漏れそうになる。張り詰めていた何かが緩んだ。
「俺が『普通にしてた』? そんなわけないだろ……」
手の甲に視線を落とす。あのとき拒まれた場所を、今はそっと握っている。
「ずっと気になっていたのは、俺も同じだよ」
翠の頬が、ゆっくりと赤く染まっていく。その顔に、思わず笑みが溢れた。
「俺もさ、好きとかまだちゃんとは言えないけど……でも、避けられるのは、イヤだった」
翠が、ゆっくりと視線を上げる。その瞳が、真正面から俺を捉えた。さっきまでの言葉が、まだ胸の奥に熱く残る。
でも今、確かに、届いたって、わかった。
ぶつかって、叫んで、ようやく見つけた場所。俺たちは今、やっと同じところに立てたんだ。
暫くの間、俺たちは何も言わなかった。けれど、もう言葉じゃなくても分かるものが、そこにはあった。そんな静けさの中で、不意に、放課後のチャイムが鳴った。
その音が、まるで世界の時間だけを先に進めてしまったみたいで、胸を少しだけ締めつけた。
ーーああ、戻らなきゃいけないんだ、日常に。
でも、不思議と嫌じゃなかった。これで、また、ちゃんと『話せる』気がしたから。
「……今日の放課後、少しだけ時間ある?」
静かに尋ねると、翠はほんの少し間を置いてから、こくりと頷いた。ふたりで並んで教室へ戻ると、すぐに『テスト開始』の合図が響いた。
カバンの中から筆記用具を取り出す。さっきまでの会話がまだ胸に残っているのに、目の前には白い問題用紙が広がる。
いつもと同じ風景。
だけど今は、少しだけ、違って見えた。
