被写体は、きみひとり



 カメラを首に下げて、ゆっくりと坂道をのぼる。制服の胸元で揺れるストラップが、歩くたびに小さく音を立てていた。


 通学路の脇には、まだ咲き残った桜が風に揺れていて。その花びらが一枚、ふわりと舞い落ちた瞬間、俺は立ち止まり、カメラを構えた。


 シャッターを切る音が、朝の静けさに吸い込まれていく。誰も気に留めないような景色でも、レンズ越しに見ると、少しだけ特別に見える。


 それが癖になって、気づけば毎朝、こうしてカメラを持って登校するようになっていた。


 前を歩く生徒たちの背中、校門の向こうに広がる空、そして、今日という日がまだ何も始まっていないという、ほんのわずかな余白。


 それらすべてを、そっとポケットにしまうように、俺はもう一度シャッターを切った。ふと、篠原の言葉が頭に浮かぶ。


『……まあ、気が向いたらね』


 気が向いたら、だぁあぁああ?! 自然だって、人間だって、同じ表情なんて二度と撮れないのに!! 時間は待ってくれない。光も、風も、表情も、全部、瞬間で過ぎていく。


 なのに『気が向いたら』って!!


「気が向いてからじゃ遅いっつーの!!!」


 胸の奥から、叫ぶように声が漏れた。周りに誰かいたかなんて、もうどうでもよくて。ただ、感情が溢れて止まらなかった。


 カメラを握る手に力が入る。ぐらぐら揺れる思いが、カメラのレンズに集中していく。


 ……写真を撮る以前に、篠原とちゃんと向き合わなきゃダメだ!! いや、まずは『友達になる』ところから始めよう!!


 でも、どうやって?? 何を話せばいい? てか俺、篠原のこと、全然知らなくない?!?!


「ぁああぁああ!!! 笑わないイケメンってデータしか持ってない!!!」


 焦りと勢いで歩きながら、頭の中をぐるぐると不安が駆け巡る。そんなとき、ふと、脳内にひとつの電球がぱんっと灯った。


「……あ!! 写真を撮ればいいのでは?!?!」


 思わず声が出た。だって、カメラって『相手を知ろうとするツール』じゃん?!


 表情、癖、動き、光の角度、シャッターのタイミング=全部、ちゃんと見なきゃ切り取れない=撮れば撮るほど、篠原のことが分かる!!! つまりそういうことでは?!?!


「やば、このひらめきは天才だな……!!」


 思いついたら、もう止まらなかった。考えている暇なんてなくて。気づけば、俺は篠原が朝練をしているグラウンドへ向かって、全力で走っていた。


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「いっぱい写真撮れたぁ~~!」


 夕焼けが空をオレンジ色に染め始める頃、誰もいなくなったグラウンドの隅に腰を下ろし、モニターを覗き込む。カメラの中には、今日一日で撮った、篠原の姿が詰まっていた。(※無許可)


 朝練でボールを蹴るときの真剣な横顔。昼休みに屋上で寝転がるときの、無防備なまつげの影。そして、トイレに向かう前、ふと曇るように揺れた表情。


 本人は無表情な時間が多いのに、不思議と、どれも感情が写っている気がして。まるで誰も知らない篠原を、俺だけが見つけてしまったみたいで、それが、ちょっとだけ嬉しかった。


 ファインダー越しに追いかけていた時間が、どんな言葉よりも、篠原との距離を縮めているようにも思えた。


「……いい顔してるなぁ。朝練の横顔とか、屋上で寝てるとことか……あとトイレ行く前の顔しかめるのとか……」
「ストーカーか」
「いったぁあぁあ!!!!」


 ごちん、と頭に軽く衝撃が走る。両手で頭を押さえて顔を上げると、いつの間にか篠原が目の前に立っていた。


「な、なにすんの!!」
「自覚ないのが一番怖いよ」
「違うってば!! これは篠原と仲良くなるための記録! 観察記録! つまり交流の一環で!!」


 必死で言い訳する俺を見て、篠原は小さく溜め息を吐いた。だけど、怒ってる様子はなくて。そのまま俺の隣に、すとんと腰を下ろした。


 そして、篠原が自然な動作で俺のカメラのモニターを覗き込む。画面よりも近い、すぐ隣の横顔に、鼓動が早くなる。


「……成瀬には、僕のこと、こう見えてるの?」
「そうだよ?」
「……僕は成瀬のこと、こんな風には見えてないけどね」
「え?」


 その言葉に、画面へ視線を戻す。ファインダー越しの篠原は、どの写真も、どこか『特別』で。余計にその言葉の意味が分からなかった。


 考え込んでいると、篠原が立ち上がり、制服についた砂を払う。その動きが妙にさらりとしていて、胸の奥が揺れた。


「……そんなに、僕にモデルやって欲しい?」
「やってほしい!!」
「……付き合うのは、昼休みだけ。それでもいい?」
「えっ?! いいの?! やったぁあ!!!」


 思わずカメラを構え、篠原に向かってシャッターを切る。ファインダー越しの篠原は、ほんの少しだけ、笑っているように見えた。


「さて、僕のお昼はなんでしょう?」
「たまごサンドと焼きそばパン!」


 すかさず、もう一枚シャッターを切る。指先に伝わる軽い反動と一緒に、胸の奥がふわっと熱を帯びた。


「購買で買ったのになんで知ってるの?」
「屋上からズームで見てたからね!」
「……もうそれ、本物のストーカーだよ?」
「いやいやいや!! これは朝顔の観察と同じ! 成長記録!」
「全然違うから」


 カメラのストラップを外し、モニターを操作する。液晶には、俺が何度もシャッターを切って、選び抜いた『今日の篠原』が並んでいた。


「……見る? 俺の、朝顔(写真)


 冗談めかしながら、カメラを差し出し、笑う。篠原が手を伸ばしたそのとき、指先が、ふいに触れた。ほんのわずかな接触。それだけなのに、心臓が跳ねた。


 ーーまるで、朝の光に触れたかのように。