被写体は、きみひとり



 翠が「じゃあ、またね」と言って玄関のドアを閉めてから、もう数時間が経っていた。


 部屋に戻って、寝支度をして、布団に潜って。それでも、全然眠れなくて。天井を見上げて、目を閉じてみても、脳裏に浮かんでくるのは、たった数時間前の、あの瞬間ばかりだった。


(……ぁああぁあ……やばかったぁ………!)


 翠の手が肩に触れて、体勢を崩して、床に倒れ込んで。至近距離にあった翠の体と、触れそうな鼻先。そして、翠の呼吸が、唇にかかった。


 あの一瞬を思い出すたび、心臓がドクドクと煩く鳴る。


(……なんか……ちょっとだけ、触れた気もする……)


 翠が上に乗っていたあの感覚。重みと、体温と、柔らかさ。でも、それはちゃんと『男の体』で。その矛盾に、自分でもよく分からないモヤモヤが残る。


 シャツの裾が指先に触れた感触がまだ残っている気がして、思わず手をぎゅっと握りしめた。


「……だっ、だめだ……寝れない……っ!!」


 思わず、声が漏れる。布団の中でひとり、頭の中はぐちゃぐちゃだった。


 翠の、赤くなってた耳。焦ったような声。汗ばんだ肌に触れた体温。思い出すだけで、心臓が跳ねて、落ち着かなくなる。寝返りすら打てないほど、胸がざわつく。


(う~~っ、ドキドキする……なんで……いや、分かってる。分かってるけど……)


 枕に顔を埋めて、シーツをぐしゃっと握りしめる。あんな顔の翠、見たことがなかった。あんな声も、仕草も。いつも冷静で頭の良い翠が、あんなふうになるなんて。


(……ていうか、やっぱり俺、触ってた。完全に……)


 そこに気づいた瞬間から、もう逃げられなかった。


 『翠の肌に触れた』という事実が、指先に焼きついたまま消えなくて。胸の奥が熱く、全身がむず痒くて、どうしようもなかった。


 ごろんと寝返りを打って、天井を見上げる。


「……明日、顔合わせられる気がしないんだけど……」


 それでも、やっぱり、会いたいとも思ってしまう。だからこそ余計に、眠れなかった。


 ーーーーーーーーーーーー
 ーーーーーーーー
 ーーーー


 翌朝、学校の昇降口で、顔を合わせた瞬間、空気がぴたりと止まった。


「……おはよう、翠」
「……うん。おはよう」


 翠は視線を合わせてくれない。だけど、俺もどこかぎこちなくて。並んで歩いても、肩の距離がいつもより、少しだけ遠い。


(……これ、絶対お互い意識してるやつじゃん……!)


 横目でそっと翠を見れば、ちょうど翠もこっちを見ていて、慌てて目を逸らす。その動きまでが、全く同じで思わず声が漏れる。


「あ……」


 先に口を開いたのは、翠のほうだった。


「き、昨日のことなんだけど……」
「あっ、えっと! あれは……その、事故っていうか……!」
「う、うん……そう。事故……だよね……」


 事故。そうやって言い訳しながら、核心へ触れないまま、お互い曖昧に濁す。『触れた』ことも、『ドキドキした』ことも、そしてーー『気持ち悪くなかった』ことも。


 どれも言葉にはできなかった。


(……なかったことに、したい。でも……なかったことには、できない)


 確かに、空気は変わっていた。でも、それをどう言えばいいのか、分からなくて。ただ、目を逸らしたまま、気まずさだけがその場に残った。


 HR前のチャイムが鳴って、話はそれきりで終わった。それでも、昨日の、あの時の翠の顔の残像が、ずっと頭から離れなかった。


 ーーーーーーーーーーーー
 ーーーーーーーー
 ーーーー


 ーー1時間目


 教科書を開いて、先生の声を『聞いているつもり』で。でも、内容なんて一文字も入ってこなかった。


(やっば……全然集中できない……)


 いつもなら普通に聞いているはずの授業なのに、今日は全然ダメだった。文字がぼやけて、ペンは動かない。


(ていうか……席、近くね……?)


 名簿順の席が、急に呪いに思える。視線を向ければ、すぐそこに翠の後ろ姿があって。細くて綺麗な首筋。意外としっかりした肩。さらさらの、艶のある黒髪。


 全部、見慣れたはずなのに。昨日の『あの距離』を思い出してしまって、視界の中の翠が、異様に色っぽく見える。


(あ~~~~~~! 考えるな考えるな考えるなぁあぁあっ!!)


 額を押さえて深呼吸する。でも、浮かんでくるのは、翠が倒れてきたあの瞬間で。シャツ越しに触れた腕、膝ーーそれから、ほんのわずかに触れた唇。


(や、やっぱ触れてたよな……? ていうか……あれ……やばっ……)


 座ってるだけなのに、変に汗ばんでくる。翠の唇、翠の表情、あの早くなった呼吸。全部が、反芻(はんすう)するたびに、胸を締め付ける。


 それに、耐えきれず、机へ突っ伏した。


「ーーっ、ーー瀬、成瀬!!」
「っ?! は、はいっ?!」


 肩が跳ねて、思いっきり席を立つ。や、やばい!! 完全に思考が遥か彼方に飛んでて、先生の話なんて一文字も聞いてなかった!!


「……教科書の、このグラフの変化。どう読む?」
「あっ、その、えっと……これは……ヒストグラム……? ピクセルの数……? いや……照度?」
「お前は何を言ってるんだ」


(うわぁああああ……)


 言葉がまったく出てこない。頭が真っ白で、ただ立ち尽くしてる俺に、翠がちらっと振り返って、さりげなく、俺の教科書のページを指でトントンと叩いた。


(……ありがとう……)


 昨日あんなにテンパっていたのに。こういうときは、ちゃんと冷静で。翠はずるい。


「……あっ、はい、すみません。風向きの変化に伴って、気温が……」


 なんとか答え直すと、先生は「まぁ……そうだな」と呟いて次へ進んだ。その瞬間、全身の力が抜けて、ドッと溜め息が出た。


(……死ぬかと思った……)


 視線を前に戻すと、翠はこちらを振り返ることもなく、黙々とノートを取っていた。


 横顔も、その指の動きも、昨日と変わらない『いつもの翠』なのに。それを見ている自分の目だけが、昨日よりずっと熱を帯びている気がして。


 もう『ただの友達』の顔なんて、俺には出来そうになかった。