もう、これ以上はなにも言えなかった。
シャワーの栓を乱暴にひねって、水音を止める。熱も、汗も、泡も、心についたモヤもーーそのどれひとつとして、洗い流すことなんてできなかった。
僕は背を向けたまま、更衣室へ向かって足を速めた。
「……翠! ちょ、待ってって!」
背後から追いかけてくる声に、思わず足が止まりかける。けれど、止まれなかった。このまま顔を見てしまったら、また、心が揺れるのがわかっていたから。
「なんで? ……俺、なんかした?」
ロッカーの前で、タオルをぎゅっと握りしめたまま、玲央が僕を見つめて立っていた。その顔は湯気のせいじゃなくて、本気で曇っていた。
「いや……ちが、違うから。ごめん、僕、ただ……」
「『ただ』じゃない!」
言葉を遮るように、放れた少しだけ強い声は、怒りではなく、どうしようもない『悲しさ』のようなものが滲んでいた。
「さっきの……シャンプー、渡そうとしただけだよ? それすら、ダメ?」
「……そんなんじゃない……っ」
「じゃあ何? 俺に触られるの、そんなにイヤ?」
胸がきゅっと締めつけられ、息が詰まる。言い返したいのに、心が拒んで口が動かなかった。言葉を探そうとする理性と、それを封じ込めようとする本能が、胸の奥でぶつかり合う。
「……ごめん」
「それ、さっきも聞いた。……でも、ごめんって、何に対して?」
玲央の声が、ほんの少しだけ、いつもより冷たく感じる。
「俺、もしかして……なんか気持ち悪いこと、した?」
「……ちが、違う……っ! 玲央は、何も悪くない! 全部……僕の、せいで……」
声にした瞬間、胸の奥が軋む音がして。そこから先は、もう言えなかった。もし言葉にしてしまったら、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
気持ち悪いのは、玲央じゃない。
こんな感情を抱いた、僕の方だ。
そう思うと、自分自身に耐えられなくなって、視線が自然と下を向いた。
「……じゃあ、逃げんなよ!」
「……っ!」
「俺が悪くないって思ってるなら、ちゃんと、顔見て話してよ!」
その言葉が、鋭く胸に突き刺さる。できるわけがなかった。だって、今、玲央の顔を見たら、僕はまた、きっと君に欲情してしまうから。
「……無理だよ。僕は……もう、屋上に行けない」
口から零れたのは、思っていたより、ずっと小さな声で。自分でも驚くほど、弱く、掠れていた。
あのあと、どんなふうに会話が終わったのか、よく覚えていない。玲央は困ったように眉を寄せていたし、僕もきっと、まともな顔なんてしていなかったと思う。
それから数日間、僕たちは、まるで誰かに目に見えない線を引かれたかのように、同じ距離を保ったままだった。
目が合いそうになれば逸らして。話すのは、必要最低限だけ。
そして、いつもふたりでいたはずの屋上にも、僕はもう足を向けなかった。
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昼休みのチャイムが鳴った瞬間、俺は何も言わずに教室を出た。自然な顔を装って、いつも通り屋上へ向かう。階段を上る足音がやけに大きく響いて、妙に耳についた。
扉を開けると、光と風が出迎えてくれて。陽射しは眩しく、風は少しだけ冷たかった。
ーーけれど、そこに、翠の姿はなかった。
「……また、か」
別に、毎日絶対来るって決まっていたわけじゃない。用事がある日だって、たまたま来れない日だって、あるだろう。
でも、ここ数日ずっと。俺が先に来て待っていても、翠は姿を見せなかった。
カメラバッグをベンチに置いて、遠くの空へ視線を送る。風の音が耳の奥で揺れた。
「……ごめんって、言ったくせに」
口には出せなかったけど、あのときの翠の目が忘れられなかった。あれは、ただの驚きとか戸惑いじゃない。怯えるような、逃げるような、そんな、俺を拒む目だった。
俺……なにか、してしまったのかな。
悪気はなかった。ただ、今までと同じように接していたつもりだった。でもーーいや、たぶん、違う。
最近の俺は、前と『同じ』じゃなかった。不意にみとれてしまったり、近づかれただけでドキッとしたり。触れた感触を思い出して、ひとりで浮かれたりしていた。
全部、自分だけの気持ちで。翠には、何も伝えていなかった。
(……でも、それだけで、離れるか?)
カメラを取り出して、なんとなく空を切り取る。シャッター音が乾いた音を立てて響く。けれど、すぐにレンズを下ろした。
(……撮る意味、ないし)
空も、風も、光も、全部、翠と一緒に感じていたから意味があった。翠がいない屋上なんて、ただ広くて、寒いだけの場所でしかなくて。
俺にとって、いつの間にかこの場所が、『ふたりの場所』になっていた。
そのことに今さら気づいて、胸が少しだけ痛くなる。
「俺が……勝手に、期待しただけ?」
ベンチにもたれて、カメラを胸に抱きながら空を見上げる。その色は、いつもなら『蒼』とか『群青』で表したくなるほど美しかったはずなのに。
今はただ、少しだけ、寂しげな色に見えた。
風が吹き抜けるたび、胸の奥に残った虚しさだけが、やけに鮮明に浮かび上がったーー。
