スマホの画面が、淡い光を放っていて。ロックを解除すると、一番上に、未読のLIMEが一件だけ浮かんでいた。
【屋上で待ってる】
送り主は、玲央だった。時間は、朝の六時台。目覚ましよりもずっと早く届いたそのメッセージは、まるで夢の残り香みたいに、胸の奥で静かに滲んでいた。
ただ、それを目にした瞬間、息が詰まった。心臓の鼓動が、何度もリズムを乱す。
ーー屋上。
ふたりで何度も時間を過ごした、あの場所。玲央は今、それをもう一度、僕に差し出そうとしている。そのやさしさが苦しくて、嬉しくて。
けれど、『行くよ』とも『行かない』とも、僕は返せなかった。
ただスマホを伏せて、そっと目を閉じる。そして、ゆっくりと瞼を開けた。寝返りを打つように体を起こし、ベッドの上に座る。
カーテンの隙間から、朝の光が静かに差し込む。まだ少し冷たい床に足を下ろし、窓の外を見ると、淡い青に滲んだ空が、まるで何事もなかったかのように広がっていた。
(今日からテスト……か)
いつもと同じ朝のはずなのに、胸の奥は落ち着かないままで。時間だけが淡々と過ぎていく。制服の袖を通す手にも、自然と力が入る。
顔を洗って、歯を磨いて、靴を履く。
普段なら何気ないそのすべての動作が、今日はどこかぎこちなく感じた。登校中、友達に声をかけられても、うまく言葉が出なくて。道端の紫陽花さえ、ぼんやりとしか見えなかった。
教室にたどり着いた頃には、朝のLIMEのことを何度も頭の中で繰り返していた。ただ読んだだけで、返事はしていない。
けれど、それを見た瞬間から、意識はずっとそこに縛られたままだった。
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廊下の足音に、鉛筆が走る音。伏せたままの試験用紙が、静けさの中でやけに重く感じた。
中間テスト初日、一限目は国語。問題文を目で追いながらも、内容はまったく頭に入ってこなかった。脳内では、あの五文字だけがぐるぐると回り続ける。
(……『屋上で待ってる』って、どういう意味……?)
ただ、それだけ。たった一文。飾り気のない言葉なのに、そこに込められた気持ちを想像すると、胸の奥がじわっと熱くなる。
(行けるわけ、ないのに……)
必死に意識を切り替えて、答案を埋める。でも、字はどこか震えていて、ペンを握る指先に力が入った。
二限、三限、そして四限目と時間が進むたび、何度も背後から視線を感じた。それが玲央のものだと、すぐにわかった。
けれど、僕はただの一度も振り返らなかった。
(見てしまったら、行ってしまう。……そんなの、ずるいよ)
四限終了のチャイムが鳴った瞬間、教室は昼休みのざわめきに包まれた。誰かの笑い声や、弁当箱のふたを開ける音。その中で、僕は黙って立ち上がった。
屋上までの道のりは、何度も歩いたはずなのに、今はひどく遠く感じた。一段ずつ階段を上がるたび、心臓の音が大きくなる。
(行っちゃダメだ。……でも、少しだけなら)
最後の踊り場を曲がり、屋上の扉の前に立つ。手をかければ、すぐ開けられる、はずなのに、足が動かない。
扉の向こうには、きっと、玲央がいる。
朝のLIMEに返事をしなかった僕を、それでも待っている。
ーーそれがわかっているのに。
前に進めなかった。
まだ、ちゃんと話せる自信がない。また、あのときみたいに逃げてしまいそうで。シャツの胸元をぎゅっと握り、息を吸う。
扉の前でしばらく立ち尽くして、それから、来た道を音を立てないように、そっと引き返す。
背中に感じた風は、扉の隙間からこぼれた、屋上の空気だった。
ーー玲央、ごめん。
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*
一方、玲央はーー。
【屋上で待ってる】
メッセージを送ったのは、朝の通学路だった。でも、返事は来なかった。既読がついたのを見て、それだけで少し救われた気がした。
ーーだから、来てくれるって、どこかで思った。
四限が終わるチャイムが鳴ったと同時に、カメラを手に取って誰よりも早く教室を出た。屋上へ続く階段を上がるたび、期待と不安がぐるぐると混ざり合う。
手すりのある、いつもふたりで腰掛けていた、お気に入りの場所。そこに座り、カメラを膝に乗せたまま、空を見上げる。
風が強くて、雲が薄く流れていく。空は、いつもならシャッターを切りたくなるほどきれいなはずなのに、今はどこか滲んで見えて、カメラを構える気にもなれなかった。
きっと、今の俺には、何を撮っても、ちゃんとは映らない。
時計の針が、昼休みの半分を過ぎた。けれど、階段を上がってくる足音は聞こえなかった。
ーー来ない。
そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
(やっぱり、ダメか……)
返事がなかった時点で、きっとこうなるって、わかっていたはずなのに。それでも、『もしかしたら』って、期待してしまったのは、俺の方だ。
ーーでも、屋上の扉が開かれることは、最後までなかった。
