被写体は、きみひとり



 バスケの授業が始まっても、正直ほとんど何も覚えていなかった。けれど、走るたびに心臓が早鐘を打ち、身体の内側が熱を帯びていくのだけは、ずっと感じていた。


 体育館の湿度もあって、汗が肌にまとわりつく。体操服の下の肌着がぴったりと身体に貼りつき、呼吸まで浅くなる。


 でもそれは、僕だけじゃなかった。


 目の前のボールを追って、駆けていく玲央の背中が目に入る。ビブスを脱いだ体操服が汗を吸って、玲央の体に張りついていた。


 細い肩のライン、華奢なウエスト、そして驚くほどくっきりした肩甲骨の稜線。汗で滲んだその輪郭が、シャツ越しにも透けて見える。


(……っ、なに、これ……肌着とか着てないの? それ、反則……)


 喉が乾いて、うまく息が吸えない。玲央から視線が、外せない。


(僕……昨日、ここに触れた……。背中も、腕も、膝も……)


 手のひらに残る感触が、リアルすぎて逃げ場がなかった。今、あの身体が、汗で濡れて目の前にあって、視線の中に溶け込んでいる。


 首筋に張りついた髪さえ、艶っぽくて、無防備で。ただ見ているだけなのに、胸の奥がぎゅうっと苦しくなる。


(……あれが、『男の身体』? そんなの、嘘みたい……)


 玲央の肌は女の子みたいに滑らかで、細いのにどこかしなやかだった。それでも間違いなく『男』の輪郭を持っていて。だからこそ、頭がうまく処理できない。


(……また、触れたら……どうなるんだろう……)


 そんなことを思ってしまった時点で、もう、僕は『友達の身体』を、そうじゃない目で見てしまっていることに、気づいてしまっていた。


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 シャワールームに入った瞬間、胸がぎゅっと強張った。いつもなら何も思わず通る場所。それなのに、今日はただの蒸気さえ熱くて、苦しくて、まともに呼吸ができなかった。


(……絶対、意識する……っ)


 男子たちはワイワイと服を脱ぎ、湯を浴び始めている。けれど、僕はその中に紛れながら、ひとりだけ、動けずにいた。


 ーーすぐ、隣に玲央がいたから。


「うわ! つっめた……! でも気持ちイイ~~~!」


 無邪気なクラスメイトの声が、ばしゃばしゃと響く水音に混ざり、白い湯気がふわりと立ち上る。その音の向こうで、玲央が体操服を脱ぎ始めた。


(っ………)


 目に入ってしまった玲央の背中。腕を持ち上げて体操服を脱ぐたび、脇腹が伸びて、肋骨のラインが浮き上がる。肩から腰にかけて流れる水が、玲央の肌をなぞって落ちていく。


 そのひとつひとつが、いやに色っぽく見えてしまう。


(……なにこれ……なんで、こんな、綺麗なの……)


 肩の骨、くびれた腰、首筋に貼りついた濡れた髪。水が滴り落ちるその肌は、透けるほど白くて。だけど、確かに男の身体で。


 筋の浮いた首、肩の厚み、うっすら見える鎖骨の線。全部、目を逸らしたいのに、どうしても焼きついてしまう。


(……これが、『玲央の身体』なんだ……)


 今日、何度も触れた背中も、肩も、今、肌がはっきり見えていて。あの感触が、頭の中でイメージとして重なっていく。


「翠~~、ちゃんと浴びないと! なんか、ぼーっとしてる?」
「い、いや……大丈夫……っ」


 声が震えるのを、必死で隠す。目を合わせたら、確実にアウトだとわかっていた。


(……だって今、僕、『この身体に欲情しかけてる』)


 友達の顔なんて、していられるわけがなかった。


「……あ、これ、使う? 俺のやつだけど!」


 玲央が、無造作にシャンプーのボトルを差し出してきた。湯気の向こうの玲央は、いつものように笑っていて。けど、僕は、その指先が、近づいてきた瞬間、思わず、手を弾いてしまった。


「っ……!」


 玲央の指が、僕の手の甲に、ほんのわずか触れただけ。けれど、その一瞬が、火傷みたいに熱くて。触れた場所が、じんわりと痺れていた。


「……え、ご、ごめん、翠……?」


 瞳を揺らし、訳もわからないまま、反射で謝ってくる玲央に、うまく顔も向けられず、僕はすぐに言い訳をしようとして、でも言葉が詰まって、出てこなかった。


「あっ、いや……僕、ちょっと……」


 精一杯の逃げ口上。目が泳いで、視線すら持ち上げられない。


(……最悪だ……)


 ただのシャンプー。それを受け取ろうとしただけなのに、僕の身体はもう、それすら『普通』にできないくらい、玲央を意識していた。


(……ほんとに、最低だ……)


 玲央は悪くない。いつも通り、優しくて、気づかってくれていて。それなのに、おかしくなっているのは、僕だけで。


(……どうして、こんなふうに……)


 わからない。理由も、正体も。ただひとつ確かなのは、触れられた場所が、まだずっと熱を持っているということだけだった。


 手の甲に残った、そのぬくもりは、まるでそこだけ火が灯っているみたいに、じんじんと疼き続ける。


 どれだけ水をかけても、シャワーの音に紛らせても、その熱は、消えてはくれなかったーー。